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「カウボーイ&エイリアン」 ~ネイティブ・アメリカンは知的な仲間~

「カウボーイ&エイリアン」を見ました。

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 原題「ALIENS and COWBOYS」から分かるように、ひとりの英雄が、一匹の強大なエイリアンをやっつけるプレデター(当然シュワルテネッガー主演のpart1)タイプの映画ではなく、大勢のエイリアンとカウボーイ軍団との『戦争』映画です。

 映画館で予告を観たときの印象が強すぎたのか、てっきり、現代からタイムスリップした男がカウボーイとなって、エイリアンと戦う映画なのだと思っていたら、まるっきり違いました。

 ここからはネタバレが多数あるので、映画を楽しく観たい方は、読まない方がよいかもしれません。

 まずは、公式サイトの予告をどうぞ。

  http://www.cowboy-alien.jp/

 DVDが全部借りられていたので、ブルーレイをレンタルして観ました。

 続けて二度観ました。初めはカウチっぽくポテトっぽくソファに座って、サラウンドを聴かせてじっくりと。

 二度目は仕事をしながら、監督のコメンタリーに切り替えて……

 監督のジョン・ファブローは、アイアンマンシリーズの監督だそうですが、さもありなん、ジェームズ・ボンド役者の、というか、ライラの冒険パパのダニエル・クレイグ演じる主人公は、銃ならぬ、腕に装備したブレスレットから、光線を発射して敵を倒すのです(写真参照)。

 それが、アイアンマン1で印象的だった、腕からペンシルミサイルを発射して敵戦車を破壊する、あのシーンそっくり。

 しかし、ダニエル・クレイグという役者も、クセのある人だなぁ。

 「あるタイプ」の演技しかできない(ように見える)。

 なんというか、説明・言い訳をまったくしない、「男っぽさ」をウリにしたmasculine一辺倒の役作り。

 JB(007)もそうだったし、ライラのパパ役の時もそうだった。

 そのあたり、「WOLF」で気弱い男が狼にかじられて、徐々に乱暴な狼男になるという役を演じた時でさえ、観る者に「おいおい、最初から妙にアクが強くクセのある、全然気弱くない男じゃないか、ニコルソン」と思わせた、ジャック・ニコルソンに似ている。

 彼の場合、その『地』で演じる役柄がぴったりと映画にはまっています。

 映画冒頭、なぜか記憶を失い、荒野で目覚めた主人公は、街に戻って、自分がおたずねものであることを知ります 

 しかし、例によって、クレイグはあまり動揺しない。

 それどころか、英語を話す能力以外の記憶を失いながら(自己分析)も、開演二分で、襲ってきた無法者数人を、あっという間に返り討ちにして殺してしまうという、「L.A.コンフィデンシャル」のラッセルクロウも真っ青な乱暴ぶり!

 つまり、ヒトゴロシが、彼の特質であるわけです。

 なお、この映画、原案と初稿はスピルバーグとロン・ハワードの手が入っているようですが、細かい部分は監督の裁量に任せられているようです。

 コメンタリーで、ファブロー監督が語っています。

「この映画を作るにあたって、スピルバーグから西部劇を観るように言われて、たくさん観たよ。クロサワの時代劇も観たんだ」

 それだからなのか、各シーンがジョン・フォードのパクリであったり、クロサワの用心棒の模倣であったりして、なんだかツギハギの印象がぬぐえません。

 四十四歳にもなるのだから、観たままをそのまま下痢症状的に使わずに、自分の中で咀嚼し血肉と化してから使えば、もっとよくなったような気がします。

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 そして、ダブル主役。最初悪いヤツあとでイイヤツという得な役まわりの、ハリソン・フォード!

 街を、我がもの顔に支配する独裁者。
 インディアン100人殺し(西部劇映画に敬意をはらっての呼称です)の英雄。

 息子を宇宙人にさらわれ、それを取り返すのが、彼の戦闘モチベーションです。

 監督が、コメンタリーで「信じられない!ハリソンがまた宇宙人と闘っている!」と叫ぶのを聴いても、初めはなんのことがわかりませんでした。

 わたしにとってのハリソン・フォードは、まだロン・ハワードが役者として出ていた、ジョージ・ルーカス作「アメリカン・グラフィティ」のチンピラ・ドライバー、あるいはコッポラの「地獄の黙示録」での下級士官、そしてインディ・ジョーンズ、「いまそこにある危機シリーズ」はなかったものとして……とにかく、スター・ウォーズのハン・ソロ役がまったく記憶から抜け落ちていたからです。

 気弱で優しい役のできないクレイグ同様、ハリソン・フォードも悪役が苦手そうです。

 本人は、怖い顔をしてスゴみをきかせているつもりなのでしょうが、どうもチンピラが下手にすごんでいるようにしか見えない。

 この人は、内面はともかく、人の良い役柄しかできないのではないかなぁ。

 映画のプロット自体は面白いと思います。

 インディアンあらためネイティブ・アメリカンと、強盗、かつての騎兵隊員でいまは強欲な牧場主という、本来、相容れない三者が、エイリアンにさらわれた家族を取り返すという、ひとつの目的のために混成部隊を作って闘う。

 日本のコミック・アニメではありがちですが、ひとつの型として、それは良いと思います。

 また、クレイグにからむ、謎の女ミネ・フジコ……じゃなくて、オリヴィア・ワイルド演じるミステリアスな女性エラ・スウェンソンの存在も魅力的です。

 ハリソン・フォードと牧童頭との精神的つながりも感動的。

 エイリアンが人質を逃がさないために使う、催眠光線発生機(実は生物装置というのもgood)の光の副作用で記憶を失うため、解放された人々(主人公も含めて)が、持っていた、もともとの嫌な性格・ダメな性質が改められ、みんなイイヤツになる、というのも面白い。

 なのに、もうひとつ盛り上がらないのはなぜなんでしょうかねぇ。

 ブルーレイで観ると、本当に映像は美しいのです。

 環境ビデオとして使って良いほどに。

 しかし、やはり観終わったあとの印象が、いまひとつ良くない。

 考えられるのは、D・クレイグが、最愛の恋人を目の前で解剖され、焼き殺されたのに、その直後に出会った謎の女エラのことを、ただちに好きになってしまうからでしょうか(たとえ、光線のせいで記憶を失っていたとしても)。

 あるいは、本ブログのタイトルにあるように、ネイティブ・アメリカンの人々に、気を使い過ぎているのを、あざとく感じるからでしょうか。

 個人的に、ネイティブ・アメリカンたちは、西洋文明とは違う、高度な精神文明を築いた種族であると思います。

 しかしながら、現実的に、インディアン殺戮部隊の元実働隊長と、ネイティブ・アメリカンが仲良く共闘するというのは、「そうあれかし」と思いながらも(当時の状況では)現実にはあり得ないことのように思えて仕方がないのです。

 荒唐無稽だと。

 もし、共に闘うとしても、もう少しギクシャクとした、摩擦、軋轢(あつれき)を表現するべきではないか、と思うのですね。

 たとえば、シドニー・ポワチエ&トニー・カーチスの「手錠のままの脱獄」や、ロバート・デニーロの「ミッドナイトラン」のように。

 あるいは、宇宙人の造作(姿・形)がトータルリコールのクアトー(ご存じでしょうか?)のように、通常の腕以外に、胸(あるいは腹)から人間のような手が生えていて、それが模倣のように感じるからでしょうか。

 もう少し詳しく説明すると、エイリアンの両肩から伸びている腕は、太く逞しく大きな爪があって、武器としては強力でしょうが、精密作業には、とうてい向かない形状をしています。

 そこで、彼らは、細かい作業をする時は、強殖装甲ガイバーのように胸の甲羅をパカっと開けて、そこから小さく細い腕を出すのです。

 驚くのは、その腕の間には、青い心臓が脈打っていることです。

 精密作業をする時には、心臓を外にさらけ出して、完全に無防備な状態にならなければならない、という異常な構造の生物が、今回のエイリアンなんですね。

 そりゃあ、あんな無骨でゴツイ三本爪の指をしているエイリアンは、逆立ちをしたって精密な機械など作れるわけがないのですから、どこかに細かい作業をするための指、手が必要だったのでしょうが……

 あ、ひょっとしたら、それかも知れない。

 宇宙人に対する偏見は、持ってはいけないとは思いますが、容姿と戦闘行動から考えて、どうしても、この映画の宇宙人が、あんなロケットを作って異星にやってこられるほど知的であるとは思えないのです。

 いきあたりばったり、戦術皆無の戦い方を観ても、彼らエイリアンが「第9地区」のエビ星人以下の知能しか持たないように見えてしまいます。

 そこに何か違和感を感じるのかも知れない。

 いくら、「やつらは人間をバカにして、敵とも思っていない」とエラが言葉で説明するとはいえ――

 まあ、ともかく、ごらんになられて、同じような感想を持たれた方、あるいは、その理由をご存じの方はぜひお教えください。

 あ、あと一つだけ偏見を付け加えておくと……

 クレイグのカウボーイハットのかぶり方――深すぎませんか?

 ゲイリー・クーパー、ジョン・ウエイン、クリント・イーストウッド、ジュリアーノ・ジェンマなど、スタイリッシュ!?なガンマンたちは、すべてカウボーイハットを浅めにイキに被っています。

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 なのに、クレイグときたら、田舎のおじさんが、「オラ絶対に帽子を風に飛ばされたくないもんで」的に、頭をがっちりとカウボーイハットに押し込むもんだから――本当に、ガンマンならぬカウボーイ(牧童)って感じなんですね。

オーバーテクノロジのレトロ・ヒーロー 好きよキャプテン! ~キャプテン・アメリカ~

 今夜、散歩がてら、ぶらぶらと近くのレンタルビデオ店に行ってみると、先日レンタルが始まって、大人気の「猿の惑星<創世記>」の横に、見たことのないタイトルが。

「キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー」

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 そういえば、映画の予告を観たことがある。

 結構、シリアス調で、わたし好みだったような。

 幸い、20ほど並んでいるディスクのほとんどが借りられていなかったので、たまたま一つだけ残っていた「猿の惑星<創世記>」とともに借りて帰りました。

 帰ってから調べてみると、レンタル開始は24日から。

 だから、いっぱい残っていたんだなぁ。フライングなんだ。

 で、早速観始めて、いま観終わりました。

 鉄は熱いうちに打て、ともいいますので、早速、感想を書こうと思います。

 しかしながら、わたしは熱心なアメリカン・コミックブックの読者ではありませんから、キャプテン・アメリカについては、ほとんど知識がありません。

 放射能を浴びた蜘蛛に咬まれたのか、緑の放射線を浴びたのか、宇宙で特殊な宇宙船を浴びてスーパーヒーローになったのか。

 結論からいうと、キャプテン・アメリカは、ロケッティアと同じで、ナチスドイツと戦う、オールド・ファッションド・ヒーローでした。

 彼が活躍するのは、1942年頃なのです。

 原作は知りませんが、映画では、キャプテン・アメリカの正体は、ナチス・ドイツに対抗する超人部隊を作るために、戦略科学予備軍が行った、スーパー・ソルジャー計画の最初のひとりとして被験者になった、身長160センチの軟弱青年ロジャーです。

 詳細は、公式サイトのオープン動画を観てもらうとして……

 サイトでも書かれているように、そして、わたしが映画館の予告で観て、観てもいいかな、と思ったのは(忙しさにかまけて結局DVDで観ることになりましたが)、なぜ、歴代ヒーローたちはタイツのコスチュームを着るのか、の答えがこの映画で示されているからです。(答えは彼らが、客寄せパン……いや、サイトをご覧下さい)

 それに、ヒロインが魅力的なのがいい。

 レトロな髪形、レトロな容姿、そしてレトロな服装、って軍服ですが……

 個人的に女性の服装は、「フリルひらひら」より「カッチリしたスーツ系の服装」が好きなので、軍服姿(ただしスカートに限る)の女性は好きという、個人的嗜好もあるのでしょうが、

 スーパー・ソルジャー計画が成功して、身長190センチ近くの、筋肉隆々スーパーボディを手に入れたロジャーですが、その能力は、成人男子の4倍ほど、って、他の数トンのクルマを、電車を、戦車を持ち上げる、スパイダーマンやハルクや、地球を逆回転させてしまうスーパーマンに比べたら、ちょっとばかしショボクネ?

 でも、いいんです。

「キャプテン・アメリカ」は、映画「スカイキャプテン」同様、実際の時代より科学の進んだ「オーバー・テクノロジ」設定の映画で、わたしはそういった設定が好きだからです(主観全開でもうしわけありません)。

 彼の敵は、ナチス党内部に創設された、ナチス科学武器開発部ヒドラ党、そのリーダー、ヨハン・シュミット(レッド・スカル)で、彼は、当時のナチスの例にもれず、オカルティックなイコン(まあ、キリストを突き殺したロンギヌスの槍とか、キリストの棺とか、キリストの聖杯とかですね)のミステリー・パワーと科学を融合させたレーザーみたいな究極武器を開発しています。

 それに対して、キズの回復力が優れているとはいえ、常人の四倍の体力の男が対抗できるとは思えないのですが……

 ご存じとは思いますが、現実のナチス党は、近代史上まれに見る、オカルト・ミステリー軍隊でした。

 彼らこそ、マダム・ブラヴァツキーの後継者。本気で、キリストの聖杯を探し求めた希有の軍隊なのです。

 しかし、ヒドラの面々が、両腕を斜め上に突き上げて、「ハイル・ヒドラ」っていうのはどうにかならないかなぁ、と思いますが。

 もうひとつわたしが気にいった点を。

 時代設定が1940年代で、出てくる実験機械のダイアル、目盛り、スライダックなどがレトロ感いっぱい、わたしの大学の実験室にもあったようなものばかりで、それも良い感じなんですね。

 たとえていうと、初代版「ハエ男の恐怖」だとか「ガス人間第一号」(八千草薫演じる踊りの師匠が本当に美しい!)の実験室に似てるんです。これがいい。

 こんな感じです。

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 最後はちょっと悲劇的な結末を迎えますが、これはこれで良いでしょう。

 繰り返しますが、映画の(そしておそらく原作も)設定は、本当に魅力的です。

 主人公ロジャーは、脆弱で小柄で4度の入隊志願を4回とも落とされた兵士不適格者ですが、その精神の強さと魂のタダシサはピカイチな男です(このあたり、ヘナチョコ時代のスパイダーマンに似ていますね)。

 それ故に、スーパー・ソルジャー計画の中心人物、ドイツからの亡命者であり、戦略科学予備軍(SSR)の科学者であるエイブラハム・アースキン博士は、肉体頑健な他の候補者でなくロジャーを選んだのです。

 もともと肉体的に強い、「美女と野獣」のガストンみたいなヤツは、魂の強さを持てず、かえって肉体の優位さを自分の値打ちと勘違いして邪悪さを増大させてしまうものだ、と博士は考えたのでしょう。

 たとえ肉体的には弱くても力に負けない、という精神の強い人間にこそ、強い力を与えるべきだと。

 これは正しい見識でしょう。

 健康で身体能力に恵まれてインターハイなどに出られる学生と、ぜんそくや病気を押して、なんとか登校している学生のあいだに魂の強さの優劣はありません。

 というより、極言すれば、頭角を現すスポーツ選手は『ただ健康でよく動く身体に恵まれただけ』で、身体の動くうちは、イケイケでがんばれるでしょうが、いったん怪我や故障に見舞われると、それに耐えられなくなることが往々にしてあります。

 頑張った上に、もっと努力して成績を上げることは得意でも、思い通りにならない身体を押して人並みに頑張る苦労には耐えられない。

 だからこそ身体に恵まれた、あるいは問題なく生活を送ることができる我々は、そのことに感謝し、ハンディキャップをもつ人々のことを考えねばならないのです。

 横道にそれました。

「キャプテン・アメリカ」

 SFX的には、それほど派手なものはありませんが(なんせ、成人男性の4倍ほどの能力ですから)、主人公の誠実な人柄と相まって、なかなか魅力的な話に仕上がっています。

 あ、ラストのラストまで映像が入っているので、エンドロールが始まったからといって、トイレに立ったり、止めたりしないで、最後まで観てくださいね。

 損しますよ。

 なお、以下のサイトには、「キャプテン・アメリカ」についての素晴らしいトリビアルの記事があります。
 ご覧になってください。

  http://blog.movie.nifty.com/herojungle/2011/10/post-2a46.html

 おそろしく精巧な1/6フィギュアも発売されているようです。
 参考までに写真を掲載しますが、あなた、買いますか?

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アデューはアディオス、さようなら  ~さらば友よ~

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 いま、スカパー:シネフィル・イマジカで、「さらば友よ」(1968France)を放映しています。

 「冒険者たち」同様、子供の頃、深夜映画で観て、強烈な印象を受けたフランス映画です……って、あれ、英語をしゃべってますね。

 タイトルも「ADIEU L'AMI」じゃなくて、「FARAEWLL FRIEND」になってる。

 ああそうか、たまにある、フランス映画の英語吹き替え版、なのだな。

 声を聴くと確かに本人の声ですね。

 ブロンソンはフランス語が話せるし、アラン・ドロンも英語が話せるから問題ないのでしょう。

 これまでに何度か観たものは、すべてフランス語だったので、ちょっと違和感がありますが、言葉が分かるのはいい。

 子供の頃は、なんだか分からないガイコクゴを話していた二人が、分かる言葉で話すのを観るのは、なんだか不思議ですが、その分、映画のミステリアスな(「さらば友よ」のどこがミステリアスというムキもおありでしょうが)部分がなくなってしまったような、一抹の寂しさがあります。

 「ピアニストを撃て」や「勝手にしやがれ」には、それがあるのですが、って、それはおまえがフランス語をわからないだけジャン!

 あらすじ、その他はここらへんでどうぞ↓。

 記憶では、男臭いだけの「咳してもガイ二人」というカンジの印象があるのですが、前半の、ブロンソンがプロデュースするパペット・ヌードショウ(金髪美人を人形に見立ててストリップ・ティーズさせるやつ)や、医師ドロンが行う健康診断で、女性たちがトップレスっぽくなるシーンなど、結構オンナくさい(って、つかっちゃダメなのかな)映画だったんですね。

 登場する喫茶店などが、70年代を先取りしたような、プラスティック製品多用オレンジ一色センスで、懐かしさに、なぜか切なくなってしまいますが、それより、ドロン演じる医師が、ビルの窓から眺めるフランスの街並みの方が、胸を締め付けます。

 なんでもない、ビルの並ぶ都会の風景なんですが、なぜでしょうか。

 この映画の10年前に撮られた「死刑台のエレベーター(1958)」にも、同様な景色が出てくるのですが、それほど感慨は感じないのです(モノクロ映像だからかも知れませんが)。

 あるいは、60年代フランスの都会の街並みは、70年代日本の先取りでもあるからでしょうか。

 そういえば、「地下室のメロディ(1963)」の冒頭シーン、例の印象的なメロディに乗って、ムショから出所したジャン・ギャバンが歩くパリの街並みは、無機質なビルが闇雲に建設されつつある、まるで大阪万博前後の日本の建設ラッシュのようでありました。

 youtubeで見つけましたが、なんと、着色されてる!
 ちょっと、印象が変わるなぁ。↓

 もうすぐ、映画が終わります。

 いずれにせよ、色調の美しい、印象深い名画であるのは確かです。

 願わくば、「死刑台の~」のように、時代を現代に移した、デキの悪い日本製のレプリカが作られませんように。

 蛇足ながら付け加えると、子供の頃、ラストの、ドロンの表情の意味がわかりませんでした↓。

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 今や、あれを「スタイリッシュな演出」として、持ち上げるのが当然ということになっているようですが、わたしは、その前の「タバコの火付け」の方が好きなのです。

 ドロンの叫ぶ、「弾は残っていないんだ!」は、「理由なき反抗」におけるジェームス・ディーンのラストのセリフ、「弾は抜いたのに!」とオーバーラップしますね。

 どちらも国家権力によって、犯人は射殺されてしまう……

 さあ、映画が終わりました。

 おう、オヤジ、酒とカップとコインで賭をしないか!?

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