来年、生誕100年を迎える太宰治が人気だそうな。
そういえば、本屋などでも、集英社文庫が「あの」小畑健のイラストに変えて売り出していますね。
あ、今回は昨今の太宰人気について書こうと思っています。
文学談話に肌の合わない人は、読み飛ばしてください。
調べればすぐにわかりますが、太宰について少しおさらいしておくと、
太宰治(1909-1948)
本名:津島修治
青森県の大地主の六男坊に生まれ、坂口安吾や織田作之助らと並び「無頼派」「新戯作派」と呼ばれる。
48年に玉川上水(当時)に、女生とともに入水(じゅすい)自殺。今年が没後60年。
そういや、太宰と織田作之助、オダサクはどちらも無頼派だったんだなぁ。
かつて、わたしは大阪の千日前にいくと、よくオダサク行きつけの、そのテーブルで代表作「夫婦善哉」を執筆したという「自由軒」で、ライスもルゥも卵も最初っから混ざっている「オダサクカレー」を食べていました。
「自由軒」は、いかにも安っぽい大衆食堂といった体(てい)で、近所のオッチャンらしき客層も、クッションの悪いパイプ椅子も気に入っていたのです。値段も安かった。
しかし、ある時期から、何を勘違いしたのか店がどんどん値段をつり上げ、オダサクブランドを全面に押し出すようになると、客層も、オッチャン連中から着飾った女の子、そんな子をつれた気取りニイチャンに移り変わって、自然に行かなくなりました。
最近では、驚くべきことに店の前に行列までできているようです。
あいかん、いつのまにか「昔は良かった」「あの店もダメになった」モードに入ってしまっている……
さてさて、太宰治。
告白すると、わたしは子供の頃から太宰が苦手でした。
「コレクライ読んでおかねばナラヌ」と、一所懸命に「斜陽」や「人間失格」などの代表作は読んでみたものの、冒頭の「お母様がスプーンをトリの羽のようにヒラリヒラリと使われる」なんて書き方でもうダメ。合わないんだなぁ。
芥川なんかだと、あの、ぱっとしない片田舎で、冬枯れのすすけて抑圧された風景のもと、そろって背の低い冴えない子供たちに向けて、列車にのって奉公に出る凡庸な容姿の娘が、愛情を込めて投げる蜜柑が、きらめくように宙を舞い、その軌跡が灰色の退屈な世界すべての印象を一瞬にして鮮やかな色彩に反転させ、読む者に、めまいに似た感動を喚起させる名作「蜜柑」をはじめとして、いわゆる箱庭的小説技法が自分の気持ちにぴったりハマって結構好きなのですが。
どうせシンコクぶるなら、政変のあおりを食って、実際に死刑直前までいったドストエフスキーの作品群の方がはるかに好ましい。
机上でコネコネとジンセイを弄(もてあそ)んで紡いだハナシより、極限状態を経験した作家のストーリーの方が、はるかにきりりとして重みがある。
「悪霊」なんて、一時期わたしのバイブルでもありました。カラマゾフはダメだったが。
しかしながら、日本において、太宰は、生前から没後60年にいたるまで、つねに人気のある作家だったと思います。
わたしは直接には知りませんが、昭和40年くらいまでは、酔えば太宰を暗証したブンガク青年なんかも多かったそうですね。
そういえば、いまも中学の教科書には、芥川の「蜘蛛の糸」は載ってないけど、太宰の「走れメロス」は載っているなぁ。
でね、ステロタイプですみませんが、新聞に「なぜいま、太宰なのか?」なんて記事が載るわけです。
同時に人気の上がっている小林多喜二の「蟹工船」だったら、まあ人気の理由はすぐにわかりますが太宰人気はなぜなんだろう、と?
すると、大学の近代文学の准教授が答えるんです。
「(太宰の小説が)現代のネット社会の孤独を体現し、周囲の人々とコミュニケーションを取りづらい若者の気持ちを代弁しているのではないか」
うーむ。おえらい学者サマの意見に口をはさむ気はないが、なんか違う気がしますねぇ。
皆さんはどう思いますか?
「ネット社会の孤独」「周囲とのディスコミュニケーション」なんて、手垢のついたソレらしい単語を並べるだけで新聞に載るなんてイイ商売ですねえ。
まあ、わたしも経験がありますが、マスコミへの発言は、結構記者が勝手に手を入れてしまうので、丸のまま信用はできませんが。
しかし、「ネット社会の孤独」ってなんだろう。わからないなぁ。少なくとも、この文脈で使う理由がわからない。
わたしは、個人的に、彼が処女作「晩年」の冒頭作品「葉」のエピグラフとして掲げた、ヴェルレーヌの「叡智」からの抜粋である「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり 」に代表される、劣等感の裏返しとしての過度な自尊心、理由無き(まあ、太宰は金持ちの息子でしたが)選民思想、そして、働かず実家からの仕送りで口に糊(のり)しながら、世界を批判する、生活無能力者の太宰の主人公が、今の若者の気分にオーバーラップさせやすいのが人気の原因ではないかと思っています。
もちろん、先に書いた没後60年、生誕100年というイベント性、小畑鍵によるイラスト広告や今年3月、三鷹にオープンした「太宰治文学サロン」など、上からの企画が功を奏していることもあるでしょう。
ともかく来年は生誕100年。
太宰の生地である五所川原市では6月に記念フォーラムやマラソン大会(って、青ビョウタンのダザイとはまったく相容れない企画じゃないの?)も予定されているようですし、太宰が新婚時代を過ごした甲府市の山梨県立文学館でも企画展が開かれ、映画の制作企画も立ち上がっています。
太宰人気はまだまだ続くんでしょうねぇ。
最後に。
お叱りは覚悟で書きますが、わたしは太宰がシンコクな顔で写っている写真を見ると、なぜか笑ってしまいます。
ああいった、*「小人閑居して不善を為す」(日本で用いられる誤用の方の意)タイプの、部屋にこもって、世の苦悩を一身に受けているような自意識過剰の人間は、客観的にみるといっそ滑稽ですから。
チナミに、ご存知の方も多いでしょうか、『大学』にある「小人閒居して不善を為す」(閒の字が上とは違います)の本当の意味は、「中身のくだらない人間は一人でいると(人が見てないと)悪いことをする」というものですね。
日本では誤用が広まってしまっていますが、本当はそうです。