いかにも現代的、というのだろうか。
三崎亜記という作家の紡ぎ出す作品は、つねに「確固たる現実」に対する不信感に満ちている。
それぞれの登場人物の「語る言葉」に奇異なものは何もない。
だが、普通の言葉で普通の出来事を語る登場人物たちのとる行動は、徐々に「我々の知っている普通」から離れていく。
そこには、日常が、明るい笑顔を振りまきながら、普段わたしたちに向けているのとは別の、裏側に隠した闇の部分を持っているに違いない、という確信が充ち満ちている。
彼は考えているのだ。
そういった闇の部分は、やがて、小さなほころびから裏返っていくように、我々の現実を浸食していくかもしれない、と。
だが、三崎亜記の作風が特異なのは、そういった現実不信にあるのではない。
SFにおけるディックや、それに影響を受けた神林長平や多くの作家のように、世の中が目に見えているままではないのではないか、という不安は、中身の見えぬブラックボックス化した現代に生きるほとんどの者、とくに精神不安気味の者やディックのように薬物依存のものにとっては、日常茶飯の不安に過ぎない。
そういう性癖をもつ者、あるいは内省的な性癖をもつ多くの者が、今、自分が立って存在している現実が、ホンモノであるかどうか不安に思っているのだ。
もう十年近く前に、わたしがインド・ネパールの国境で出会った日本人青年は、何も確かなものが感じられない現実喪失感の毎日の中で、ドラッグをキメている瞬間だけは、しっかりとした現実の中で「そこになぜコップがあるのかすら理解できる」のだ、と語っていた。
三崎亜記が、そういった不安を持つ多くの作家の作品群と一線を画すのは、裏返っていくほころびが無限拡大せずに、いつのまにか、より大きな疑似現実によって包まれ、見かけ上、元通りになってしまうことだ。
いかに異常が起こっても日常生活が決して崩壊せず、やがてはもっと大きな疑似日常生活によって包含されるという、疑似現実化のインフレ・スパイラルが延々と続くのが三崎世界だ。
三崎亜記が、「となり町戦争」で衝撃的にデビューしたとき、そんな印象を持った。
彼を選んだ選考委員の多くも、そのような感想を述べていると記憶している。
だが、今になって、その考え方を一部訂正したくなった。
バスジャックには、7つの作品が収められている。
超短編である、「しあわせな光」「雨降る夜に」は、プロット、展開ともに少々ありきたりの感がぬぐえなかった。
短編をあなどってはいけない。
短編を書くなら、もっと勢いよく走り出して一気に読者を驚かさないとね。
だが、ちょっと長めの「二人の記憶」はいい。
恋人同士の記憶が、どんどんズレていく。記憶がズレていくのではない。
現実がズレていくのだ。
まったく見知らぬ思い出の品を、彼女は僕に贈られた宝ものだと語り、僕の机の上に置かれた彼女の微笑む写真を『僕は撮った覚えたまるでない』のだ。
僕がわざと話しかける「架空の旅行記憶」に、彼女は、まるでそれが現実にあったかのようにリアルな返事を返してくる。
やがて、ズレは拡大し、彼は最後の決断を下す。
文章のうまい人である。
とくに、中編「送りの夏」がいい。
冒頭、一両編成の列車から降りた主人公の少女が目にする、鄙びた景色の描写から、一気に惹きつけられる。
少女の母は、突然失踪した。
どうやら、本当の蒸発ではなく、彼女の父は居場所を知っているようだ。
少女は父の手帳を盗み見て、母の住所を知り、ひとり訪ねてきたのだ。
生きているのか死んでいるのか分からない、マネキンのような人々を世話しながら田舎町で暮らす人々に混じって、母は初老の「マネキン」と暮らしていた。
少女は、部屋を一つ与えられ、そこで暮らし始める……のだが、最後に至るまで、その生きているようなマネキンが何なのか、母と初老の男性の関係が何のかが語られることはない。
例によって、ラストに至るも、話に決着がつけられることはない。
それが、この作者のアジなのだ、と言われればそうなのだが、曲がりなりにも物語を作る者としていわせてもられば、それはひとつの「逃げ」だ。
結論を出さずに余韻を残して逃げる。
「となり町戦争」ではそれが評価されたが、それを作風として続けることの是非は問われねばならないだろう。
結論を出さず、「さあ、あとは考えてください」としておけば、自己の矮小な作品を、はっきりと固定せずに、大きい「かもしれない」作品に保っておける。
袋の端を縫わずにおけば、どんなに大量のものでの入れ続けることができる。
つまり、容量は無限大だ。
端を縫ってしまえば、大きさは決まる。25リットル。
だから、作者は話のゲタを読者に預けたがる。
かつて、「書きさえすれば、オレは、すばらしい作品を書くことができる」といい続けた男がいた。
彼は作品を書き、そしてこういった。
「なぜだ!俺は、本当はもっとスゴイ作品をかけるはずなのに」
『棺を覆って定まる』という表現がある。
小説も、袋を閉じてこそ、その評価が定まることもあるのではないだろうか。
多くの作品が、「袋の底を閉じられないまま世に出される」ことには理由がある。
そして、その理由のほとんどは、作者の側の都合によるものだ。