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鬼面人を驚かす? ~しょぼい自分を「大物」に見せる技術~

 この間、イキツケの古本屋をぶらついていると、「課長バカ一代」が一冊80円で売られているのを見つけて、反射的に買ってしまいました。




課長バカ一代(1)

 個人的に、野中英次は「クロマティ高校」よりこっちの方が好きなのです。

 タイトルは、もちろん、「課長島耕作」と「空手バカ一代」を足して二で割ったものです。

 内容は、「課長島耕作」と「空手バカ一代」の両辺の対数をとって微分してnを無限大に近づけたような感じで、はっきりいって、ハツシバ電気を真似た企業に勤めている(本当の意味での)バカという点しか要素が残っていません。

 おまけに、主人公の容姿は、クライング・フリーマンというか、オファードというか、まあそんな感じですが、中身は100%純粋なギャグマンガです。
 一巻の扉には「劇画と間違えて買わないように注意してください」との注意書きもある。

 全巻買って楽しく読ませていただきました(書庫の床が抜けそうなのに、また無駄な買い物を……)。
 もう十数年前の作品とは思えないぐらい面白い、というか、わたしのセンスがその頃のまま止まっているのかも知れませんが。

 その後、大学図書館で「課長バカ」が表紙になっている本を発見、またもや反射的に手にとって借りたのですが、そのタイトルが

「しょぼい自分を『大物』に見せる技術」(宝島社)内藤諠人(ないとうよしひと)著でした。

 これを小説に分類してよいか迷うのですが……




しょぼい自分を「大物」に見せる技術

著者は、以前に「人たらしのブラック心理術」を書いた人物で、専門は「説得学」?だそうな。

 帯を引用してみよう。

「才能も実力もないのに、出世するヤツ、金持ってるヤツ。なぜヤツらが選ばれるのか。運?それとも偶然?いや違う。彼らは、あなたにはない『大物力』を持っているのだ。(中略)才能も実力もいらない。ただ自分を「大物」に見せる。それだけであなたの人生はガラリと変わるのだ。見た目、ハッタリ、会話術……。あなたを大物に偽装する禁断の心理テクニックを伝授します」

 なんとも「宝島社」的に挑発的な文言(モンゴン)が並んでいます。

 「はじめに」はもっと刺激的だ。

 ビジネスマンにとって最大の悩み、そして不満は「がんばりが正しく評価されない」ということではないだろうか。(中略)会社を見渡してみると、実力もないヤツが出世していることは多いし、目だった数字を残しているわけでもないのに、なぜか一目置かれているヤツもいる。(中略)筆者に言わせれば、あなたには「大物オーラ」が足りないのだ。(中略)これに対して、実力もないのに評価されるヤツらは、みな「大物オーラ」を漂わせている。(中略)実力なんて関係ない。いま大物である必要もない。ただ「こいつは将来大物になるぞ」と思わせることができれば、それだけで出世していけるのだ。(中略)すべては演技でかまわない。いや、むしろ演技と割り切って徹底的に「偽装」できたものだけが、大物オーラを発することができるのだ。(中略)本書では「デキる人」など、はなっからめざさない。(中略)本書で目標とするのはただひとつ、「なにもしないのに評価される男」だ。

 いやはや、スゴイ鼻息だ。

 目次も面白い。

1章 見た目「大物を偽装しろ!」
   見た感じ「大物」になるコツ
2章 「大物」は毎日が舞台だ!
   「大物」っぽい演技のコツ
3章 大物の友達は「大物」(と思われる)
   「大物」を味方につけるコツ
4章 「大物」に見せれば交渉にも勝てる
   交渉でビビらせるコツ
5章 「大物オーラ」で部下が勝手についてくる
   部下に尊敬されるコツ
6章 あなたを「大物」に見せるステージをつくれ

 いやあ、本当にすごい。

 まあ、こんな本です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 え、このまま終わるのかって?
 いや、もういいじゃないですか。
 皆さんの心にも、わたしが感じたのと同じモノが浮かんでいるでしょう。
 ま、あえていえば、慶応大学の博士課程を卒業した筆者の主張は、かなり正しいと思います。
 主に米国の心理学者の行った実験データを駆使して、自身の主張を補強するワザもまずまず。
 筆者のいい方を借りれば、彼もかなり「大物力」を持っている。
 あーよかった。面白い読み物でした。
 
 
 
 
 

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 ちょっとだけ老婆心を発揮すれば、まさか、この本を借りている学生たちは(といって、裏扉の貸し出し記録を見る、あ、ほかの本はほとんど借りてネェのにこの本は、20人以上借りてる!)、この本を、ジョークネタ以外に使おうとは思わないでしょうね?
 
 
 まさか、本の内容を本気にして真似をする、なんてコトは……ないよね。

 あー良かった。ちょっと心配になりました。

●大物に見せたければ外見を変えろ。 まず高身長であれ、デカくなれ。
 マッチョな体型になれ、無理なら三つ揃えのスーツを着て体をブ厚く見せろ。
 顔をデカく見せろ。顔のデカさはライオンのタテガミと同じだ。

小顔ブームは大物には無縁だ。

 こうなってくると、笑っちゃうね。

●大物にはブランド物の腕時計が欠かせない。借金してもロレックスだ。

●いい服を着ろ。スーツの値段があなたの値段だ!

●話さなくてもいいから大物に寄り添え!

●笑顔を安売りするな!ビジネス書には笑顔が大切と書いてある。

だが「大物」には笑顔は無用だ。

 大物はそうそう簡単に笑顔を見せない。どっしりと構え、口を一文字に結んでいるのが大物なのだ。

 こうなると、もう冗談なのかどうかわからなくなる。

 しかし、まあ、ピンボケなところもありますが、大筋でいえば筆者の言ことは正しい。

 人は高身長の人物の下に集いがちだし、アメリカでは相手の目線を下げるために、スプリングの弱ったソファに腰掛けさせ、自分はそれを見下ろして精神的優位を保とうとする。

 バカげていても、そういった小ワザが通用するのがセケンさまの恐ろしいところだ。

 「アメリカの大物」たちが、この本に書かれている心理作戦上のコワザを身に着ける勉強をしているのも事実ですし、われわれの周りでも、よく、実力もないのになんか目立つ者は存在する。

 知恵も勇気も実力もなさそうなのに、大臣になるマンガ好きな老人もいる。
 しかし、勘違いしてはいけません。

 セケンは案外甘いが、驚くほどカラくもある。

 彼または彼らには、バックに血筋だとか祖父に恩を受けたという人々がついていたりするのです。

 われわれのような裸一貫とはワケが違う。

 もともと何もない人間が、大物ぶっても、あるいは大物になついて勢力を得ても、実力と成果がなければ、やがては消えていきます。

 もちろん、見せ掛けを工夫して、一時的に世の中をウマく渡っていくことはできます。

 実際にそうしている者もいる。

 しかし、人の一生は、生まれてから死ぬまで。

 そして、これは断言してもいいが、ある人物のいい加減な行いは、親や子供、係累にまで悪い影響を与え、結果的にひどい晩年を送る場合がほとんどです。

 これは宗教的な意味でいってるんじゃないよ。行動心理学的に、周りの人間が「アイツの子供ダ、アイツのマゴだ」と、うらやみ憎んだあげく、そういった「悪意」が巡りめぐって「成功者の守りたいもっとも弱い部分」に齟齬が生じる、ということです。あるいは年老いて、力が弱った時のまわりの豹変ブリなどを例としてあげても良いでしょう。

 「かつての英雄、末路哀れ」の例は枚挙にイトマがない。

 英雄の定義のひとつは「悲劇的な最期をとげる」ことですから、それは仕方がありませんが。

 でも、誰だって英雄になって、末路哀れに生きたいとは思わないでしょう?

 こういった、安易で「実際的な方法」を、友人との会話でジョークとして使うのはかまいませんが、内容を鵜呑みにして実際に応用するのは危険です。

 ほとんどはハズして恥をかくだけでしょうが、なまじ効果的な場合もあるからタチが悪い。

 それでも、将来的に必ずしっぺ返しを食らうはずです。

 それも勉強だ、と突き放せればよいのですが、やはりちょっと心配ですね。

 著者も「頭で理解しただけの心理メソッド」を安易に「アメリカの心理学者の実験結果」で補強しながら、子供たちの耳に流し込むのはやめてほしいなぁ。

 結果的には間違っているんだから。

 あくまでも、ジョークとして読むのなら結構おもしろいのでお勧めですけどね。

 タイトルで「しょぼい自分」と購入者である読者を蔑(さげす)んでいるのも、ちょっと変わってるし。

 っていうか、借りる時ちょっと恥ずかしかっただろ。どーしてくれるんだ。
 司書のおねえさん、変な目で見てたよきっと。

**は何でも知っている~ 東野圭吾、超・殺人事件

 今、わたしの机の上には、東野圭吾著「超・殺人事件」と同志社大学教授・左巻建男著「水はなんにも知らないよ」が並べて置かれている。



超・殺人事件―推理作家の苦悩 (新潮エンターテインメント倶楽部SS)

「超・~」は「名探偵の掟」と並んで、東野作品では、数少ないわたしの好きな作品だ。

 この作品が書ける同じアタマで「白夜行」だの「手紙」だのを書いてしまうのが作家の不思議なところだなぁ。

 いかんいかん、自分の好悪、特に悪の部分は押しつけてはいけない

 とにかく、「超・殺人事件」は面白い

 書庫を圧迫するので、なるべく買わないようにしているハードカバーで買ってしまったほどだ。

 この作品は、いままで売れなかった作家が、たまたまスマッシュヒットをとばして、稼いだ金を使いまくった挙げ句税金対策に追われる「超税金対策殺人事件」に始まって、コンピュータによる全自動書評マシン、ショヒョックスを全ての評論家が使うようになる「超読書機械殺人事件」までの8作を収録した、最高に面白い作品集なのだ。

 個人的にいえば、東野氏は陰気でマジメな作品より、こういったホタエタ作品の方に真価があるようなきがする。

 なかでもわたしが好きなのは「超理系殺人事件」だ。

 これは、ブンケイ頭脳しか持たない男が、それゆえに科学的な考えに憧れ、理科系ぶったあげくテロ犯人にされてしまうという、まことにブンカケイ魂をコケにした快作だ。

 作者自身、電気工学科を卒業した工学士でありながら作家であるという、アンヴィヴァレンツ、二律背反を持っているために、こういった作品を思いついたに違いない。

 科学に対する好奇心を持ち、自分は理科系だと思いこんでいるものの、実際には半可通(はんかつう)の知識しか持たない文化系ビト、東野氏は中学校の理科教師をその代表にしているが、わたしも含めて世の多くの自称理科系ビトはそんなものだろう。

 作品の扉には、ご丁寧にも「この小説が肌に合わない方は飛ばし読みしてください。」と表記されているが、もちろん読み飛ばす人などいないし、内容を本気にとって怒る人もいないという、編集者側の判断が働いているわけだ。

 うがって考えれば、自称理科系ビトは、そういったカラカイを受けても、よもや自分のことだとは思わない、思わない人種がエセ理系人(あ、書いてしまった)なのだという、作者の二重のカラカイがそこにあるのだ。



水はなんにも知らないよ

 というわけで、次の「水はなんにも知らないよ」である。

 多くの方はご存じだろう、これは「水は答えを知っている」「水からの伝言」に代表される、波動研究の第一人者、江本勝氏の一連の著作を皮肉ったタイトルだ。

 帯には「蔓延するニセ科学にダマされるな!」 (ほんとうは「まん延」と書かれてたけど、気持ち悪いから漢字にしました。がけっ縁とかね。ひらがな->漢字という妙な簡易熟語作成はもう辞めて欲しい)とある。

科学的根拠がないのに、いかにも科学的であるかのような顔をして世にはびこる「怪しい水ビジネス」を、検定外教科書のベストセラーで知られる科学教育の第一人者が徹底検証するのが「水はなんにも知らないよ」だ。

 まず、俎上(そじょう)にあがったのが、江本勝氏の「水からの伝言」だ。
 この本は、以前にわたしも大学図書館で借りたことがある。

 ご存じない方のために簡単に説明すると、水は「言葉」を理解するので、容器に入った水に向けて「ありがとう」「ばかやろう」と書いた紙を貼って凍らせると、「ありがとう」には対象形の美しい結晶が、「ばかやろう」は、汚い結晶になったり、結晶にならないという、主張というか研究発表なのです。

 この時点で、少しでも科学をカジった者(科学リテラシーを持っている、といいますが)なら、言下(げんか)に否定しないまでも、ヤミクモに信じはしないでしょう。

 「リテラシー」とは本来「読み書き能力」を意味します、故に科学リテラシーとは、最低限身につけなければならない科学的知識、という意味です。

 人文の世界とは違い(御異論はおありでしょうが)、科学とは厳密なものです。

 少なくとも研究の評価においては。

 科学に「新説日本ミステリー」はありません。30年(ワンジェネレーション)過ぎれば事実がうやむやになって検証も難しい歴史の世界とは違うのです。

 野に下った民間研究家の実験も、高名な研究所でも、同じ結果になる実験でないと、つまり厳密な条件下の下での再現性のある実験でないと、否定はせずとも信じてはいけない。

 このあたりを、オカルト好きな人々のみならず、非理科系の人々は認識が甘いようです。

 否定はともかく、きちんと検証されないかぎり、そういったニセ科学、疑似科学、似而非(エセ)科学を鵜呑みにしてはなりません。

 知識として信じる、信じないだけでなく、そういったマユツバ科学は、たいてい商売に利用されているからです。

 科学用語を使い、科学っぽい雰囲気で信じ込ませようとしますが、断じてそれらは本当の科学ではありません。

「水はなんにも知らないよ」で、著者は「波動」「クラスター」「磁化水」「π(パイ)ウオーター」「トルマリン」などといった、わたしたちがどこかで聞いたことをのある単語を使った商法をメッタ斬りにしています。

 個人的にいえば、われわれの科学はまだ緒についたばかり、手探りで暗闇を歩くにひとしい状況です。ほとんど何も分かっていないといってもよいでしょう。

 今、否定されていることも、後に正しいと証明されるかもしれない。

 だからこそ、わたしは、今、証明できないことすべてを否定したくはありません

 でも、だからといって、アヤシゲな仮説を頭ごなしに信じるのは絶対イヤです。

 そういった検証のあやふやな理論を商品化して売る、というのは明らかに間違っているからです。

 おそらく、先に述べた、自称理科系ビトなら、こういった似而非(エセ)科学にとびつきはしないでしょう。

 わたしは、そう信じたい。

 
 こういった雰囲気科学っぽい理論、商品に飛びつくのは、人文イノチで科学リテラシー欠如の、言い換えれば科学という名のファンタシーが好きな人々が多いのでしょうか。

 あまりお薦めしませんが、わたしは、個人が個人の権利でそういった似而非(エセ)科学に飛びつくのは自由だと思います。

 でも、人に影響を与える立場にある人間がそれではいけません。

 「水はなんにも知らないよ」の著者も、憂えているのは子供を指導すべき教師に、そういったニセモノにとびつきやすい人が多いことです。

 ああ、学校教育の話はやめておきましょう。

 続けると、とても自分の頭から出てくるとは思えないほど、悪意ある言葉がどんどん出てきそうでオソロシイ。

 とにかく、われわれ一般人にできるのは、突飛スバラシ過ぎる、世界を単純化するような原理、理論、科学が突如として現れたら、そして、それらが何らかの商品を伴っていたら、頭ごなしに否定はしなくとも、決して信じてはいけないということです。

 ゆっくりと、評価が定まるのを待ってから使っても遅くはない。

 時として、科学の検証は時間がかかるものですから。

夢をあおる功罪 ~夢をかなえるゾウ~

今大注目!!夢を叶える神 「ガネーシャ」
<\2,980↑>

 クロワッサンという雑誌がある。

 何年か前、この雑誌が「結婚して幸せになる」「子育てが生き甲斐」といったテーマの特集を組んで物議をかもしたことがあった。

 クロワッサンといえば、わたしも覚えているが、二十年ばかり前に「女は仕事」「キャリアウーマンが美しい」などの特集を大ヒットさせて、「働く女性」を大量に生み出す原動力になった雑誌だ。

 もちろん、歴史的な男女同権の時代の流れもあり、さらにその後の「男女雇用機会均等法」などの制定も「働く女性」を生み出す力とはなったが、イメージとして女性の社会進出を強烈にプッシュしたのは、この雑誌の存在が大きかった。

 クロワッサンの功績は、働く女性はカッコイイという考えを広めたことだ。
 わたしも、ああいった記事があって、結果的に女性の社会進出が早くなったと思う。

 だが、功があれば罪もある。

 それは、たかが一雑誌が、部数増刷のためのイメージ戦略として、「女性として母として、結婚をし、子供を生み育てながら社会に生きていく」という女性のマルチな可能性をアタマから排除して、「恋や結婚、家庭などはうち捨てて、仕事に生きるのがキレイな女性」と洗脳に近い特集記事を組み続けたことだ。

 あげく、その頃の読者が、しっかりと仕事人間、会社人間になりきり、なかなか年齢的にも出産がかなわなくなった今になって、「育児こそが女の幸せ」などという特集を組み出したら、はやし立てられ、二階へ登らされたあげく梯子をハズされたような気持ちになった元読者たちが、文句をいうのは当然だろう。

 雑誌の記事であれ生の人の助言であれ、人をノセて引き返せない場所に向かわせるなら、それなりに責任をとらねばならない。

 「自己責任」で逃れるには、当時、大人気だった雑誌は少々重い責任を背負っていると、わたしは思う。

 もちろん、ノセられる方も悪いのだが。

 わたしも、自身、会社を辞めて自営として長くやってきたため、今の仕事が嫌だというだけで、安易なアドバイスにのって社会の荒波に乗り出すことに、かなり懐疑的なのだ。

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 最近、「夢をかなえるゾウ」という本が読まれているそうな。

 初めてその本の名を耳にしたのは、今年のはじめだったか、阪神タイガースの矢野捕手がインタビューに応え、奥さんにすすめられて読んだと、この本の名を挙げた時だった。

 先日、友人の女性から、娘が「夢をかなえるゾウ」を読んで、なったばかりの介護士の仕事をやめて、スタイリストになりたいと言い出しているが、どうしたら良いだろう、相談を受けた。

 彼女は、わたしより年上で、しっかりとした立派な女性なのだが、こと娘に関しては、まったくの別人格になってしまう。

 早くに夫を亡くし、女手一つで育てたからだろうが、普段の彼女なら、きっぱりと「バカは辞めて、まず地に足をつけた生活をしなさい」というはずなのに、おろおろと心配するばかりで、きちんとしたアドバイスもまだ行っていないという。

 いったいどんな本を読んで夢を追う気になったのか、それを知らないと何もいえないと、まず「夢をかなえるゾウ」を読んでみた。

 読み終わっておもったのは、ごくふつうの啓蒙小説だ、ということだ。
 読み物として見ても面白い。

 クロワッサンのように、結果を考えず無責任に過度に煽ることもない。
 ごく、バランスのとれた小説だ。

 ところで、

 大人、というより先達が後進におこなってはいけないことが二つある。

 一つめは、若者の考えを頭ごなしに否定することだ。

 それが意外と難しいんだなぁ。これを読んでいる若い人には分からないかも知れないが、ちょっとトシとって世間を見たような気になったら、「自分の経験分」がごっそり抜け落ちている若者の意見など聞く気にもならなくなるんだよ、ホント。

 先行く者から見れば、はっきりとした能力の片鱗もみせず、ただ野心と勢いだけで世間の荒波にのりだそうとする若者は危なっかしく見えるのだ。

 だが、やってみるのは当人の権利だ。
 自分で決意し、責任をとって、何かに挑むなら、それがどれほど危なっかしく見えても、止めてはならない。
 もし、その相手が、自分の子供などの大切な者であれば、失敗した時に、出来る限り手をさしのべてやればいいのだ。

 次に、やってはならない二つめのこと、「絶対にやってはならないこと」は、コドモの甘い夢を煽ることだ。

 決断するまではコドモの話を聞いてやり、それについての厳しい意見、アドバイスを述べるべきなのだ。そして、あくまでも自分で決断させる。

 いったん決断して覚悟を決めたなら、手を貸し、見守ってやればいい。
 だが、決断する前に、安っぽいアジテーションを絶対におこなってはならない。
 失敗した時に、安易に責任転嫁させる対象になってしまうからだ。
 自分で考え決めないと、つまづいた時に、どこが悪かったかを自分で考えられなくなる。

 要は、成功しても失敗しても、本人が納得できなければダメだ、ということです。

 以上の点を、「ゾウ」は上手にクリアしていると思う。

 「絶対できる」と言わず「絶対ダメだ」とも言わず、ある意味、責任を逃れたズルい書き方をしているが、先に書いたように、内容自体には問題がない。

「本書に書かれているのは、どの啓蒙書にも載っていて目新しいことではない」
「やれば、成功するかも知れないが、やってもダメかもしれない」

等々。

 相談を受けた数日後、わたしは、以上をふまえて彼女に次のことを伝えた。

 娘さんを、頭ごなしに否定するのではなく、話を聞いてやり、親の目で能力を判断して駄目だと思ったら徹底的に反対すべし、と。

 え、何が以上をふまえて、だって?

 応援してやれって?

 だって、子の安全と安定を考えるのは、親の義務であり権利でしょう(責任かどうかはわからない)。
 わたしには子供はいないが、そう思います。

 たとえ、おとなしい書き方だとしても、啓蒙書や啓蒙小説は、所詮、(若い)読み手に希望の火で低温火傷させてナンボなんですよ。

 火傷してピリピリしているココロが、しばらくして落ち着くまで抑えるのも、やっぱり親のつとめだとわたしは思うのです。

 それに、本当にやりたければ、親の反対なんて何の役にも立ちませんからね。
 親の反対ゴトキで辞めるなら、それだけの決心なんですよ。

 こんなものも売られていますね。↓

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