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論理を経ない真理

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 晴れていたと思っていたら、急に雨が降り出したりして、何かよく定まらない天気に、我が家のネコどもも、お手製ネコ・ポールにしつらえた箱の中で丸まって寝てしまっている。

 おそらく、湿気と温度が、彼らを眠くしているのだろう。

 ネコが相手をしてくれないので、書庫に入って、適当に本を抜き出すと「性悪猫(しょうわるねこ)」(やまだ紫)だった。

 これは、読むたびに年甲斐もなく泣いてしまうので、ページを開きたくないのだが、今日は、しとしとと降り続く雨に背を押されるようにして、読み始めてしまった。

 そして、あらためて思った。

 自分の感じる気持ちを、そのまま表現できる女性の感性(家々、内容はきちんと練っていますよ、という反論は覚悟の上です)には、オトコなどはとても太刀打ちできないと。

 わたしが「性悪猫」を初めて読んだのは比較的新しくて、まだ数年にもならないと思うのだが、その時感じたものとまったく同じ感慨が気持ちを埋めていくのを感じる。

 やまだ紫の描く猫は、猫であって猫でない。

 つまり、猫の姿にたとえた女性を描いているのだ。

 いや、より正確に言えば、野良にあって孤独で、家にあって安らぎつつも孤独を恐れ、そして、すでに親になって独り立ちしなければならないことを十分自覚しながら、さらに誰かに甘えたい気持ちを抑えきれない猫を描くことが、同時に本身の女性の姿を描くことになっている。

 こういった、「論理でなく直感による真理への肉薄」は、とてもオトコごときにはできない業だ。

 幼児期に男(父を含む)によって傷つけられることなく育ち、現在も過度の不安とストレスにさらされず、精神的に安定した生活を営む女性の直感は、恐ろしいほどに鋭い。

 なぜ、人類の黎明期において、女性のシャーマンを長とする文明が多く栄えたのか、今頃になって、わたしは、分るような気がする。

 マスコミ等の妙な先入観に毒されず、悪い友人の影響を受けない安定した女性は、神に近い。

 いや、神=自然と言い換えれば、より正確になろうか。

 時に台風のように荒れ狂い、手の付けられないこともあるが、その指し示す指の先は、常に真理を向いている。

 いつの頃からか、わたしにとって、それと同様の生き物が猫だった。

 かつて、多くの先人たちが猫に神をみた。

 著名な作家、世界的な哲学者ですらそうであった。

 犬は主人の思う方向を向き、猫は内的自然の思う方向を向く。

 誰かが「猫は明日を恐れない。ただ今の一瞬の連続を生きているから」といっていた。

 彼らは過去を忘れない。

 なぜなら、経験した危険を覚えて、それを避けることは、延命につながることだから。

 だが、今日の不運を明日につなげて明日を憂うことはない。
 彼らは、今起きることに備えて、ただ「今」を過ごしているだけだから、と。

 しかし、もし、彼らの思考に「未来」が存在するなら、「性悪猫」で描かれる猫のように、家で飼われるようになってからでさえ、明日、もとの野原へ戻されるかも知れないと恐れ、おびえることがあるかもしれない。

 そして、そのために、暖かいベッドで寝ずに、あえて土間の土の上で寝てしまうのだ。

 安穏(あんのん)な生活に慣れた後、再び野良に放たれるのを恐れて。

 だが、もし彼女(猫)が幸せな記憶をもって生き、現在(いま)に不安がないのなら、彼女は決して未来を恐れないだろう。

 彼女には、未来が分かるはずだから。

 その意味で、やまだ紫の描く「性悪猫」は、「性悪」な猫(女性)ではなく、傷つき、孤独に陥った、哀しいイキモノの話なのかもしれない

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