記事一覧

これを買って損は無い(はず) ~教科書でおぼえた名詩~




(写真をクリック)

 ふらりと入った本屋で何気なく手にしたのが、この本でした。

 もちろん平積みではありません。

 目立たぬ書架の、目立たぬ場所に、ひっそりとおかれていました。

 手に取った瞬間、目に入ってくるのは、なんだか郷愁(きょうしゅう)を誘うヒマワリ畑の写真。

 さすがに、わたしが子供の頃でも、茅葺き屋根の家は、ほとんど見かけませんでしたが、とにかく奇妙な懐かしさに誘われて、ページを繰り、目次を見ると……

 日本人なら誰でも、小学校あるいは中学校の国語の教科書で目にしたことのある詩が、あるわあるわ、ずらりと並んでいます。

 コピーには、
「昭和二十年代から平成八年までの日本の中学、高校の国語教科書千五百余冊の中から、誰もが知っている二百五十篇の詩、漢詩、訳詩、短歌、和歌、俳句を精選したまさに国民的愛唱詩歌集」
とあります。

 およそ、今成人している人なら、一度は目にしたことがある詩歌集というわけです。

 収録されている詩人も多彩です。

 萩原朔太郎、高村光太郎、宮沢賢治、島崎藤村、土井晩翠、武者小路実篤、国木田独歩、釈迢空、高見順、伊東静雄、蒲原有明などなど。

 個人的に、高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」が載っていたので有頂天になってしまいました。

 あと、若き天才少年谷川俊太郎の「二十億光年の孤独」とかね。

 巻末にうろおぼえ索引、作者・題名索引が載っているのも便利です。

 この本は、ご夫婦で、あるいは親子でワイワイいいながら音読するのが正解でしょう。

 案外、親子で同じ詩を習っているものですから。

 とにかく、これはオススメです。

イノセント・ゲリラの祝祭



 海堂 尊氏の「イノセント・ゲリラの祝祭」を読みました。

 読み終わっての感想は、あまりありません。

 正確にいうと、小説「イノセント~」に対しての感想は、です。

 なぜなら、この作品は、これから始まる「厚労省」対「A.I.(*)導入派」のパワーゲームの序章に過ぎないから。

  • ------------------------------------------

A.I.

 死亡時画像病理診断(オートプシー・イメージング)
 検査機器を用いて、遺体に損壊を加えず、死因を特定する診断法。
 いわゆる非破壊検査の一種。
 解剖医の不足から、年間数パーセントしか行われていない不審死診断を、飛躍的に向上させるものと期待されている……らしい。

  • ------------------------------------------

 はっきりいえば、本作から、海堂氏はミステリとしての「バチスタ」から、より政治性の強い、松本清張的社会小説へ舵(かじ)をきったということです。



 第二作の「ナイチンゲールの沈黙」が、ミステリとしてハズし気味だったため(別項で書きます)、おそらくは、彼の本道である社会小説、しかも彼がそれを社会に訴えるためにバチスタを書いたといわれている「AI導入」を、小説の軸に据えなおしたのでしょう。
 ご当人も「某医療機関の病理医として世間に訴えたい問題があり、それをフィクションに盛り込んでいる」と述べていますしね。



 この3月公開される、小説第3作「ジェネラルルージュの凱旋」あたりから、そういった感じは受けましたが、「イノセント~」に至っては、ついに満足?な殺人事件すら発生しなくなります。

 考えてみれば、海堂氏は「バチスタ」の頃から「ミステリ部分の真相は、そう意外ではない」(選評時の大森望氏)と評されていたわけだし、ミステリ的なギミックがそれほど得意ではなく、こだわりもないのでしょう。

 瀬名秀明の「パラサイト・イヴ」を読んで、当時、分子生物学の実験をやっていた海堂氏は、こういう小説なら自分にも書けそうだ、と思ったらしいし。

 ということは、彼の、小説へのとっかかりは、ホラー、というか怪奇小説だったのかな。

 おそらく小説の体裁にはあまりこだわりがないのだろうな。

 と、いうより、やはり、世の中に伝えたい(AI導入)欲求が強すぎるのでしょう。

 今回の「イノセント~」は、もう田口、白鳥ペアの進むレールは敷いた、あとは、ミステリという余計なコロモは脱ぎ捨てて、厚労省や既得権益団体をバッサリ斬って、AI導入後の良き未来を語って行こう、という感じが見え見えです。

 結論からいえば、一冊の本として出版するには、「イノセント~」は失格です。

 これから始まる大河ドラマの序章としてなら許せる範囲ですが。

 大河といえば、登場人物が、どんどん肥大化、というか増えていってますねぇ。
 覚えられるかなぁ。

 それはともかく、

 かつて、その謎に惹かれて読み始めた読者へのサービスとして、できれば少しだけでも、ミステリの香りを残して欲しかったと思うのは、わがままでしょうか。

体はイタクナイ、イタイのは……心  ~久坂部羊「無痛」~




    (写真をクリック)

 いつだったか、無痛症の少女のビデオを見たことがあります。

 痛みとは体の警告です。それをやったら体に害が及ぶからやめなさいという。

 痛みの感覚のない少女は、信じられないほど腕を曲げ、足をまわし、首を傾けて本をよんでいました。

 はっきりとした自覚のない幼年期には、まわりの大人が注意しないかぎり怪我をしてしまうこともよくあったそうです。

「痛みがない」で、わたしがすぐ思い出すのは、手塚治虫の「どろろ」です。

 最近、映画化されたので、皆さんご存じでしょうが、日本統一を成し遂げるという'''父の願掛け'''のために、体の各部と暑さ、寒さ、痛覚すら奪われてしまった百鬼丸が、妖怪を倒して体を取り戻す話です。

 物語の中で、どろろが百鬼丸にボヤきます。

「暑さを感じないなんて、アニキは便利だよな」
「便利なものか。気がつかないまま、いつ寒さで凍え死ぬか、暑さでうだり死ぬがわからないだぜ」

 医師であった手塚氏は、もちろん無痛症についても知っていたでしょう。

 もうひとつ、痛覚のない男の話をしておきます。

 それは、スパイダーマンの「サム・ライミ」が、かつて生み出した「ダークマン」です。

 敵の罠に落ち、受けた全身火傷の痛みを緩和するために脳手術を受けた主人公は、皮膚の感覚を失います

 体に流れ込む情報が極端に少なくなった彼の脳は、「寂しさのあまり」、時折暴走を起こし、爆発的な怪力を発揮するようになるのです。

 「脳が寂しがって」という考えは、わたしも大好きで、何度か自作のギミックとして使ったことがあります。

 おそらく、「痛覚が無い」というのは、特に医者出身の作家にとっては、ひどく魅力的なテーマなのだと思います。

 体に痛みはない、だが心の痛みは?

 確かに魅力的だ。

 さて、実のところ、「無痛」の作者、作家久坂部羊(くさかべよう)について、わたしはよく知りません。

 先日、新聞の広告でドでかく「無痛」の広告があったので気になっていたのです。

 なにより、

「カラマーゾフの兄弟」のスメルジャコフも、「ブラックジャック」のドクターキリコも、そして「羊たちの沈黙」のれくたー博士も今、この小説の中にいる……

という巨大な惹句(じゃっく=コピー)が気になりました。

 著者略歴に「大阪大学医学部卒業で医師、小説「廃用身」でデビュー、第二作「破裂」が10万部を超えるベストセラーとなる」とあります。

 やはり、医者なのですね。

 広告の紹介文を、もう少し引用しましょう。

 神戸市内の閑静な住宅地でこれ以上ありえないほど凄惨な一家四人残虐殺害事件が発生した。事件に大きく関わる二人の医師、為頼(ためより)と白神(しらがみ)。
 彼らは顔を見ただけで症状を完璧に当てる驚異の診断能力を持っていた。
 だが、この天才医師たちは、まるでブラックジャックとドクターキリコのように正反対だった!

 さすが幻冬舎、という感じですね。

 小説のコピーに、有名コミックの登場人物を引いてくるとは。しかも、「どろろ
で「無痛」の主人公を生み出した手塚治虫のキャラクターを。

 本屋に行って、手にしてみました。ざっと速読してみます。

 少しだけネタばらしをすると、二人の医師は、特に異能者というわけではありません。
 医師の診たては、まず問診から始まります。「どこが調子悪いんですか?吐き気は?」とかね。

 次に、彼は聴診器を患者にあて、聴診をします。

 そして、最後に患者に触れて触診をする。

 しかし、同時に医師は(本当は)最初から、患者を目視して、視診しているのです。

 現在は、エコーやCTなど、さまざまな機器で検査を行い、病気を発見します。

 では、その検査結果と、目で見た患者の特徴に因果関係はないのか?

 そこに、微細ではあるものの確かな因果関係がある、というのが、見るだけで症状を当てる二人の医師の存在根拠だったのですね。

 
 面白そうなので、書庫が重くなるのを覚悟で買ってみたんですが、よく見ると初版は2006年4月25日でした。

 新聞広告は文庫発売のものだったんです。

 まあ良いですけど、ハードカバーは文庫より重いので心配です。

 さっそく読み始めました。

 そうすると、すぐに分かる事があります。

 久坂部氏は文章がうまい。

 単文を重ねて、次々と複雑な内容を読者に送り込んでくる。

 読みやすいので、どんどんページが進む。

 ですが……最初に気づくべきだったのだなぁ。

 コピーに、レクター博士が出てくるって書いてあったでしょう。

 医学界の権力闘争、なんてものは一切出てこない物語ですが、かわりにスプラッタまがいの人体解剖殺人が出てくるんですね。「粘膜人間」のような(は、いい過ぎかな)。

 もう、そういうのは筒井康隆の「問題外科」だけで充分ですよ。

 おまけに、出てくる登場人物のほとんどが「臑(すね)に傷持つ」どころか、肉体異常と精神病一歩手前の病的人物ばかりで、気持ちが滅入ってしまいます。

●十代で自分を産んだ母親に虐待され、自閉症になる少女。
 
●先天的に尖頭症(せんとうしょう:頭が小さく尖る)で無痛症の青年。

●停留睾丸(ていりゅうこうがん=睾丸が腹腔に留まり、一見睾丸が無いように見える先天異常)で生まれた医師。

●子供の頃、脊椎カリエスにかかって背骨が湾曲している医者。

 殺された主婦も、かなり問題発言&行動の多かった人物のようです。

 唯一、母親に甘やかされて高校を中退し、人生を転落し続けているダメ男だけが、正常(つまり、普通に悪人)にみえるのは皮肉です。

 意外にも、物語の中核を為すのは「無痛」ではなく、「なにを今さら」という感じの「刑法39条(*)」でした。

 作者は、この法律を、かなりな執着心をもって攻撃をします。

 参考文献を見ると日垣隆氏の「そして殺人者は野に放たれる」があり、なるほどと納得しました。日垣氏はこのルポで名を上げたジャーナリストです。

  • --------------------------------------------------------

(*)刑法39条については、ご存じでしょうが、一応書いておくと、「心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を軽減する」というものです。
 近年は、異常殺人が発生するたびに、大体この法律が問題になりますね。

 一部には「刑法39条は、世界に類を見ない温情法である」と非難する声もあります。
 実際、その通りなのですが、精神的な病に冒されている人間に、闇雲に罪を問うことが良いとも思えません。
 たたし、39条の適用を泥酔者と麻薬中毒者にも適用するのはやり過ぎです。

  • --------------------------------------------------------

 そういった、病的な物語の傾向をのぞくと、「無痛」は、よくできた話です。
 
 ちょっと問題だったのは、なかなか事件が、つまり物語が収束しないことです。

「一挙891枚」の書き下ろしで、のこり15枚になっても、犯人は野放しに犯罪を繰り返しています。

 そして、あっというまに終劇(フィナーレ)。

 神の声(作者説明)によって、その後の経緯を説明し、了。

 もうすこし、配分を考えて書けば、中身の詰まった小説になったのに残念です。

 あるいは、書き下ろしで900枚を超えたあたりで、ストップがかかり、編集者に削られたのかもしれませんね。

 そう考えれば、たたき込みのラストも頷けます。

 一見、竜頭蛇尾に見えるかも知れませんが、書き残しはありませんから、作者は作家としての務めは果たしています。

 以後は余談です。

 誤解をされる方も多いので断っておくと、作家が、長編小説を書くのは、それほど苦しいことではありません。

 前にどこかで書きましたが、スペックを細かく書き込めば、たちまち枚数は稼げるからです。

 苦しいのは始めだけです。

 書き始めは30枚でも100枚でも苦しい。

 しかし、だいたい150枚を超えたあたりで加速がかかり始めます。

 300枚を超える頃には、小説の運動エネルギーはトップギアに入って、止めようとしてもなかなか止まらないほどになります。

 そう、物語には質量があるのです。

 実際、長編を書くのは簡単です。

 1000枚でも1200枚でも。書けといわれたらいくらでも書くことができる。

 それができないなら、プロフェッショナルの作家ではありません。

 書くのは簡単。

 難しいのは、あたりまえですが長編の面白い話を書くことです。

 これをクリアできる作家は数えるほどでしょう。

 ですから、いいかげん、長編をありがたがる風潮(とくに出版社側の)はやめたほうが良いと思いますね。

 映画化、ドラマ化などの利益を考えれば仕方がないかもしれませんが……

 ともかく、作家のストーリーテリングの能力を見るなら、短編か中編を読めば良いのです。

 そこには、彼が長編で書くべきエッセンスが詰まっているのですから。

ページ移動