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猫の消えた街 〜フリージア〜

 昔から、リンドグレーンの「名探偵カッレくん」が好きだった。

 特に好きなのは、物語の冒頭、気だるく退屈で暢気な昼下がりの街角を、冒険がしたくてたまらない主人公カッレ少年が眺めているシーンだ。

 退屈でたまらない探偵志望のカッレの前を、靴屋の太った猫がゆっくりと横切っていく。行ったことのないスウェーデンという国の、空気の匂いが感じられる素晴らしい描写だ。

 良い人生とは?、と尋ねられてもわからない。

 良き人とは?、と尋ねられても同様。

 しかし、良い街とは?、と尋ねられたら即座に答えることができる。

 それは、太った野良猫がゆっくりと通りを横切っていくような街だ。

 英国でも米国でも、美しい田舎町では、通りを猫がのんびり横切っていたものだ。

 では、悪しき街とは?

 当然、その逆。

 つまり猫が一匹もいない街。

 それがつまり「フリージア」の世界だ。(コミックのはなし、実写は観てないから知らない)

 すでにご存じだろうとは思うが、「フリージア」は、仇討ち法が制定された近未来日本のハナシだ。

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 画は、昔からあったものの、「セクシーボイスアンドロボ」のように、最近特に目につくようになったフリーハンド調の雑いもので、慣れるまで読みにくい。

 内容は、ひとことで言えば気色悪いサイコ・ストーリーだ。

 登場人物全員が精神を病んでいる(それが現代人?)。

 それはもう、あたかも「健康なヤツも、ただ『健康』という病気にかかっているだけだ」と言わんばかりのイキオイだ。

 好悪だけで考えれば、決して自らすすんで読まない作品である。

 内容も、一貫性のない、いわゆる流れの悪いストーリーで、設定の荒さが目立つ。

 インパクトの強さに惹かれる人もいるようだが、衝撃だけを求めるなら、笑いながら自らの指を刃物で切り落とすようなハナシを読めばいい。

 極端な自傷行為は、常に自己防衛する生き物にインパクトを与えるものだから。

 だが、そんな話がおもしろいのだろうか?

 わたしには、よくわからない。

 ただひとつ、気になったのが、フリージアの舞台が、上記の「猫のいない街」であることだった。

 なぜ猫がいないのか?

 駆除されているからだ。

 では、なぜ駆られるのか?

 近未来の日本では、猫インフルエンザが流行しつつあるからだ。

 ウイルスの媒介となる猫は、野良猫であろうが飼い猫であろうが、片端から駆られ焼却される。

 作者のセンスを、唯一感じるのは、この病気の流行を、あまり本筋には関係ないといった体で、新聞記事やテレビニュースなどで『猫インフルエンザの感染者7名に』などとしている点だった。

 実際に、すでに猫には猫だけに感染する「猫エイズ」という病がある。

 猫インフルエンザが出ても何ら不思議ではないのだ。

 「フリージア」、ストーリー自体は、ただのサイコものでたいして語ることはない。

 主人公は、記憶障害を抱えたサイコ野郎だ。

 仇討ち法自体は、よくある内容だが、魅力的な設定ではある。

 作者が、安易にサイコものに走らずに、健常な主人公が異常な仇討ちと関わっているうちに、いつしか人間性を失い、理性にも蔭りが広がっていく、といったストーリィにすれば、キューブリックの「フルメタル・ジャケット」的良作になったかもしれない。

 今、精神を病む者は多い。そして、世界は陰惨な事件と出来事であふれている。

 だから、それをあらためてコミックにしても、真の陰惨さを知らない子供たち(あるいは大人コドモ)には、インパクトの強さで受けても、ただそれだけのものとなるだろう。作品としての成熟加減とは無関係だ。

 こういった作品に人気があるというのも時代なのだろうか。

 本作の好きな人は、「ホムンクルス」や「殺し屋イチ」、はては「バクネヤング」なども好きなのだろうな。

 まさか、抑圧された社会生活で歪みつつある自分の精神を、マンガのサイコと重ねて「あるある」と納得しているのではないだろうねぇ。

 たぶん、違うと思うが、そういった人が多いならば、それは社会にとっては少々アブナイことだ。

 かつて、沢木耕太郎が、そのエッセイで書いたように、人には大きく分けて二通りある。

 本来あるべきハードルを簡単に越えてしまうものと、越えられない者と。

 たとえば、それは、金が欲しければ簡単にヌードになり体を売ってしまう女性たちであったりする。

 本来、かなり高いハードルであったはずの羞恥を、彼女たちは簡単に越えてしまうのだ。
 おそらく、そんなことぐらい大したことじゃないよ」という、社会認識に後押しされて。

 フリージアの登場人物たちが越えるハードルは殺人だ。

 仇討ちの助っ人として殺人を許可されている彼らは、銃を使い、敵とその警護人たちを殺す。

 だが、彼らの精神の危うさは、容易に、その銃口を仇討ち以外の一般人に向けてしまうのだ。

 そして、「一般人は傷つけない殺さない」というハードルを容易に越えてしまう。

 といった、いかにも、猫のいない陰惨な街にはお似合いのストーリーなのだが、さきに書いたように、もし、読者が、彼らと自分を、たとえ緩くであっても重ねているならば恐ろしいことだ。

 この手の作品に惹かれる、ということは、無自覚であっても、自分の心の闇と重ねていることが多いものだから。

 登場人物たちが、いとも簡単に、殺人というハードルを越えてしまうのを読んで、彼らがその気にならないとも限らない。

 さきのストリップ嬢同様、マンガの世界観に後押しされて。
 

 閑話休題、フリージア世界の人々の精神を歪ませている要素の一つに、近未来の日本が戦時下であるということがある。

 しかも、負け戦。

 徐々に敗戦色が濃くなる戦時下故の精神不安ということだろうか?

 だが、大東亜戦争(世界史的にみれば第二次世界大戦)下の日本において、そのような奇妙で大規模な集団精神異常は発生してはいなかった。

 もちろん、田舎や局地的なものはあったかも知れない。

 戦に負けて占領され、敵兵に殺されるくらいなら、まず自分が殺人者になった方が良いと考えた者もいただろう。

 あたかも、イジめられる前に、イジめる側に回ったほうが良いと判断する中学生のように。

 まあ、確かに、当時も日本人お得意の集団ヒステリーは存在しただろうが、世情不安であるがゆえに、戦時下に同国人同士を殺し合わせる、という政策は、まずあり得ない。

 為政者たちは、危機に臨(のぞ)んでは国民に一致団結を望むからだ。
 
 あるいは、フリージアの最大の欠点は、その設定にあるのかも知れない。

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