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読むより書くべし

 曲がりなりにも自分で小説を書くようになると、他人の書いたストーリーが違って見えてきます。

 小説技法については、いずれ新しく場所を作って書いていこうと考えていますので、ここでは一つだけ書きましょう。

 自己満足だけでなく、人に読ませるつもりで書く小説に、もっとも必要なものは何か皆さんご存じですか?

 キレイゴトを言えば、それは人それぞれで、ひとつに決められるものではないから、そんなものは存在しないはずです。

 しかし、読書の専門家に読んでもらう、つまり新人賞などの文学賞を狙うなら、絶対に必要なもの、そしてやってはいけないことが確かにあるのです。

 必要なものは「オリジナリティ」です、

 そして、やってはいけないのは、ひとのプロットの模倣です。二番煎じといってもいい。

 一次選考員に「これはどこかで読んだことがある」と思われたら、あっさりと一次落ちになります。

 向こうは、とにかく「落とす理由」を捜しているのですから。

 だから、名のない作者はとにかく大量に本を読まねばなりません。

 ああ、もちろん、これは一般論で、若い作者が感性で書いた本が(多くは出版社の話題作りという思惑によって)芥川賞をとることはある。(絶対に直木賞は取れませんが)

 いったんそういったルートに乗った作者は、次回作から編集者がサポートして二番煎じを避けることができるので、あまり問題はないのです。

 問題は、フロックで新人賞をとった場合です。これはつらい。

 小さな賞では、編集者のサポートなどはロクに受けられないから、受賞作以降、書くもの書くものが全て二番煎じになる可能性がある。

 もちろん、編集者は、そんなハナシを雑誌には掲載しない。

 さらに、そういった新人は、大量に書く素地ができていないために、ほぼ数年後には消えていきます。
 毎年、数多く排出される新人賞受賞者のほとんどが消えていくのはこのためです。

 話が横にそれましたが、とにかく小説を書こうと志す者は大量に小説を読み続けなければならないのです。

 オリジナリティを出すために。

 少しでも多く読んで、それらと違う話をつくらなければならない。

 昔、どこかで影響を受けた、そのままをストーリーにして書いても絶対に認められません。

 しかし、こういった行為は、実のところ、自分で自分の首を絞める行為でもあります。

 「日の下(もと)に新しきものなし」

 完全オリジナルなものなど、西暦も2000年になった昨今ではほとんど無いからです。

 だから、読めば読むほど書けなくなる。

 そうなると、なにも知らずに、1から10まで影響を受けたコミックや小説を指摘できるようなハナシを書いている高校生たちが、本当に羨ましくなります。

 しかし、それを知った上で、新しいハナシを書けるようにならなければ、いつまでも殻を破ることはできません。

 その意味で、映画「私家版」はイタイ話です。まあ、これについては、また別に書きます。

 それでも、大量に読み、自分で書くと良いことがあります。

 楽器を弾く人は、同じ音楽を聴いても弾けない人と違う反応を示します。

 それは、その人が、その音の出し方の難しさ、楽しさ、肉体的感覚を持っているからです。

 小説もしかり。

 冒頭に書いたように、一度でもオリジナル・ストーリーを書くと、他人の作品を違う角度で読めるようになるのです。

 同時に、今、読んでいる作品が、あえて難しいストーリー展開をとらず、自分自身、何度か陥りそうになった安易な方向に進んでしまうと大変がっかりしてしまいます。

 これは、おそらくマンガを描く人が、他人のマンガを読んで感じることと同じなのでしょう。

 だからこそ、小説の好きな人にわたしは、自分で書いてみることをすすめるようにしています。

 本を100冊読むより、原稿用紙20枚の作品をひとつ書く方が世界が開けてみえるものだから。

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