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矛盾を孕んだラジオ・ドラマの小説化 ~「告白」(湊かなえ)~

 人間、怒ってはいけません。

 だからといって、リョーカン和尚みたいにいつもニコニコ笑っている……あ、これは『雨ニモマケズ』だった、子供の頃の記憶で、わたしは『雨ニモマケズ』と『漂泊者の歌』は暗唱できるのです(あとボーイスカウトの掟も……)、いや、つまりニコニコしているだけで良いとは思っていません。

 怒るべき時には怒るべきです。

 若者なをもて怒髪天を衝く、いはんや老人をや……

 と「老人正機(ウソ)」っぽくなってしまいますが、つまりわたしは怒っている老人が好きなのすね。ニコニコしている年寄りは、どうも怪しい。

 だから、わたしは、映画「スカイクロラ」のスピンオフである「スッキリクロラ」(本編より好きです)で語られる箴言(しんげん:戒めのコトバ)

「老人は、大抵さみしそうな顔をしながら、復讐の機会を窺っている」

が好きなのですよ。

 個人的にはアドレナリンが体内を駆けめぐる感覚は好きですし、生きている実感は、穏やかな時より激情の時にこそ感じられると思っています。

 あれ、いつの間にか、最初に書いたことと反対のことを力説していますね、アブナイアブナイ……

 まあ、怒る時にもTPOが必要だということですね。

 怒りは内燃機関に投入されたニトロと同じ働きをします。
 暴走して、シリンダー内部やエンジンそのものを傷つけてしまう。

 さらに、人は一度口から出したコトバを引っ込めることはできない。

 そう、人は、怒りというパワー・ブーストの暴走の中で、往々にしてマチガイを犯してしまうのです。

 だから、このブログでも、人や作品の気に入らない点をとりあげるのではなく、なるべく良いところを取り上げるように努力はしているのですが……なかなか思い通りにはいきませんね。

 それでも悪口はいけません。

 なぜなら、人は欠点をあげつらう時、往々にして間違いを冒すからです。

 褒めている時、人は過ちを冒さない。

 けなす時に、的外れな間違いを冒すのです。

 その原因は、おそらく上でも書いた、悪口をいっている間に思考が暴走してしまうからでしょう。

ファイル 532-1.jpg

 さて、今回とりあげるのは、湊かなえ氏の「告白」です。

 随分前に手に入れて、これについて書きたいと思っていたのですが、どういうわけか、書くことがためらわれてなりませんでした。

 どうしてだろう?

 オビには、
「週間文春'08年ミステリーベスト10 第1位」
「この冬、読んでおきたい、とっておきミステリー 第2位」
「このミステリーがすごい!09年版 第4位」
などと、錚々(そうそう)たる単語が踊っています。

 もともとは、小説推理新人賞の受賞作(一章)で、それに二章~六章を付け加えて一冊の本にした作品だそうです。

 前評判の良さに手に入れたこの作品ですが(それにわたしがとれなかった賞の受賞作ですし)、読み始めてすぐに、後悔しはじめました。

 文体が一人称だったからです(主人公目線の文章表記「わたしは~」という書き方ですね)。

 以前に、どこかで書いたことがあるかもしれませんが、もうずっと以前、小説を書き始めたころ、わたしは「三人称小説」を書くことができませんでした。

 一人称しか使えなかった。

 いわゆる「視点の固定化・移動」「神の目」といったテクニックを使いこなせなかったのです。

 時間をかけて書き続けるうちに、なんとか扱えるようになったような気がしますが、まだ自信がありません。

 そういった理由もあって、人の文章を読むとき、その文章スタイルが気になるのです。

 一人称なら、自分の目からみた事象、自分の考えだけを詳細に書き、他者の行動にはフィルターをかけて、もっともらしい謎にすることができます。

 ミステリも簡単にかける。

 だって、自分以外の登場人物が、事実を知っていながら、黙っているだけで、スゴイ謎があるように書けるじゃないですか。

 この間までやっていた、テレビドラマ「トライアングル」なんぞは、その最たるものでしたね。

 正直にいって、わたしは登場人物が「黙っているだけで生じる謎」を扱うプロット、そして、それを簡単に実現できる「一人称小説」というのが好きではありません。

 だからこそ、一般的に「良い一人称小説」を書くのは難しい、といわれるのです。

「黙秘ミステリ」的安易な道に走らず、クイーンの「Yの悲劇」的奇策に走らないで意表をつく作品にするのは容易ではありません。

 しかし「告白」は一人称で語ってしまった。その結果は、読めばおわかりになると思います。

 もうひとつ、わたしは(舞台・あるいはラジオドラマ)脚本家の書く小説、というのもあまり好きではありません(『彼らの書く小説』がです)。
 
 特にミステリには(もちろん、その全てということではありませんが)欠点が多すぎます。

 舞台という、シチュエーション・ミステリ(限られた舞台設定のなかでのミステリ)で培われた思考ゆえか、彼らが書くプロットは、ミステリとしては、穴だらけの我田引水的な論理に終始することが多いように思えるのです。

 舞台でよく使われる、朗々たる独白を用いれば、一人称小説は比較的簡単にかけるでしょうし、ラジオドラマなどの脚本(わたしも書きますが)は、容易に一人称小説に変更できます。

 そして、脚本家転向組の作家が増えていく。

 こういったことの根底には「脚本では喰えない」という理由があります。

 脚本は、舞台にかけられないと日の目をみませんが、小説にすれば、それだけで商品になり得るからです。

 そういった考えもあってか、以前にもまして脚本家の書く小説がたくさん世にでるようになっていますが、その多くが文章文体にクセがあり、プロットに無理があるような気がするのです。

 湊かなえ氏の略歴をみると、やはり彼女も、もともと脚本畑の人でした(もちろん、多くの脚本家同様、かつては文章を書いていたのでしょうが)。

 「告白」も、いかにも、はじめはラジオドラマの脚本として書いて、急遽小説にしました感のある文章です。

 第一章が、教師による現実味の薄い「恫喝」で終わり、

 第二章以下、「わたし」を生徒あるいは生徒の姉弟の目線に変えつつ、連作として六章のラストまで持っていくのですが、末節にこだわった、粘着質な、いやはっきりいってキショクワルイ人間関係と、じめついた思考回路は好みの問題だから仕方がないとしても、ミステリとして読んだ場合、あり得ない起きえないシチュエーションの連続で、読むのが辛くなってきます。

 少なくとも自分じゃ、あんなプロットは作ることはできないなぁ。

 読まれた方ならお分かりでしょうが、ある秘密を知ったクラスの全員が、家族およびクラス外の友達あるいは「掲示板」にさえ、何ヶ月にもわたって一切その秘密を漏らさない、なんてことがあるでしょうか?

 それは、論理の穴というより致命的な欠陥ですね。
 よく出版社の担当が許したなぁ。

 一過性のラジオドラマ(あるいはテレビドラマ)なら許されても、小説として上梓(じょうし:出版の意)するのは困難な作品のように思えるのですね。

 まあ、いずれにせよ、この作品も映画化(あるいは、ちょっと下がってテレビドラマ化?)はされることでしょう。特に、一過性のテレビドラマなら、そのドラマチック性で良い評価を得ることができるかもしれません。

 あれ、上の書き方って悪口っぽくみえますね。しかもちょっと怒っているような。
 

 わかった、この作品について書けば悪口になるから、書くのがためらわれていたんだ。

 えーと、「告白」
 後味は悪いですが、スーと読み終える分には、面白いところもある作品ですよ。

 以上、告白させていただきました……けど、的外れ、かな?

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