そろそろ頃は良し、ということで、映画「GANTZ Perfect Answer」を観てきた話をしようと思います。
個人的には、「日本のSFだし、ショボいの分かってるし、主役級のダブルキャスト人気(二宮和也+松山ケンイチ)だけの映画だし……」と、観にいくべきかどうか迷っていたのですが、結局、誘われて公開直後に出かけてしまいました。
原作のほうは、新連載の頃から読んでいます。
しかし、まさか、「あの」内容をそのまま実写化できるとは思わなかったので、映画の第一弾は観ていませんでした。
実写化に際して、変なデフォルメがかかるぐらいなら観ない方がましです。
しかし、映画公開の前日、つい興行者の思惑にのってテレビ放映された前編を地デジ録画用のトルネで録画してしまったのです。
早送りしつつナナメ観(み)すると、原作にはない(おそらくテレビオリジナルの)妙な編集は入っているものの(だからタイトルは「Another Gantz」)、田中星人のデキ具合に感心してしまいました。
動きの方も、ちょっとワイヤー・アクションにしつこさは感じたものの、内容自体は悪くない。
なにより、ガンツ・スーツを実写で観ることができたのが収穫でした。
そして観てきた後編「Perfect Answer」。
当然ですが、原作とはまったく別物の作品になっていました。
前編では、まだ、ネギ星人や田中星人など、原作とゆかりのある「異形の宇宙人」が出ていましたが、後編は完全な「ヒトガタ宇宙人」ばかりです。
ああ、そうだ、細部にこだわる前に総評を書いておきます。
全体としては、まあ良かったです。
ここで盛り上げるゾ、という山がいくつかあって、それに乗っかれる人は楽しめると思います。
わたしは楽しめました。
残念なのは、脚本、というか筋立てに「無意味な部分」というか「必然でない」ものがかなりあったことです。
以下、ネタバレちゅうい
まず、
・加藤のニセモノ(カトー星人?)が出てくる理由がわからない。
千手観音型星人、通称「千手(せんじゅ)」が、ミッション終了後の転送待ちであった死にかけの加藤を殺したのは良い。
だが、その姿を借りて何がしたかったのか最後までわからない。
あえていえば、営業上の理由で、松山ケンイチx2ならば、人気もニバーイということなのでしょうか?
だったら二宮和也のコピーも作って(原作には二人のクロノがいるのだから)、
(松山ケンイチx2)+(二宮和也x2)=(女性に大人気)
という方程式を組んだということでしょうか……
余談ですが、よく野球で「勝利の方程式」っていいますよね。
わたしは、それがどういう意味かわからなかった。
だって、
先発→中継ぎ→セットアッパー→ストッパー
の流れだったら、これは数学でいう「式の変形」に過ぎないじゃないですか?
しかし、ある時、気がついたのです。
勝利の「方程式」の意味に。
ご存じのように、方程式とは、
XYZA=0
↓
HJGF=0
↓
HOKS=0
のように、等式を変形させて解を導くものです。
つまり、「勝利の方程式」とは、
(バッター:打率3割) X 中継ぎ =0点
(バッター:打率2割5分)X セットアッパー =0点
(バッター:打率2割) X ストッパー =0点
と、バッターがどれほどのポイント(打率)を持っていても、得点を0にするピッチャー起用パターンと考えれば良いのですね。
いやあ、もう皆さんご存じだったのでしょうが、誰も教えてくれなかったので、気づくのが遅れてしまいました。
話を元に戻します。
気になった点です。
・通称「黒服星人」たちの最初のリーダーと千手の関係が不明。
・カトー星人がGANTZにかけた水の意味と効果が不明(どこかに説明があるのだろうか?わたしが見逃しただけ?)。
・ラスト近く、タランティーノばりの膠着(こうちゃく)状態から、大人数が至近距離で銃を撃ち合っているのに、カトー星人には当たっていない、あるいはそれほどダメージを受けていないのはなぜか?
・それなのに、最後にクロノが撃った、たった一発の銃弾?によってカトー星人が吹っ飛ぶのはなぜか?
・同様に、GANTZチームではクロノと加藤だけがそれほど被弾していない(クロノは撃たれていたけれど)。
・ガンツのエネルギー源を「中に納まっている人型生物(裸の男)の生命エネルギーである」とするのは良いが、問題は「ガンツを地球に寄越した者の存在も目的も」あやふなやままでいることだ。
ガンツ自体は、戦いを望んでいるのではなく、どこからかの指令によって、地球人を戦わせているのだから。
だから、(おそらくはたくさんある中の)いちGANTZに過ぎないクロノが、最後にすべての人間を生き返らせ(これも、GANTZによって転送されたことのない者まで生き返るのはおかしい。DNAデータがないはずなのに)、今後の戦いをやめてしまう、ことなどできないはずなのだ。
と、それらの破綻(はたん)を差し引いても、クロノが最後に見せた、誰からも知られない自己犠牲の精神には感動させられる。
あるいは、それが、少し前まで激しかった「拝金主義」から日本が脱却しつつある証明なのかもしれない。
最後に、GANTZに関して思うところを書いておきます。
GANTZは、原作者の奥浩哉が高校時代に書き殴ったものがプロトタイプだといわれています。
まあ、ロボコンのガンツ先生からのインスパイアだったのでしょう。
普通の人間が、日常から突然、非日常へ放りこまれた時に見せる、その人の本質を描きたかったのだと思います。
わたし個人にとって、GANTZが気になる理由はひとつです。
GANTZを知る前の、原作の玄野計は日常をつまらなく思っている高校生でした。
子供の頃は、野原を飛び、跳ね、何でもできた特別の「小さな王国の万能の王」であったはずの自分が、いまや大勢の高校生の中に埋没し、特別でもなんでもない凡夫であることに気づいています。
身長もさほど伸びず、よって、体格が物を言う学校の部活のエースではなく、勉強も飛び抜けてできるわけではない。
そして、それが当たり前だと思っている。
すべてを自由に決定できた、子供の頃の玄野の才能は、大人が欲しがる答えを要求する学校のシステムには適応しなかっただけなのに。
しかし、久しぶりに会った加藤にとって、玄野は英雄であり、何でもできるスーパーマンのままだった。
「すげえ!」「さすが計ちゃん」
そういった加藤の言葉が、学校という画一主義、社会が作ったシステムの中で『死んでいた』玄野の『英雄』を目覚めさせていく……答えの見えない星人との戦いにおいては、玄野が眠らせていた才能こそが重要であったことに、彼は気づいていく。
つまり、システムによって圧殺された個人の才能の復活と覚醒、それが、わたしにとってのGANTZの魅力なのです。
しかし、まあ、GANTZには、わたしが手放しで好きになれない理由があります。
かつて友人が、ドラゴンボールについて、わたしにいった言葉を引用させてその理由とさせていただきましょう。
「俺がドラゴンボールを許せないのは、努力するクリリンより、サイヤ人という『遺伝:血筋』で強さが決まってしまうことと、ドラゴンボールという存在自体が、子供たちに、『何が起こってもリセット可能』という考えを教えてしまったからだ」
まさしくその通りです。
GANTZにも、そういった点がある。
たとえ死んでも、100点満点で再生できるという点でリセット感がある。
物語をつくる上で、わたしが避けようとしているのは、ハナシを夢オチで終わらせないことです。
それはドラマツルギーの最終兵器であって、軽々しく使ってはならないものですから。
しかし、いよいよ現在連載中の原作では、GANTZの機能が縮小されて人間の再生ができなくなりました。
つまり命のリセット不能。
そして、地球にやってきた巨大星人の巨大宇宙船に決死の突撃をかけるGANTZチーム。
あれ、映画の話をしていたのに、いつのまにか原作コミックの話になってしまいました。
ともあれ、前後編がDVD化されたら、二つ同時に借りて、続けて観てみようと思っています。