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あざといドンデン返しは是か非か? ~コフィン・ダンサー~

 このところ、アニメやフィギュアなど、柔らかめ?の話が続いたので、久しぶりに本の話をします。

 この年始に、どこの局であったか、地上波民放深夜枠で映画「ボーン・コレクター」(1999年制作)を放映していました。

 主演:デンゼル・ワシントン(若々しい!)、アンジェリーナ・ジョリー(ほぼ映画初主演の初々しさ)

 これについては、別項で書こうと思いますが、ご存じない方のために、ざっと説明すると、優秀な捜査官であったリンカーン・ライム(デンゼル・ワシントン)は、捜査中の事故で脊椎を損傷し、首から上と片方の指先だけしか動かせない身体になってしまう。

 しかし、頭脳の明晰さはそのままで、彼は、ベッドに寝たまま、持ち込まれる様々な物証(情報じゃないところがミソ)をもとに、緻密な推理を組み立て、犯人を追い詰めるのだった。

 その彼の「身体の一部」として、実際に現場に出向き、掃除機をかけて細かい物証を収集する若き美貌の女性捜査官アメリア(アンジェリーナ・ジョリー)との出会いを描いたのが「ボーンコレクター」でした。

 そのシリーズ二巻目が、この「コフィン・ダンサー」です。

 題名の由来は、今回の犯人である、決して姿を現さない正体不明の殺し屋の、唯一判明している特徴が、腕に彫られた「棺桶(コフィン)の前で踊り子が踊る」図柄のタトゥだからです。

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 オビに書かれた惹句(コピー)↑でもわかるように、この犯人も、精神が壊れかけた異常者っぽいですね。

 まあ、実際そうなんです。

 ディーヴァーは、ちょっと異常を来した犯人(ミスリード用のオトコだとしても)が好きなんですね。

 しかし、作家ジェフリー・ディーヴァーの、一番の特徴は、その『あざとい』とさえ言える、というか、『エエ加減にせぇや』というほどの「無理矢理っぽい」ラストの大ドンデン返しなんですね。

 だから、コフィン・ダンサーも、目に見える「それらしい犯人」以外に、さらに隠れた犯人がいるわけです。

 あ、これって、別にネタバレにはなりませんよ。

 だって、また別項で紹介するつもりの、ディーヴァーの「悪魔の涙」もそうだし、まあ、彼のほとんどの作品がそうなんですから。

 だから、結局、犯人っぽくない人物の中から真犯人を捜すわけですが、これが、当たらない。

 そこが、ディーヴァーのディーヴァーたる所以なのでしょうが、何度も繰り返されると、だんだんハナについてきますね。

 まあ、多くの人は、この「やられたぁ」感を感じたくて、ディーヴァーの作品を読んでいるような気がしますが……

 普段、わたしは、翻訳された不自然な文章(二、三十年ほど前に比べたらマシになりました)が、あまり好きではないので、外国の訳本はあまり読まないのですが、このシリーズの訳者に関していえば、あまり妙な言い回しを使わない人なので、読みやすいと思います。

 美しくない、変な日本語を読まされるぐらいなら、米アマゾンのサイトで、英語版テキスト・データを買って、iPad2のキンドルアプリで読んだ方がましです。

 おかしな訳より、英語の方がよほど意味がわかりやすい。

 しかし……

 余談ながら、書いておくと、

 昨年、アップル社が、必ずアップルストア経由でないと、ブックデータを買えないように規約を変えたため、以前は可能だった、iアプリから直截アマゾンサイトのデータを買うことができなくなってしまいました。

 その結果、ブラウザを使って米アマゾンのサイトに行き、あらかじめデータを購入(だいたい5ドル程度です)しておいて、あとからiアプリを開いてiPad2にダウンロードする、という二段構えの面倒くさいシステムになってしまいました。

 そろそろキンドルを買うべきかもしれませんね。

 ともあれ、この現代の「隅の老人」「鬼警部アイアンサイド」「ママ」ともいえる安楽椅子探偵(アームチェア・ディテクティブ)リンカーン・ライムと、凄腕の殺し屋コフィン・ダンサーとの戦いは、読んで損はしないと思います。

 本の体裁として、ハードカバーなら450ページ一冊(1857円)、文庫なら上下の二分冊なので、わたしはハードカバーをアマゾンで買いました。

 いずれは自炊して、電子化することになると思いますが、ハードカバーはカットしにくいのですね。

 ついでに書いておくと、リンカーン・ライムシリーズは、

1.ボーン・コレクター
2.コフィン・ダンサー
3.エンプティー・チェア
4.石の猿
5.魔術師(イリュージョニスト)
6.12番目のカード
7.ウォッチメイカー
8.ソウル・コレクター
9.The Burning Wire(未訳)

の9冊が刊行されています。

 ディーヴァーは、安楽椅子探偵ライム以外にも、文字から人格を特定する筆跡鑑定人キンケイド(悪魔の涙)、仕草からウソを見抜くキャサリン・ダンスなど、数人のヒーロー、ヒロインを生みだし、作品によっては、それぞれのシリーズにクロスオーバー出演させることもあります。

 実際には、キャサリン・ダンスは、ライムシリーズのウォッチメイカーで脇役として登場し、人気があったため、スピンオフの形で「スリーピング・ドール」という作品が書かれシリーズ化したわけですが。

 ディーヴァー作品は長編なので、読むのはちょっと、という方は、上記映画「ボーン・コレクター」から入られると良いかも知れません。 

20世紀青年は去っていった サリンジャー死す

 サリンジャーが亡くなりましたね。

 サリンジャーといえば、The Catcher in the Ryeの作者ということになるのでしょうが、実をいうと「ライ麦畑でつかまえて」という作品には、とりたてて感想がありません。

 あれは、わたしの中では、ダザイ作品やカミュの「異邦人」あたりと同列に並べられているのですね。

 なんというか、なんだかよく分からないヒトが主人公の話。

 まじめな愛好者にとっては、トンデモない話ですが、まあ、個人的にはそうです。

 おそらく、わたしには、彼らの発するメッセージを受け取るチャンネルが欠けているのでしょう。その能力がない。

 しかし、The Catcher in the Ryeには、特別な思い入れがあります。

 それは、わたしが中学生の頃に読んだある書物にこう書かれていたからです。

 配偶者を求めております。

・ごく贅沢に育てられたひと
・ただし貧乏を恐れないひと
・気品、匂う如くであること
・しかも愛らしい顔だち
・エロチックな肢体をあわせ持ち
・巧みに楽器を奏し(ただしハーモニカ、ウクレレ、マンドリンは除外す)
・バロック音楽を愛し
・明るく、かつ控え目な性格で
・アンマがうまく(これは大事だ!)
・天涯孤独であるか、ないしはごくごく魅力的な家族をもち、(美しい姉や妹たち)
・ルーの下着、エルメスのハンド・バッグ、ジュールダンの靴を愛用し

・サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が一番好きな小説で

↑これです。

・片言まじりの外国語を話し
・当然酒を飲み
・料理に巧みでありながら
・なぜか、カツパン、牛肉の大和煮、などの下賤なものに弱点を持ち
・猫を愛し
・お化粧を必要とせず
・頭がいいけれどばかなところがあり
・ばかではあるが愚かではなく
・まだ自分が美人であることに気づいていなく
・伊丹十三が世界で一番えらいと思っている
・私よりふたまわり年下の少女

 文中にあるように、これは伊丹十三、31歳当時のエッセイ「女たちよ!」に書かれた文章なのですが、この中の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」ってのが、当時のわたしには、なんだかよく分からず、でも、かくも魅力的(男が考える自分勝手な魅力ですが)な女性が読むのだから、すてきな小説に違いない、と思ってすぐ手に入れて読んでみたのですが……というトコロです。

 伊丹氏は、別なエッセイで、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を原書で読む女性が良い、とも書いていますね。

 なんだかよくわからないと書きながら、わたしも原書をもっていますし、それも読みましたが……やはりダメでした。

 訃報に接した日本の文学者は、

「文学的にはもう死んだと思っていた。生物学的な死が追いついた気がする」

と、学者的に突き放したコメントを発しています。

 あるいは、愛憎(もっとたくさん書いてくれよっていう)半ばする気持ちがいわせた言葉なのでしょうか。

 ともあれ、ご冥福をお祈りいたします。

矛盾を孕んだラジオ・ドラマの小説化 ~「告白」(湊かなえ)~

 人間、怒ってはいけません。

 だからといって、リョーカン和尚みたいにいつもニコニコ笑っている……あ、これは『雨ニモマケズ』だった、子供の頃の記憶で、わたしは『雨ニモマケズ』と『漂泊者の歌』は暗唱できるのです(あとボーイスカウトの掟も……)、いや、つまりニコニコしているだけで良いとは思っていません。

 怒るべき時には怒るべきです。

 若者なをもて怒髪天を衝く、いはんや老人をや……

 と「老人正機(ウソ)」っぽくなってしまいますが、つまりわたしは怒っている老人が好きなのすね。ニコニコしている年寄りは、どうも怪しい。

 だから、わたしは、映画「スカイクロラ」のスピンオフである「スッキリクロラ」(本編より好きです)で語られる箴言(しんげん:戒めのコトバ)

「老人は、大抵さみしそうな顔をしながら、復讐の機会を窺っている」

が好きなのですよ。

 個人的にはアドレナリンが体内を駆けめぐる感覚は好きですし、生きている実感は、穏やかな時より激情の時にこそ感じられると思っています。

 あれ、いつの間にか、最初に書いたことと反対のことを力説していますね、アブナイアブナイ……

 まあ、怒る時にもTPOが必要だということですね。

 怒りは内燃機関に投入されたニトロと同じ働きをします。
 暴走して、シリンダー内部やエンジンそのものを傷つけてしまう。

 さらに、人は一度口から出したコトバを引っ込めることはできない。

 そう、人は、怒りというパワー・ブーストの暴走の中で、往々にしてマチガイを犯してしまうのです。

 だから、このブログでも、人や作品の気に入らない点をとりあげるのではなく、なるべく良いところを取り上げるように努力はしているのですが……なかなか思い通りにはいきませんね。

 それでも悪口はいけません。

 なぜなら、人は欠点をあげつらう時、往々にして間違いを冒すからです。

 褒めている時、人は過ちを冒さない。

 けなす時に、的外れな間違いを冒すのです。

 その原因は、おそらく上でも書いた、悪口をいっている間に思考が暴走してしまうからでしょう。

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 さて、今回とりあげるのは、湊かなえ氏の「告白」です。

 随分前に手に入れて、これについて書きたいと思っていたのですが、どういうわけか、書くことがためらわれてなりませんでした。

 どうしてだろう?

 オビには、
「週間文春'08年ミステリーベスト10 第1位」
「この冬、読んでおきたい、とっておきミステリー 第2位」
「このミステリーがすごい!09年版 第4位」
などと、錚々(そうそう)たる単語が踊っています。

 もともとは、小説推理新人賞の受賞作(一章)で、それに二章~六章を付け加えて一冊の本にした作品だそうです。

 前評判の良さに手に入れたこの作品ですが(それにわたしがとれなかった賞の受賞作ですし)、読み始めてすぐに、後悔しはじめました。

 文体が一人称だったからです(主人公目線の文章表記「わたしは~」という書き方ですね)。

 以前に、どこかで書いたことがあるかもしれませんが、もうずっと以前、小説を書き始めたころ、わたしは「三人称小説」を書くことができませんでした。

 一人称しか使えなかった。

 いわゆる「視点の固定化・移動」「神の目」といったテクニックを使いこなせなかったのです。

 時間をかけて書き続けるうちに、なんとか扱えるようになったような気がしますが、まだ自信がありません。

 そういった理由もあって、人の文章を読むとき、その文章スタイルが気になるのです。

 一人称なら、自分の目からみた事象、自分の考えだけを詳細に書き、他者の行動にはフィルターをかけて、もっともらしい謎にすることができます。

 ミステリも簡単にかける。

 だって、自分以外の登場人物が、事実を知っていながら、黙っているだけで、スゴイ謎があるように書けるじゃないですか。

 この間までやっていた、テレビドラマ「トライアングル」なんぞは、その最たるものでしたね。

 正直にいって、わたしは登場人物が「黙っているだけで生じる謎」を扱うプロット、そして、それを簡単に実現できる「一人称小説」というのが好きではありません。

 だからこそ、一般的に「良い一人称小説」を書くのは難しい、といわれるのです。

「黙秘ミステリ」的安易な道に走らず、クイーンの「Yの悲劇」的奇策に走らないで意表をつく作品にするのは容易ではありません。

 しかし「告白」は一人称で語ってしまった。その結果は、読めばおわかりになると思います。

 もうひとつ、わたしは(舞台・あるいはラジオドラマ)脚本家の書く小説、というのもあまり好きではありません(『彼らの書く小説』がです)。
 
 特にミステリには(もちろん、その全てということではありませんが)欠点が多すぎます。

 舞台という、シチュエーション・ミステリ(限られた舞台設定のなかでのミステリ)で培われた思考ゆえか、彼らが書くプロットは、ミステリとしては、穴だらけの我田引水的な論理に終始することが多いように思えるのです。

 舞台でよく使われる、朗々たる独白を用いれば、一人称小説は比較的簡単にかけるでしょうし、ラジオドラマなどの脚本(わたしも書きますが)は、容易に一人称小説に変更できます。

 そして、脚本家転向組の作家が増えていく。

 こういったことの根底には「脚本では喰えない」という理由があります。

 脚本は、舞台にかけられないと日の目をみませんが、小説にすれば、それだけで商品になり得るからです。

 そういった考えもあってか、以前にもまして脚本家の書く小説がたくさん世にでるようになっていますが、その多くが文章文体にクセがあり、プロットに無理があるような気がするのです。

 湊かなえ氏の略歴をみると、やはり彼女も、もともと脚本畑の人でした(もちろん、多くの脚本家同様、かつては文章を書いていたのでしょうが)。

 「告白」も、いかにも、はじめはラジオドラマの脚本として書いて、急遽小説にしました感のある文章です。

 第一章が、教師による現実味の薄い「恫喝」で終わり、

 第二章以下、「わたし」を生徒あるいは生徒の姉弟の目線に変えつつ、連作として六章のラストまで持っていくのですが、末節にこだわった、粘着質な、いやはっきりいってキショクワルイ人間関係と、じめついた思考回路は好みの問題だから仕方がないとしても、ミステリとして読んだ場合、あり得ない起きえないシチュエーションの連続で、読むのが辛くなってきます。

 少なくとも自分じゃ、あんなプロットは作ることはできないなぁ。

 読まれた方ならお分かりでしょうが、ある秘密を知ったクラスの全員が、家族およびクラス外の友達あるいは「掲示板」にさえ、何ヶ月にもわたって一切その秘密を漏らさない、なんてことがあるでしょうか?

 それは、論理の穴というより致命的な欠陥ですね。
 よく出版社の担当が許したなぁ。

 一過性のラジオドラマ(あるいはテレビドラマ)なら許されても、小説として上梓(じょうし:出版の意)するのは困難な作品のように思えるのですね。

 まあ、いずれにせよ、この作品も映画化(あるいは、ちょっと下がってテレビドラマ化?)はされることでしょう。特に、一過性のテレビドラマなら、そのドラマチック性で良い評価を得ることができるかもしれません。

 あれ、上の書き方って悪口っぽくみえますね。しかもちょっと怒っているような。
 

 わかった、この作品について書けば悪口になるから、書くのがためらわれていたんだ。

 えーと、「告白」
 後味は悪いですが、スーと読み終える分には、面白いところもある作品ですよ。

 以上、告白させていただきました……けど、的外れ、かな?

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