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神がウソつかはるわけあらへんし……

 しばらく前に「方言で読む日本国憲法前文」の話をしましたが、法律文に限らず、世にある様々な文章の多くは標準語で書かれています。

 海外で著(あらわ)された古今の名著も然り。

 古(いにしえ)の賢人によって語られる人生の真理も、主に東京という一地方の方言である「標準語」で語られると、地方に住む我々にとっては少し遠く感じてしまいます(現在の「標準語」は江戸本来の言葉である「てやんでぇ」とも違うわけですが)。

 そこで、タイトルです。

 今、大阪で「神がウソつかはるわけあらへんし…」と始まる「ソクラテスの弁明 関西弁訳」(北口裕泰訳・PARCO出版)が売れているそうです。

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 この文章を読んで、かつて、大塩平八郎や浅野内匠頭・大石内蔵助といった歴史的大物たちの話し言葉について考えていたことを思い出しました。

 歴史モノに限らず、小説を書くときに迷うのは、「方言で書くべきか、標準語にするべきか」です。

 大塩平八郎は大阪の人間ですから、

「このままやったら、世の中が駄目になるんや。せやからワシらがなんとかせなならん」

と、反乱を起こしているはずでし、同じく関西の人間である大石内蔵助は、

「浅野家再興の成り行きを見るまでは、焦った行いをしたらあかんのや。仇を討つのは、その後でええ」

と、家臣を抑えていたことでしょうが、世のドラマを観ると、もう判で押したように、皆標準語で話していますね。

 基本的に、関西言語は役者にとってイントネーションが難しいからでしょうが、小説においても、彼らが標準語で話していると妙な気持ちがします。

 何かの文学賞に応募する時なども、「方言を使うか否か」は難しい判断となります。

 あまり方言を激しく使うと、下読みの段階で選者に弾かれることがあるからですね。

 標準語に慣れた選考人は、同じレベルの作品が並んでいたら、読みやすい文章を選んでしまいますからね。

 その方言がうまく文章と内容にマッチするように使うなら有効だと思いますが。

 しかし、憲法前文方言化でも少し書きましたが、おらが言葉で語られると、自分たちの血肉と化して文章が入ってくるような気がするのですね。

『ソクラテスの弁明 関西弁訳』

 訳者の北口氏は、わたしが学生の頃熱中し、大学図書館で何度も全集七巻を借り、CD全集も揃え、幾度となく独演会に出かけた、桂米朝の語り口を手本に『無知の知』をソクラテスに語らせています。

 結果として、非常に魅力的で分かりやすい訳本に仕上がりました。

 関西地方の方は哲学知識を増やすために、それ以外の地方の方は岩波の標準語版と読み比べるのも面白いかもしれません。

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