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結局きみは何をいいたかったのかね

本当なら、今日のテーマは、ハイデガーとフッサールの師弟関係、あるいは、ハイデガーとワグナーのナチスに対する関わりかた、または――

 のをあある とおあある やわあ
 「犬は病んでゐるの? お母あさん。」
 「いいえ子供
 犬は飢ゑてゐるのです。」

 ギリシア、スペインのような欧州だけでなく、アメリカ経済がいかに病んでいるかについて、書こうと思っていたのですが、時期というか、旬を逃してはいけないので、不本意ながら、最終回を迎えたアニメ「峰不二子という女」について書こうと思います。


 先週末に最終回を迎えたこのアニメ、観終わって最初に思ったのは、

「なるほど、そういうトコロに落ち着かせましたか、しかし――だとすると、結局、今回の話はいったいなんだったのかね」

でした。

 以後、ネタバレをしてしまいますので、自分で番組を観て楽しもうと思っておられる方は、お読みにならないでください。

 

















 ざっくりいって、ぶっちゃけたはなし、いや結局のところ、今回の峰不二子は、しばらく前に、フロイライン・オイレ教団の「フラフラの秘宝」を盗むため、ルイス・アルメイダの館にメイドとして潜入したところを逆に捉えられ、彼の開発した「高度な洗脳による記憶の改竄(かいざん)」によって、ありもしない記憶をうめこまれただけ、だったのですね。

 視聴者を惑わせるためだけに制作者側が持ち出してきた、思わせぶりな、まるっきりできそこないのイッツ・ア・スモールワールド似のカラクリ人形による「みーねーふーじーこー」の大合唱や……


 あるいは、世界中で誘拐され、不二子に似せた姿に変えられた娘たちは、物語のシノプシスにはなんの関係もない、視聴者をミスリードするためだけに設けられた「あざとい」仕掛けにすぎなかった。


 で、「なぜ、黒幕は、そんな、ヤヤコシイことまでしてしまったのか」といえば、アルメイダによって本当に人体実験された、主任研究者のdaughter(ドーター:娘)「アイーダちゃん」が、記憶を捏造され改造され改竄されて、廃人同様になった頭で、「そうしたい」と考えたからだ、だなんて……


 もう制作者たちは、ストーリーを構成するのを放棄したと考えるほかはないですね。


 だいたい、このアニメは、ドイツ語と英語をゴッチャに使い過ぎて気持ち悪い。

 娘をフロイラインと呼ぶなら、女の子はdaughter(ドーター)ではなく、die Tochter(トホター)と呼ぶべきでしょう。

 麻薬の事故のために消滅した町の名が、ドイツ人なら知らぬもののない道化者「
Till Eulenspiegel(ティル・オイレンシュピーゲル)」からとっているのも、なんだか気持ち悪いしなぁ。
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ティルオイレンシュピーゲル

 で、最後は、この数ヶ月の記憶の改竄なんてどうでもいいの、わたしは、結局、わたしのやりたいように生きてきただけだから――


 が、結論ですか?

 で、ラストに、ファンサービス(になってないけど)として、ルパン三世の「不二子ちゅぁーん」というシャウトでおわりぃ?


 監督や脚本家は、しめしめ、これで、うまく後のルパンシリーズの不二子へ繋(つな)げることができた、なんて悦に入ってるんじゃないだろうなぁ。


 まあ、結果的に、病的な出自の峰不二子、というセンは、なんとか避けることができたのですが、そのかわり、どうしようもないご都合主義だらけの話になってしまいましたね。


 結論からいえば、監督以下は、こういいたかったのでしょう。



 彼女は、生まれて峰不二子になったのではない、

               峰不二子として生まれてきたのだ




 まさか、彼らは、それでうまく話を「シメ」に持っていったとは思ってないでしょうねぇ。

 いずれにせよ、この作品は、ルパンシリーズの異端、黒歴史系に所属するのは間違いないところでしょう。残念です。

草食系男子考 劇場版「東のエデン1」

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 映画版「東のエデン1(本当はローマ数字)」をDVDで観ました。

 英語タイトルは、「King of EDEN」、エデンの王です(上記、小説表紙にひは「失楽園」とも書かれていますね)。

「2(ローマ数字)」は、今、映画館でやっています。

 テレビシリーズについては、以前に、このブログでも書きましたが、
  http://cgi.kabulaya.com/cgi/hokanko/diary.cgi?no=423

 その直後からの話が、今回の映画ということになります。

 地上波放送版については、上記ブログを読んでもらえればよいので省略しますが、ナカナカナカ良いデキでした。

 今回の映画についても、全体の感想としては、まあまあという感じです。

 最初に、ヒロイン?の考えられない格好と行動(ヒラヒラのミニスカートで、パスポートを、チャチなハンドバッグに入れ、NYのタクシーに一人で乗り、パスポートごとバッグを置き忘れる)で、どんだけバカ娘なのだコイツは?と気分が悪くなりかけましたが、まあ、これがイマドキの女子大生の等身大の姿なのカモ、と我慢して観ていると、すぐに主人公が颯爽と現れて彼女を救い、ストーリーがテレビ放映の雰囲気になりました。

 えーと、ということは、もしこのストーリーが、何でも分かっている滝沢朗(アキラ)(シティハンター冴羽あるいは銀魂の銀さんの役ドコロです)が出てこないと、単に何も分からず右往左往するだけのバカ娘の話になるってことかな?

 と書いていて気づきました。

 この映画は、女性の側から観た理想の男の子を描いた話なんだ、と。

 いやぁ、すっきりしました。

「ノブレス・オブリージュ」だとかセレソンだかクレソンだかと、ややこしいことをいっていても、所詮は、イキナリ金と力を12人の人間に与えてそれを見守るゲームが軸となる話です。

 だいたい、「突然100億手に入れた男の話」だとか、「悪魔か神から、悪の力と善の力を手に入れた二人の男の戦い」なんてのは、マンガ青年誌の基本路線です。

 それを、「攻殻機動隊スタンドアロンコンプレックス」の神山氏がどう扱うのか、と思ったら、結局はオーソドックスな話だったので、不思議に思っていました。

 テレビ版キャッチフレーズの「この国の"空気"に戦いを挑んだひとりの男の子と、彼を見守った女の子の、たった11日間の物語」(今回の映画開始時で、すでに半年が経っているので印象的な「11日間の~」はもう期限切れですが)における「この国の空気」あたりを、ニートと社会を支配する大人(アガリを決め込んだ奴ら)と表現し、ゆがんだ形の世代間闘争として描こうとしたのは、いかにも神山節なのですが、いかんせん映画では、そこのトコロがほとんど描けていません。

 だから、映画を(1だけですが)観終わって感じるのは、すっきりした草食系の男の子に憧れて、何もわからないまま、何もできない無能な女の子が、キャーキャー叫びながら、ただ好きな男のにくっついているだけ、という印象なのですね。

 つまり、裏を返せばこういうことです。

 この映画は、突然100億とそれを使う力(人工知能ジュイス)を与えられた12人の抗争劇ではなく、そんな大きな力を与えられても、それを間違った方向に使わず「正しい方向?」に使う草食系男子に憧れる女の子の話、なんですね。

 メリーゴーラウンドの「ゴールデンリング」がらみの、ラブラブストーリーを観ていると、つくづくそう思いました。

 過度に感情に走った、激した言動をせず、穏やかな話し方を変えない男の子。

 金と権力を与えられても、私的な欲望にそれを使わず、「タダシイコト(女の子から見て)」に使うカレ。

 警察に捕まっても、ブタ箱などにはいるという(女の子の夢を壊す)ことなどなく、記憶を失ってノブレス携帯も手放し、NYにいても、スッキリした服装で豪華な部屋に住んで金に困らない男の子。

 過去もよく分からないけれど、何かデカいことをやっている様な男子。

 でも草食系。

 「King of EDEN」は、凡庸で、ちょっと屈折し、扁平な顔をした女子大生(これは「ハチミツとクローバー」の羽海野チカがキャラクター原案だからしかたがない)が、いかにも憧れておっかけそうな男の子を描いた「ガールミーツボーイ」ストーリーなんですね。

 さて、2はどうなるのでしょう。

 チマタの評判では、大風呂敷広げすぎて、収集がつかなくなって破綻しているとのことですが、まあ、DVD待ちかな。

 しかし、この映画の公式サイトのわかりにくさは、なんとかならんかな。

 http://juiz.jp/special/

 情報を提供することを拒絶した、美麗なだけの変なフラッシュサイトの典型だなぁ。

 このサイトを見た時点で、この映画はマイナー評価を抜けられないって感じがするね。

 そうだ、ここで、ついでに草食系男子についての個人的見解を書いておきましょう。

 基本的に女性は、記憶を感覚に頼るイキモノだといわれています。

 だから、嫌なこと、辛かったことを忘れない。

 気持ちよかったこと、楽しかったことも覚えている。

 逆に、男は言葉でモノゴトを伝えようと伝えようとします。

 子供や女性に、「優しい言葉」を「きつい調子で」投げかけると彼女たちはそれを嫌がり、「きつい内容」を「優しい口調」で諭すと、それほど気にしないという実験結果があります。

 まあ、実験などといわずとも、女性とつきあったことのある男性なら、そんなことは知っているでしょう?

 これまでは、「男なんてそういうものだから、女性はそれに合わせて我慢するのだ」という社会通念があったのですが、戦後を25年ほど過ぎた頃から「それは社会が間違っているのだ」と考える風潮が強くなり、社会的性差是正の動きとともに、女性は嫌なモノを嫌といえるようになってきました。

 ともかく、女性は変わった。

 それはいい。

 おそらくそれが正しい方向なのだから。

 問題は、男性の方が、なかなか現実についていけなかったということです。

 社会通年的、世相的に強くなった女の子に対して、男の子たちは、今までの行動文法が適用できず、過度に女性の好み(上で書いた、怒鳴らない、大声を出さない、いやらしさを表に出さない等の滝沢的行動)に迎合した結果、「一時的に出来上がった」若年男子の行動原理が草食系男子的行動パターンではないか、そうわたしは考えています。

 そんなことメンドーだぜ、という男の子たちは、現実のウルサイ女性たちから目を背け、アニメやゲームなどの、二次元美少女と向き合っているのでしょう。

 ああ、そうだ、もうひとつ。

「良い女」についても書いておきましょう。

 学生の頃、女友だちから「良い女ってどんな人」と尋ねられて、ガキのわたしは答えることができませんでした。

 いまなら、アウトラインは答えられます。

 それは、

「(特に)仕事で男と向き合う時に、男の文法で思考し、判断し、つきあうことのできる女性」

ということです。

そして、

「仕事を離れたら、女性らしさ(女性文法、というか直感的な思考法)を取り戻す」

ことも必要なのかな。

 そのバランスと切り替えが、うまくできる女性が(男から見た)良い女なのではないか、と最近のわたしは考えています。

 もちろん、女性が考えるハンサム・ウーマンは、それとは違うでしょう。

 あくまで、男の目からみて、対等に話しやすく、つきあいやすい、という意味の「良い女」です。

 それを勘違いすると、トゥームレイダー2(映画)のララ・クロフトのように、ガニ股、大股で歩いて、机の上のアシをのせ、人を殴り蹴る、ただのガサツ女をカッコイイと思ってしまうのですね。

孤独な英雄は死んだ

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 以前、コミック版「コブラ」の扉に「孤独な英雄コブラの闘い」と書いてあるのをみて違和感を覚えた事があった。

 当時のわたしにとって、コブラは、脳天気なお調子者、出鱈目で行き当りばったりの陽気な男、ヤルこと為すことうまくいく苦労知らず、にしか見えなかったからだ。

 だが、後に、曲がりなりにも自分で「チームワーク・キャプテンではない英雄モノ」を書くようになると、そいつは孤独にならざるを得ないことがわかってきた。

 そも、チームワーク・キャプテンの英雄とは何ぞや?

 つまり、あるグループの大将としての主人公だ。

 代表的なものは、バスケットボールやサッカーなどのスポーツモノ・ヒーローだろう。

 キャプテンなんとかとか、スラムかんたら、というアレですね。

 「魁男塾」なんてのもそれでしょう。

 あるいは「海皇紀」のファン・ガンマ・ビゼンなぞもそれにあたるな。

 彼らは英雄ではあるが、かなりの部分「ミコシにのる英雄」、つまり担がれてあるグループの実質的・精神的リーダーとなり、そのグループがピンチに陥った時、何らかの超人的な力を発揮して集団を助けるキャプテンとしての性質を持っている。

 孤独にはなり得ない。

 仲間がいるから。

 あるいは、それほど顕著にチームが描かれておらず、ローンウルフを気取っているピカレスク(悪漢)ヒーローもいる。

 これなどは枚挙にいとまがないほどだ。

 特に、最近のアニメには、このタイプが多い。

 アニメ版ルパン三世だとかね。

 しかし、実質的に、彼らには仲間がいる。

 一見、反目しているがイザとなれば助けてくれる悪友が。

 要は「背中を預けられる誰かがいる」ヒーローは、チームワークキャプテンなのだ。

 大河ドラマで、また人気再燃の感がある坂本龍馬なども、このタイプだろう。

 個人的には、司馬遼太郎が「龍馬がいく」と同じ時期に連載していた「燃えよ剣」の土方歳三の方が、わたしのヒーロー像なのだが……

 あるいは、個人的には好きでない「群像モノ」も最近は多い。

 みーんなが主人公。

 だから、ファンは、それぞれが誰かのファンになって楽しみが多くなる……のか?

 本当か?

 特に、ライトノベル原作のアニメにそういったタイプが多い。

「戦う司書」とかね。「BBB」もそうかな。

 でも、群像モノって、なんだかシマリがない、ぼんやりとした世界観を作っているだけに思えてしまうのだなぁ。

 これって、やっぱり「優劣なんかない!生徒みんなが主人公」「一着二着なんて『意味がない』から、みんなで横一列、おててつないで徒競走ゴールイン」なんて、機会均等の公平さと強制平等を取り違えた教育で育った子供たちが、ファン層になってきたことが原因だろうか。

 あるいは、ジャーニー北川が産み出した、例のグループたちの活躍によるものだろうか?

 聞くところによると、女性たちのある人々の間には、デビューしたての「子供コドモしたジャニーズのメンバー」から、いち早く自分のお気に入りを見つけて、それを贔屓(ひいき)にし「その子が育つのを喜ぶ」などという、かつて相撲ファンの間でよく行われていた「タニマチ気質(かたぎ)」が、広がっているらしい。

 それも、こういった「群像」タイプのドラマが増える原因となっているのか?

 こうやって考えてみると、「孤独な英雄」と呼べるヒーローなど、ほとんどいないことに気づく。

 だいたい、作り手からいえば、そんなヤツのハナシは書きにくいのだ。

 物語に起伏がつけにくい。

 盛り上げにくい。

 おまけに、自分だけで自分の身を守らねばならないから、人を信じないし自分のことしか考えない。

 スゴク嫌なヤツになってしまうのだ。

 そういった、エゴイズムのカタマリ・ヒーローの代表格は「ゴルゴ13」になるのかな。

 前時代的な絵柄と、ステロタイプにコテついたストーリーテリングには、好みが別れるところだろうが、あれは確かに「孤独な英雄」を描いた物語だ。

 コブラも、たまに、ある目的のためにグループを作ることはある。仲間に見える登場人物が出てくることもある。

 だが、それは物語を盛り上げるためにであって、少年誌に出てくる「ユージョー」的に甘ったるい、もたれ合いではない。

 いわば、大人のつながり。

 たとえば、友人が、何かトラブルに巻き込まれたことを第三者から聞かされた時に、すぐソイツに電話して、「ドーシタ、ダイジョーブカ、何カシテホシイコトハ?」と騒ぐのがガキのユージョー。

 しばらく経ってから電話し、軽く世間話だけをして、暗に『オマエニハオレガイル』ことを示唆し、頼ってくるまでは何もせず、ただ、その時のために精神的ウォームアップをし始めるのが大人の関係……いや、ちょっと違うな、うまく表現できない。

 言葉は難儀だ。

 事象を、明確に固定化する代わり、それに伴うアトモスフィアをこそぎ落としてしまう。

 いや、今回は、孤独な英雄の話だった。

 上で書いたような、キャプテンモノや群像モノでない、英雄譚(たん)は、書き続けるほどに主人公は孤独になっていく。

 なぜなら、自分ひとりが傑出した強者であるがゆえに、自分以外のもの、知人、友人、恋人たちは、すべて死んでいくからだ。

 自分は死なない、死ねない、だが愛するものは死んでいく。

 これでは孤独に成らざるを得ない。

 飛び抜けて強靱な英雄を描けば、そいつは孤独になってしまうものなのだ。

 それが嫌であれば、いや、もっと直截にいえば、ハッとさせ、ホッさせ、ニッとさせる、起伏に富んだ泣かせる話が作りたいのであれば、孤独な英雄の話は書いてはいけない。
 つまり、真に孤独な英雄のハナシを書ける作者は、ほんの一握りにすぎないのだ。

 念のため付け加えておくと、孤独な英雄と似て非なるモノに「破滅型主人公モノ」がある。

 ハメツガタも、自分勝手で、無敵(捨て身なのだから当然)だが、これは違う。

「バクネヤング」などはこれにあたるのだろうが、これは英雄モノとは分けて考えなければならない。

 孤独な英雄は自ら死を望まない。

 生きることを厭(いと)って破滅へ突き進むハメツガタとは根本が違うのだ。

 押念。

 以上、世にあふれる作品のほとんどは、チーム・キャプテンモノ、似而非(エセ)ピカレスクモノ、群像モノのどれかに分類されてしまうことになり、いま「孤独な英雄」が書かれることは、ほとんどなくなってしまった。

 「孤独な英雄」は死に瀕しているのだ!

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