この間、古本屋で、創元SF文庫の「キャプテン・フューチャー(以下CF) シリーズ」(復刻版)の、「風前の灯火!冥王星ドーム都市」を手に入れました。
これは、先頃亡くなった野田昌宏氏が、作者エドモンド・ハミルトン亡き後、彼の妻にして自身もSF作家であったリィ・ブラケット女史の承諾を得て、生み出したオリジナルCFです。
わたしがこの作品を最初に目にしたのは、1982年、前年完結したCFシリーズの全訳を記念して、83年にSFマガジンの別冊として発売された「CFハンドブック」においてでした。
これは、付録として、「太陽系宇宙レースすごろく」までついた楽しい本だったのですが、引っ越しを繰りかえすうちにどこかにいってしいました。
いまでは、オークションなどで、高値がつくということなので、ぜひ探し出したいと思っているのですが……思えば、月刊OUT創刊号および「あの」ヤマト特集の創刊2号すらどこかにやってしまったウツケもののこの身がうらめしい。
どちらも、さがせば、実家の倉庫に眠っているような気はするのです。
ともかく、この野田大元帥自らの作である作品を手にしたことで、ここ一週間ほどで、古き良きSF(30年代とか50年代のものがとくに好きです)熱がぶりかえし、もう復刻もなされていない、ドック・サヴェッジシリーズやジェイムスン教授シリーズ、「スターキング」全二巻や「20億の針」などを一気に読み返しました。
特に楽しんだのは、やはりというか「夏への扉」でした。
これは、たいへん好きな作品なので、普段は「終わりなき戦い」「星を継ぐもの三部作」と共にペイパーバックを読むようにしているのですが、久しぶりに福島正実訳で読んでみると、原書とのちょっとした違いに気づいて、二重に楽しむことができました。
映画の字幕と同じで、直訳すると冗長になるときは、訳者によっては、内容を丸めたりすることがあるのですね。
もちろん、訳者としての福島正実については、彼の翻訳で素晴らしい古典SFを楽しんできたわたしに、なんら不満はありません。
編集者としての彼は、日本におけるSFはこうでなければナラヌ、と多くの日本人SF作家に特定の方向性を押しつけた専制君主的な面もあったやに聞いていますが、なに、日本のSF黎明期(久生十蘭[ひさおじゅうらん]や海野十三[うんのじゅうざ]などの戦前作家はともかく)のことです。
彼も、日本のSFの将来を真剣に考えた男じゃった。
そうでもしないと、日本のSFが間違った方向へ行ってしまうと心配したんじゃろうて……(フランケン・フォン・フォーグラー調)
わたしの持っているハヤカワ文庫SF第七刷版は、表紙のイラストは同じ中西信行氏ながら、現在発売されている文庫より二十数ページ少なく、文字が小さく、第一章で「ティッシュ・ペーパー」でなく「ティシューペーパー」が使われているものです。
文字の小さい方が文章全体が締まって見えるから不思議です。
字体も違うのかな。
さて、ここからが本題です。
SFの持って生まれた避けられぬ宿命として、「現実の科学技術に追いつかれてしまう悲劇」がよくいわれますが、それよりも、わたしは、長らく「時間に追い越される無情」の方が問題が大きいと思っていました。
たとえば、CFで使われた、「ある種の力線によって、原子核のまわりを回転する電子の速度を速めてやれば、その物質だけ時間の流れが速くなる」という設定は、現実的にはウソですが、SFとしては問題ないように思うのです。
ある金属が発見されて、その物質に電気を流せば重力が発生する、という設定を根本原理として、異世界を構築することもまた然り、ストーリィが面白ければそれでいいと思います。
しかし、過ぎ去りし近未来……じゃなくて、よくあるパラレル・ワールドに逃げることなく、小説世界の未来の年代を、すでに現実が追い越した話は哀れです。
だって、もうそれ自体がウソなんですから。
と、思っていました。
でも、「夏への扉」を読み返して、そうではないと気づきました。
いや、それまでも、50年代SFを読んで、なんとなくそんな気持ちにはなっていたのですが、今回、確信を持つことができたのです。
ご存じのように「夏への扉」は1957年、ロバート・A・ハインランの作品で、1970年12月の近未来が舞台となっています。
つまり「過去における未来」で、現実的にはもう過去になっているんですね。
その時代、すでにマンハッタンは、「6週間戦争」というものにあって核被害をうけていますし、物語にあって重要な役割を果たす「長期冷凍睡眠」は実現しています。
しかしながら、野田大元帥が、かつて嘆(たん)じて宣(のたま)ったように、「トランジスタというたったひとつの素子の発明が、かくも素晴らしきSFを滅してしまった」のと同様、ハインラインの描く1970年の未来においては、まだ電子回路の主要部分は真空管が中心でした。
そんなことはどうでもいい。
だって、誰がハリー・ポッターに現実の科学を求めますか?
以前に別項で書きましたが、ファンが求めるのは「魔法世界的に整合のとれた」話なのです。
魔術にもルールはある。
それを無視したソーサリィ世界はペラペラなものになってしまいます。
F・ブラウンの「発狂した宇宙」のように、それを狙っていれば別ですが。
「夏への扉」の世界観は、歴史的に現実とは違いますが、しっかりと硬い地盤の上に立っていることが、読んでいていてわかります。
それだけで十分。
三十年のコールドスリープから目覚めた主人公は、2000年の世界(8年も前!)に、風邪がなく、虫歯もなくなっていることに快哉を叫びますが、現実はご存じのとおり、それから8年もたつのに、新たなインフルエンザにおびえる始末……
まあ、そんなことはいいんですよ。
小説を読んでいる間だけでも、夢の2000年で暮らすことができるのですから。
ただ、故福島正実が、30年前に、この作品のあとがきで書いているように、「とにかく、この作品を読み終わって本をおき、ふと周囲をみまわしたら、ぼくの家に、一台の文化女中器(原文のママ)も、窓拭きウィリィも、万能フランクもないことが奇妙に思われ、わずかにあった電気掃除機が、なんともはやぶさいくなものに見えてしかたがなかったものだった。(中略)けだし、SFの傑作とは、虚構の世界に読者をひきずりこんで虚構の世界の空気に慣れ親しませ、牢固としてぬきがたいこの世の常識主義に、一撃をくわえるものだろうからである」の言葉通り、「そうでなかった現実」に向き合うのはツライものがあります。
なぁに、そんな時は、もう一度、はじめから「夏への扉」を読めばいいんですよ。
たとえ現実逃避といわれてもね。
そうすることで、ヒトの心は、現実によって蓄えさせられた圧力を適度に抜いて、また明日に向かうことができるのですから。