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やなぎごしならず 〜おせん〜

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おせん 【コミックセット】
 昨年来、ドラマの録画を頼まれるようになって、民放のテレビドラマを観ることが多くなった。

 この「おせん」も、はじめ、何の前知識も無く録画し、うまく録れたかチェックするために流し観したのだが、原作者が、あの「獣王バイオ」の(せめて「(三四郎)2」っていうべき?)きくち正太であることを知って原作を読んでみた。

 よせばいいのに。

 で、久しぶりに、ちょっとショックを受けました。

 いまさら、こんなことを書く必要もないと思うが、テレビになるとどうしてあんなに原作を無視したひどい出来になるのだろう。

 多くの、良心的で才能あるドラマの作り手が嘆くように(最近ではそんなセンスも持たない脚本家もいるんだろうが)、よい原作は、テレビドラマ化するとたいてい駄目になる。

 スポンサーのついた(つまり金主{きんす}の意向を汲まねばならない)、不特定多数を対称とした「てれびどらま」に何を期待しているのかと笑われそうだが、あらためてそう感じてしまった。

 今回の「おせん」、もっとも駄目なのは脚本だ。ついで演出もひどい。

 たとえば、次のようなシーンがある。

 朝、狂言回しの青年ヨシオが、酒好きの仙の部屋を開けるなり後ろへのけぞり、「ウヘェ、酒くっせぇ〜」

 そりゃないんじゃないの。

 在りし日の景山民夫が嘆いたように、最低の演出というのは、かかってきた電話をとった刑事が、

「ん、何だって、港区の公園で、ああ、三十代の、うん、絞殺死体が見つかった。わかった、すぐいく」

などと、説明過剰というか、すべて言葉で説明だけするものだ。

 こういったやり方は、昔のテレビドラマでよく使われた。

 さすがに、最近は、こういった『演技とカメラワークでなく、単に言葉で説明する』貧困演出はなくなったと思っていたのに、まだこんなところで生き残っていたんだなぁ。

 まるで、出来の悪いコントだ。
 いや、コントについては、最小の小道具で、話を進めなければならないから、仕方がないところもある。

 だが、ドラマには、豊富な大道具、小道具、そしてカメラワークがあるのだ。言い訳はできない。

 せめて、

 ヨシオ、障子を開け、ほんの少し顔をしかめる。
 コタツのアップ。そこには数本の徳利、床には一升瓶が転がっている。
 『また飲んだんですか?』
 ヨシオ、障子を大きく開けて換気をしながら、呆れたように尋ねる

 ぐらいの表現はできないのかねぇ。何でもないと思うが。

 「ウグゥッ、酒くっせぇ〜」って、地方ミニFM局制作のラジオドラマじゃないんだからさ。

 作り手から言えば、「紙メディア」と「テレビ放映」のもっとも大きな違いは、放送が垂れ流しで、ナガラ観することができるメディアなのに対して、小説やコミックは読者自らがページをめくらなければならないという点だ。

 これはよく言われることだが確かに事実だ。
 たかが紙一ページをめくる労力。
 されど、その手間はテレビをつけて垂れ流しにするのと天と地ほども違う。

 もちろん、それより重要な違いは、雑誌などの場合、食堂においてあるものを読む場合を除いて、読者が金を払ってそれを手に入れるという点ではあろうが。

 だから、漫画家も小説家も内容を吟味し、中身で勝負する。
 ツマラナイ作品に金を出し、ページを繰ってくれる人がどこにいる?

 だが、テレビは垂れ流し、暇つぶしのメディアだ。
 視聴者のほとんどは、これから作品に接するのだという意識が(気づいていようと無自覚でろうとなかろうと)無い。

 それゆえ、テレビドラマは、とにかくアイ・キャッチ中心の、奇をてらったものになってしまう。目を引きさえすれば良いのだ。
 
 お笑い芸人の多くを占めるコント集団と同じ過ちに陥ってしまっているのだ。

 その最たるものが、コマーシャルだ。

 矍鑠(かくしゃく)とした威厳ある老人を登場させ、次のシーンで水着姿の女性に飛びつかせる。

 あるいは、子供や女性を並べて、意味不明で妙な踊りを踊らせる。

 だから、振り付け師がもてはやされる。

 常識の破壊による不安感につけいるのが、アイ・キャッチ手法だから。

 そうではない作品もあるのだが、どうしてもそういった駄目な作品に目がいって、がっかりしてしまうのだなぁ。

 だから、もう何年も前から民放テレビは意識的に観ないようにしていたのだが、最近は録画を頼まれているから、そうもいかない。

 話をもとに戻そう。

 原作では、ただのボンボンである主人公(というか狂言回しだな)の青年を、ドラマでは、野心家でホンモノ志向(それも上っつらだけの)である単純バカとして描いているが、その意図はなんなのだろう。

 先輩料理人との仙に対する「恋のさや当て」ってのも理解できない。
 どうやら、脚本家は、男と女が同じ職場で働けば、二秒で恋が芽生えると思いこんでいるらしい。

 え、実際、そうなのか?だからそれを反映しているの?そうだとしたら、恐ろしいことだ。

 だが、少なくとも、原作者はそうは思っていない。

 ヨシオには恋人が居り(ま、あとでフラれるけれど)板前にも好きな女性がいる。

 ドラマの制作側は、きくち正太が描こうとしている世界観をまるで尊重していない(あるいは分かっていないのか、まさかな)。

 他に、あきらかに配役のミスがある。

 骨董屋のオヤジが、渡辺某というのは明らかにおかしい。
 もっと無骨な男でないと、後のエピソードに差し障りが出てくることもあるだろう。
 寡黙な大男だからこそ味の出る話が多くあるのだ。
 ひょろっとして洒脱な小男ではまるで印象が違ってしまうのだ。それは、演技云々の問題じゃない。

 主役にしても、半田仙のボンヤリしていながら、時として凛とした姿勢をしめす演技ができていない。

 役者の名前はあまり知らないのだが、ドラマの仙は、ふにゃふにゃと気持ち悪いだけの軟体生物のように見える。例えて言えば、大林監督「ふたり」における石田ひかりみたいな感じかな(あれはそういうつくりだから良かったが)。

 おそらく、きくち正太が描こうとしているであろう、柔らかそうに見えて、中にしっかりと一本芯の通った(たぶん江戸前の気質の)柳腰の女がまるで表現できていない。

 以前、友人にその話をすると、
「無料(タダ)のものに、なにを期待してるの?」
と、まっぷたつにしてしまった。

 まぁ、それはそうなんだけど。

 本当にテレビドラマは駄目だなぁ。

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