記事一覧

ネット検索で人の頭はかしこくなるか? ~検索知の限界~

 夜も更け、というか明け方近く、今日一日の仕事を終え、さあ寝ようかという段になって、どうしても書いておきたいことを思いついて、いま、これを書いています。

 今週発売の「週間アスキー」の「今週のデジゴト」で、山崎浩一氏が『検索と知』というコラムを書いていました。

 詳細は、アスキー誌で読んでいただくとして、内容をざっと説明すると、その発端は、氏が小学校6年生の息子から、「5秒で検索できちゃうことを、どうしていちいち学校で覚えなきゃならないの」と尋ねられたことから始まります。

 家庭では(おそらくは、あえて)パソコンやケータイすら使わせていない息子が、学校のパソコン授業で、google検索のやり方をならった時に感じた素朴な疑問なのでしょう。

「パパだってお仕事でわからないことがあると、何でも検索して調べてるでしょう。学校で勉強して忘れたことでも、5秒で調べられるのだから、暗記しなくてもいいじゃん」

 しごくまっとうな疑問で、うかうかと聞いていたら、説得されてしまいそうになりますが、父親はそれに対して、まことに適切な返答をします。

 氏は、広辞苑などの国語辞典の使用を例に出し、「辞典を使うのは、小説などを読んでいて、わからないコトバにでくわした時だろう?わからないコトバが出てきたことがわかるためには、『それ以外のコトバ』がわかっていなければならないね。つまり、それが大切なことなんだ。自分がそれを知らないことに気づくためには、そのまわりにあることを知っていなくちゃならない。知らないということは、知っていなくちゃ気づけないものだから……」

 そうして、氏は息子にいうのです。

「パソコンの検索も、むしろよく勉強した人ほど便利を実感できるツールなんだ」

 結論。

「人間の脳は、その中に詰め込まれた知識どうしをいろいろ組み合わせたり、それまで知らなかった知識で新しい組み合わせを作ることによって、自分だけの考えやアイデアを作っていくものなんだ。たとえ忘れてることだって、実はちゃんと使われているんだ」

 まったくその通りです。

 実は、つい先日、あのJ・ホールドマンのハードSF「終わりなき平和」(これについては、別に書きます)を読んだばかりなので、特に、こういった「ネット検索と個人の知」について、色々と考えているところでした。

ファイル 642-1.jpg

 国民のほとんどが、脳を直接ネットワークに接続(電脳化)され、頭に単語を思い浮かべるだけで、自分用に調整された連想検索ソフトが、自動的に、脳内に関連情報を流し込んでくる、進化しすぎた電脳社会を描く「攻殻機動隊」ワールドではなく、ホールドマンの描く近未来は、選ばれた人間だけが脳に接続のプラグを埋め込んで他の人間と意識を共有できる、という現実味を帯びた設定になっています。

 その世界では、プラグによって他の人間(それほど多くなく20人程度)とつながっている間は、その人々の話す様々な言語を操ることができ、複雑な物理公式を理解できるものの、プラグを抜いて個人にもどると、なんとなく雰囲気は残るものの、実際の能力は消えてしまうのです。

 いや、何が言いたいかというと……

 ホールドマンが描くような、人同士が脳をつないで知識の共有をはかるのであれば、ヒトが多くの作業を受け持つので、比較的早く実現しそうな気がするのですが、おそらく現在のパソコン検索の延長線上にある、脳を直接ネットワークに接続し、頭に思い浮かべるだけで知識を得ることができる世界、というのは、技術的・倫理的にまだまだ実現は、先になるだろうということです。

 だから、あとしばらく、ヒトはスタンドアローンの知識を脳内に溜め続けなければならない。

 脳内の、「発想のとっかかり」としての記憶の便利さは、ネット検索の比ではありません。

 氏のコトバを借りれば「何を検索してよいかわからなければ、検索のしようがない」からです。

 もう少し正確にいえば、なにかのきっかけでネット検索を初めて、調べたことがらに、また疑問点があらわれて、それを検索して……をくりかえす(これこそがネットサーフィンなのでしょうが)うちに、なんだか、「モノゴトがわかったようなツモリ」になってしまうことが問題なのです。

 それは、いわば、きっちりとした固い(solid)知識ではなく、漠然とした(vague)雰囲気知識に過ぎず、時とともに霧散してしまいがちなものだからです。

 まあ、「たゆまない革命の挫折こそが真の革命だ」などという格言?もありますし、それに照らせば、「四六時中知識をネット検索すること」こそが「現代の知識であり智恵なのだ」ともいえるのかも知れませんが……ま、現実には、そんな知識は世間話に役立ちこそすれ、実際の役にはたたないでしょう。

 
 わたしの意見も、山崎氏の意見とほぼ同じですが、少々付け加えさせてもらえるならば、物知りなだけでは、体系的な創作ができない、ということも忘れてはならないと思います。

 世の中にはクイズ王という人がいますね。

 記憶力が良く、なんでも答えられる人が。

 しかし、雑学知識を沢山知っていても、本当に役立つものを生み出せるかどうかはたいへん怪しい。

 こういいかえてもいい。

 体系的な知識の上にたつ思考実験、あるいは計算などの数学的知識、マトリクス(行列)やベクトル、微分積分や指数対数の扱いは、地道な学習以外の方法では身につかない、と。

 いくらネットで検索しても、断片的な知識が手に入るだけで数学の体系的な学問素養は得られない。

 なにも数学に限ったことではないでしょうが、まあ、数学が一番分かりやすい例でしょうね。

 こういった体系的な学習、しっかりした根があり、そこから伸びる太い幹があり、大きく枝を伸ばした、大樹に似た学問の形は、それだけで美しく「一部が全部、全部が一部」であり、部分を拾い読みしても理解することは難しいのです。

 かつて一世を風靡した、某女性評論家(最近では、なれ合いケンカ相手の女性精神科医同様、メッキの剥がれた感が否めませんが)が、さかんに勧めていた、何かを一通り理解しようとしたら、とにかくそのテーマの本を十冊読め、という安易な学習法の欠点もこのあたりにあると思われます。

 確かに、それで何とかなる分野もあるでしょう。

 無知な人に披露する「知ったかぶり経済知識」なども、なんとか手に入る。

 しかし、スポーツだって十冊読めば何とかなる、と言うに及んでは、本気なのかなぁ、と、顔を覗き込みたくなります。

 あげく、大型バイクにのって事故を起こし、腕を骨折する重傷って、なんなんだろう、あの人は。

 バイクの運転などは、本とネットの付け焼き刃知識ではどうにもならない、運動能力と経験「知」の融合体なのですから。

 山崎氏がサラッと書いたように、地道な学習で知識のある人、いいかえれば、よく勉強した人のみが、ネットをよりうまく活用できるのです。

 恐ろしいのは、安易に、ネット検索におぼれ、知識から知識を渡りあるいたあげく、自分自身がsomething、ナニモノカであるように錯覚してしまうことです。

 近頃増えつつある、ネット検索によるアタマデッカチな人々は、かつて伊丹十三がその著書で述べたように、「わたし自身は空っぽの器に過ぎない」ことを再確認する必要があるのではないでしょうか。 

ネット検索で人の頭はかしこくなるか? ~検索知の限界~

ネット検索で人の頭はかしこくなるか? ~検索知の限界~

 夜も更け、というか明け方近く、今日一日の仕事を終え、さあ寝ようかという段になって、どうしても書いておきたいことを思いついて、いま、これを書いています。

 今週発売の「週間アスキー」の「今週のデジゴト」で、山崎浩一氏が『検索と知』というコラムを書いていました。

 詳細は、アスキー誌で読んでいただくとして、内容をざっと説明すると、その発端は、氏が小学校6年生の息子から、「5秒で検索できちゃうことを、どうしていちいち学校で覚えなきゃならないの」と尋ねられたことから始まります。

 家庭では(おそらくは、あえて)パソコンやケータイすら使わせていない息子が、学校のパソコン授業で、google検索のやり方をならった時に感じた素朴な疑問なのでしょう。

「パパだってお仕事でわからないことがあると、何でも検索して調べてるでしょう。学校で勉強して忘れたことでも、5秒で調べられるのだから、暗記しなくてもいいじゃん」

 しごくまっとうな疑問で、うかうかと聞いていたら、説得されてしまいそうになりますが、父親はそれに対して、まことに適切な返答をします。

 氏は、広辞苑などの国語辞典の使用を例に出し、「辞典を使うのは、小説などを読んでいて、わからないコトバにでくわした時だろう?わからないコトバが出てきたことがわかるためには、『それ以外のコトバ』がわかっていなければならないね。つまり、それが大切なことなんだ。自分がそれを知らないことに気づくためには、そのまわりにあることを知っていなくちゃならない。知らないということは、知っていなくちゃ気づけないものだから……」

 そうして、氏は息子にいうのです。

「パソコンの検索も、むしろよく勉強した人ほど便利を実感できるツールなんだ」

 結論。

「人間の脳は、その中に詰め込まれた知識どうしをいろいろ組み合わせたり、それまで知らなかった知識で新しい組み合わせを作ることによって、自分だけの考えやアイデアを作っていくものなんだ。たとえ忘れてることだって、実はちゃんと使われているんだ」

 まったくその通りです。

 実は、つい先日、あのJ・ホールドマンの「終わりなき平和」(これについては、別に書きます)を読んだばかりなので、特に、こういった「ネット検索と個人の知」について、色々と考えているところでした。

ファイル 641-1.jpg

 国民のほとんどが、脳を直接ネットワークに接続(電脳化)され、頭に単語を思い浮かべるだけで、自分用に調整された連想検索ソフトが、自動的に、脳内に関連情報を流し込んでくる、進化しすぎた電脳社会を描く「攻殻機動隊」ワールドではなく、ホールドマンの描く近未来は、選ばれた人間だけが脳に接続のプラグを埋め込んで、他の人間と意識を共有できる、という現実味を帯びた設定になっています。

 その世界では、プラグによって他の人間(それほど多くなく20人程度)とつながっている間は、その人々の話す様々な言語を操ることができ、複雑な物理公式を理解できるものの、プラグを抜いて個人にもどると、なんとなく雰囲気は残るものの、実際の能力は消えてしまうのです。

 何が言いたいかというと……

 ホールドマンが描くように、人同士が脳をつないで知識の共有をはかるのであれば、ヒトが多くの作業を受け持つので、比較的早く実現しそうな気がするのですが、おそらく現在のパソコン検索の延長線上にある、脳を直接ネットワークに接続し、頭に思い浮かべるだけで知識を得ることができる世界、というのは、技術的・倫理的にまだまだ実現は、先になるだろうということです。

 だから、まだまだ、ヒトは、スタンドアローンの知識を脳内に溜め続けなければならない。

 脳内の、「発想のとっかかり」としての記憶の便利さは、ネット検索の比ではありません。

 氏のコトバを借りれば「何を検索してよいかわからなければ、検索のしようがない」からです。

 もう少し正確にいえば、なにかのきっかけでネット検索を初めて、調べたことがらに、また疑問点があらわれて、それを検索して……をくりかえす(これこそがネットサーフィンなのでしょうが)うちに、なんだか、「モノゴトがわかったようなツモリ」になってしまうことが問題なのです。

 それは、いわば、きっちりとした固い(solid)知識ではなく、漠然とした(vague)雰囲気知識に過ぎず、時とともに霧散してしまいがちなものだからです。

 まあ、「たゆまない革命の挫折こそが真の革命だ」などという格言?もありますし、それに照らせば、「四六時中知識をネット検索すること」こそが「現代の知識であり智恵なのだ」ともいえるのかも知れませんが……ま、現実にはそんな知識は、世間話に役立ちこそすれ、実際の役にはたたないでしょう。

 
 わたしの意見も、山崎氏の意見とほぼ同じですが、少々付け加えさせてもらえるならば、物知りなだけでは、体系的な創作ができない、ということも忘れてはならないと思います。

 世の中にはクイズ王という人がいますね。

 記憶力が良く、なんでも答えられる人が。

 しかし、雑学知識を沢山知っていても、本当に役立つものを生み出せるかどうかはたいへん怪しい。

 こういいかえてもいい。

 体系的な知識の上にたつ思考実験、あるいは計算などの数学的知識、マトリクス(行列)やベクトル、微分積分や指数対数の扱いは、地道な学習以外の方法では身につかない、と。

 いくらネットで検索しても、断片的な知識が手に入るだけで数学の体系的な学問素養は得られない。

 なにも数学に限ったことではないでしょうが、まあ、数学が一番分かりやすい例でしょうね。

 こういった体系的な学習、しっかりした根があり、そこから伸びる太い幹があり、大きく枝を伸ばした、大樹に似た学問の形は、それだけで美しく「一部が全部、全部が一部」であり、部分を拾い読みしても理解することは難しいのです。

 かつて一世を風靡した、某女性評論家(最近では、なれ合いケンカ相手の女性精神科医同様、メッキの剥がれた感が否めませんが)が、さかんに勧めていた、何かを一通り理解しようとしたら、とにかくそのテーマの本を十冊読め、という安易な学習法の欠点もこのあたりにあると思われます。

 確かに、それで何とかなる分野もあるでしょう。

 無知な人に披露する「知ったかぶり経済知識」なども、なんとか手に入る。

 しかし、スポーツだって十冊読めば何とかなる、と言うに及んでは、本気なのかなぁ、と、顔を覗き込みたくなります。

 あげく、大型バイクにのって事故を起こし、腕を骨折する重傷って、なんなんだろう、あの人は。

 バイクの運転などは、本とネットの付け焼き刃知識ではどうにもならない、運動能力と経験「知」の融合体なのですから。

 山崎氏がサラッと書いたように、地道な学習で知識のある人、いいかえれば、よく勉強した人のみが、ネットをよりうまく活用できるのです。

 恐ろしいのは、安易に、ネット検索におぼれ、知識から知識を渡りあるいたあげく、自分自身がsomething、ナニモノカであるように錯覚してしまうことです。

 近頃増えつつある、ネット検索によるアタマデッカチな人々は、かつて伊丹十三がその著書で述べたように、「わたし自身は空っぽの器に過ぎない」ことを再確認する必要があるのではないでしょうか

戦場に生き戦場に…… ~マリィ・コルヴィン死す~

シリア滞在中の欧米ジャーナリストたちが、潜伏していた建物を攻撃されて、殺されました。

 テレビはみないので、日本の番組で、どの程度放送されたかわからないのですが、世界の主要メディアは、彼らの死をこぞってメインニュースにとりあげています。

 当然のことながら、彼らは政府批判のため、つまり「正確な」報道をするために入国しようとするため、国からの「正式な」許可は下りず、結果的に密入国をしています。

 シリア政府は、それを理由に、謝罪その他の正式対応は一切しないとコメントしました。

 犠牲になったジャーナリストの中に、サンデー・タイムズの記者であるマリィ・コルヴィンがいます。

 彼女は、およそ三十年にわたって、シェラレオネからチェチェンにいたるまで、世界の危険な紛争地ばかりを取材してきました。

 一年前には、あのカダフ大佐に独占インタビューもしています。

 以下は英BBCの映像です。

ファイル 639-1.jpg

 彼女は、中東を中心にジャーナリストとして活躍しました。

 他の人が見ることができないものを見、伝えることが指名だと考えていたのです。

 そして、それを身をもって実践してきました。

ファイル 639-2.jpg

 強すぎる勇気は、時に代償を求めます。

 2001年、彼女は、スリランカ内戦の取材中に爆発に巻き込まれ、左目を失明しました。

ファイル 639-3.jpg

「取材報道にリスクはつきものです。リスクを冒さずに取材はできません」

 その時のコメントです。

ファイル 639-4.jpg

 多くの他の紛争ジャーナリスト同様、彼女の母は、

 「娘は、大好きな仕事をしていて死んだのです」

 と、(表向き)淡々と彼女の死を受け入れているように見えます。

 単に危険という異常に、危険な仕事です。

 常に覚悟はされていたのでしょう。
 

ファイル 639-5.jpg

 凛々しい人です。
 これほど黒のアイパッチが似合う女性を、彼女以外では、アンジェリーナ・ジョリィ演じる「スカイキャプテン」のフランキィしか知りません。

最後に……

 シリアに密入国した際の、彼女のメールが残っています。

「オフロード用のバイクで、猛スピードで野原を横切るのはちょっと面白かった。近くにシリアの検問所さえがなければもっとよかったのに、近いうちに会いましょうね」

 戦争記者マリィ・コルヴィンは、2012年2月22日になくなりました。

 この世から、またひとり、ハンサムな女性がなくなったことを切にいたみます。

ページ移動