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The younger,the better. ~第二言語学習~

 「子供は、本当に乾いた砂なのか?」

 みなさんは、どうお考えですか?

 砂といっても、味気ないとか、小粒であるといった例えではありません。

 多くの親たちが持っている、

「子供は、幼いほど乾いた砂が水を吸収するかのように何でも学習することができる」

という考えの中で使われる「砂」です。

 つまり、The younger,the better. 。

 それを信じて、たくさんの親が、子供に、ピアノ、ヴァイオリン、習字、そろばんは、さすがに少ないでしょうが、語学、特に英語を習わせています。

 まるで、自分が、そうしてもらえなかったことへの当てつけのように、幼児にナライゴトをさせているのを見ると、イマドキの子供って大変だなぁとかわいそうになります。

 とくに、英語の習得については、親の心の中に、自分がそうしてもらっていたら、何はなくとも、すぐに使えるスキルがあって後の人生が楽だったのに、という後悔めいた気持ちと、子供が、中学になった時に、わざわざ英語で苦労する必要がなくなる、という、二本柱が後押しして、習い事熱はさらにヒートアップするようです。

 これがヴァイオリンやピアノの場合だと、たとえ習わせても、よほど才能がないと、趣味にはなっても人生の大きな柱、つまり職業にはならないと考えるためか、熱はそれほど高くなりません。

 ここで、最初の疑問に戻ります。

 本当に、子供は乾いた砂のように何でも吸収するのか?

 わかりやすく、語学に絞って考えてみます。

 ここで、臨海期仮説(critical period hypothesis)という考えを引っぱり出しましょう。

 語学を身につける、母国語として自由自在に使えるようになるためには学習時期があり、それを過ぎたら不可能になる、という考えです。

 多くの親は、これを信じて子供に語学を学ばせています。

 たしかに、母国語(第一言語)として、使っているという気持ちすら持たずに使用できる能力を習得するという点では、臨海期仮説は有効です。

 ですが、外国語(第二言語)の習得となると、結構イイ大人になっても充分に可能であることは、数多くの例で証明されています。

 ここで、第二言語の習得とは、「コミュニケーション」の手段としての言語利用ができる、という意味です。

 つまり第二言語の学習において、臨海期仮説は有効ではありません。

 思いついたら、いつでも語学学習は可能なのです。

 ただ、その時点での環境が、習得度に大きく作用してきます。

 海外に住んでいるように、習得希望言語(英語など)が、日常的にしょっちゅう耳に入ってくる場合(外国環境と名付けます)は、「学習しているという意識なし」で、英語を獲得することができます。
 この場合は、年齢が若ければ若いほど有利でしょう。

 反対に、日本国内に住んで、一日のほとんどを日本語に囲まれて暮らしている場合(国内環境と呼びましょう)は、自然に外国語が耳に入ってくる、ということは考えられません。

 この場合は、「学習を意識して」語学習得を目指さなければなりませんが、そうなると動機づけの弱い幼児より、やらねばならないのだ、と自分を納得させられる大人の方が有利だということになります。

 子供はすぐに飽きて、集中力、持続力を欠いてしまうからです。

 さて、ヤラネバナラヌと決意した大人ですが、やはり外国環境の方が語学習得には有利です。

 そのためには、国内にいながら外国環境に近づける努力をしなければなりません。

 環境は、まあいろいろできるでしょう。
 普段から英語をポータブルプレイヤーで耳に流し込む。
 独り言を英語でつぶやく。
 英語を学びたいもの同士、英語で会話する
 英会話学校に通う。
など。

 わたしが外国に住む知人(日本人)たちから聞いたことから判断すると、一番大切なのは、

「それを使わなければ生活(仕事)していけない、という差し迫った必要性(Uegent Need)」 

です。

 そのため、定期的に近場の英語文化圏を中心に、飛行機の往復切符(できれば30日FIX程度の)をもって、ひとり旅をするのも良いでしょう。2,3日でもかまわないと思います。

 そこでは、道をたずねるのも、ホテルにチェックインするのも、ケンカすることにも切実な語学の必要性が生じるからです。

 肝心なのは、普段の学習時に、常にそういった差し迫った状況を頭に思い浮かべながら、ただ機械的に、単語とパターン会話の組み合わせで英語を話すのではなく、「ホントウニツタエタイコト」を英語で表す、表現者としての自分を意識しながら学ぶことです。

 あれ、随分始めのテーマからずれました。
 子供は砂なのか、でしたね。

 わたしは、「ヒトは、その思考を、習得する第一言語によって規定される」のではないかと考えています。

 言語はすなわち文化であるから。

 まあ、規定というと少しきついですから、なんとなく言葉のシバリにあっているということですね。

 日本語のように、文の最後に肯定否定がくる言語を使う国民は、優柔不断気味で、雰囲気で話すことが多い、とかね。

 しかしながら、以前、ギリシア語が論理的であるということを知って、ギリシア系カナダ人に、

「古代ギリシアで哲学が発達したのは、ギリシア語が、論理の構築に向いた語学であったからではないか」

、と尋ねたところ、

「自分も含め、知り合いのギリシア人は、それほど論理的ではないね」

と一蹴されてしまったことがある。

 実際はどうなんだろう。

 それでも、上の「言語規定説」が多少なりとも正しければ、「幼児期に複数の言語を同時に学ばせる」のは危険ではないだろうか?

 それは、アイデンティティの確立とも関わってくるような気がするから。

 3人兄弟で、真ん中の子が、兄貴体質と弟体質の両方を兼ね備えていることがある。

 アニキ的に責任感のあるところを見せたかと思うと、突然、弟のように甘えた言動をする。

 そういった大きな振幅の人間を、どう扱ったらよいか困ることがあるように、複数の国民性がランダムに出てくる子供がいたら、きっと扱いにくいだろうな。

 ともかく結論だ。

「確かに子供は砂である」

 どんどんいろいろなモノを吸収するだろう。

 だが、砂にも容量がある。
 コップ一杯分の砂に、バケツの水は入らない。

 ちまたで耳にする幼児教育でも、子供は乾いた砂だ、とばかりに大量の水を流しみ、結局オーバーフローしているような例を見ることがある。

 大切なのは、自分の子供の砂が、どのくらいの容量かを見極めながら水をふりかけることだろう。

 どうせ、わたしたちの子供なんだから、とんでもなく大きい砂場なわけないじゃないですか。

げぇむが、こころをはかいする ~脳内汚染~




 これは、少し前(2005年)に出版された本ですが、ぜひ、内容を知ってもらいたいのと、文庫化されたので、ここに紹介することにしました。
 
 著者は、医療少年院勤務の精神科医。
 
 仕事柄、彼はあることが気になって調査を行いました。
 
 そして結論を得ました。

 その結論とは……

 その前に、昔ばなしをひとつ。
 
 かつて、高度経済成長期に、日本各地で、いっせいに奇病が多発したことがあります。ある者は呼吸困難におちいり、あるものは骨がもろくなり、起き上がろうと手をついただけで骨が折れました。
 
 いまなら、誰もが、その病名と原因を知っています。
  
 ヤミクモな発展を目指した結果、それに伴う公害が原因となって、人々の体を蝕んだのです。
  
 だが、当時は水俣病の原因が有機水銀であることも、喘息(ぜんそく)の原因が人々の懐をうるおす工場のケムリであるということもわかりませんでした(しばらくすると、社会問題になりましたが)。
  
 公害は、それほどに新しい、社会が生み出した病気の温床であったのです……
  
 今、似たようなことが起こってはいませんか?
  
 現代の人々、特に若年層のコドモたちを中心に蔓延(まんえん)する無関心、無慈悲、残虐さ、他人の痛みを共感することができず、平気でひとを、親ですら傷つけ、殺す異常さは、今までの日本には存在しなかったタイプの社会現象です。
  
 まるで、高度経済成長期の公害のように。
 当時、それは、わけがわからず、'無差別に人々を襲う脅威でした'。
 やがて人々は、大企業が無思慮に垂れ流す廃液、排煙が病気の原因であることを知ります。
 
 でも、初めはなにもできなかった。
 あまりにも工場に依存する生活であったから、表立った非難ができなかったのです。

 もう、誰もが知っている事実でしょう。
 

 そして……実は、昨今の若者の異常行動にも同じ図式が働いています。
 
 皆さんもうすうすは感じておられるはずです。
 子供たちに、昔なくて、今あるモノ。
 しかも、大きな影響を与えているモノ。
 それが発達してからコドモたちに、奇妙な乱暴さが目立ってきたというモノを。
  
 脳内汚染の著者が調べて分かったのは、それでした。
  
  彼は、ゲームやネットと少年犯罪の関連性を詳細に調べたのです。

 「合成された情報の『毒性』が、それにもっともさらされる若者の心や行動に異常を引き起こしている。脳にとっては、物質以上に情報が、物質が体に及ぼすのと同じような有害作用をもちうるのである。我々の脳は、毒物によってだけでなく、有害な情報や疑似体験によっても汚染される」  
 
 その、有害情報というのが、ゲームでありネットであるというのです。

 ゲームによる仮想訓練によって、人の脳内に設定された禁忌プログラムの解除が行われる例として、米軍の新兵訓練の話が紹介されます。
 
「新兵の半数以上は実際に敵に遭遇しても、相手を殺戮することに本能的なブレーキがかかった。発砲して敵を殺すと、強い吐き気を覚えるなどの反応が起きたのである」

 もちろん、これは、人として当然の反応です。
 
「ところが、シミュレーション・ゲームにより、敵を殺戮(さつりく)することを訓練すると、九割以上の者が躊躇(ちゅうちょ)なく敵に向かって引き金を引き、しかも相手が倒れても、動揺することがない」

 なんとなく、皆さんもそう感じていませんでしたか?

 たとえ、ゲームであれ何であれ、一度、禁忌感(タブー)のレベルを下げてしまえば、人の心は、現実とゲームの区別なく同じタブー・レベルで機能するために、容易に現実で殺人を犯してしまえるのだ、と。
 
 ハナシは少し違いますが、たとえ、ダラダラといい加減でも、避難訓練を一度でもやるのと、やらないのとでは、実際に災害にあった時の、対応の仕方に雲泥の差があるというのも、根の部分で、これとつながっている気がします。

 さらに、ゲーム先進国の日本では、新しく発売されるゲームに中毒性を高める技術が、あの手この手で詰め込まれています。(ゲームをする人ならわかりますね)

「ゲーム開発者は、今にもやられそうな状況を、できるだけリアルに体験させるシチュエーションを作ることで、体にはアドレナリンを、脳内にはドーパミンを溢(あふ)れさせる」

 ドーパミンは脳内麻薬物質だ。それが出っぱなしということは、麻薬的な依存症になるということです。
 
 さらに、ゲームをやりつづけると、覚醒剤を打った人間に、酷似した身体反応が起きるらしい。

 ここ何年か、ざっと思いつくだけで、五指に余るコドモによる残虐事件(尊属殺人を含む)が起きていることはご存知でしょう。
 
 そして、その子供たちが、何を好み、何にふけっていたかも。

 恐ろしいのは、この問題が表に出てこない理由として、メディアにとってゲーム業界は、逆らうことのできないお得意様であるかららしい、ということです。
 
 この図式、さきの公害病に酷似しているとは思いませんか?

 ともかく、皆さんの中で、子供に殺戮ゲームなどを与えている方は、自分もやってきたし、みんなもやっているのだから大丈夫、と思い込まずに、一度、じっくりと考えて見てください。
 
 コドモの脳は、明らかにオトナの脳とは違います。今の親が子供だった時代には、いまほどリアルな殺戮ゲームなどなかったのですから。

 さらに、問題なのは、コドモ時代に学習したことが、半永久的な影響を及ばす可能性があることです。

 著者の資料引用にバイアスがかかっている等の批判もありますが、だからといって彼の主張は、全否定できるものはないと思います。
 
 わたしには子供はいませんが、親であるなら、そして自分自身、ゲームに耽溺(たんでき)しているという自覚があるなら、ぜひ一読することをおすすめします。

コイツがオマエと別れさせる ~離婚遺伝子~

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 少し前になるが、スウェーデンのカロリンスカ研究所が、オトコには「離婚遺伝子(Divorce Gene)」を持つものがいると発表した。

 わたしは、その記事をネットで見たが、被験者2000人!の遺伝子のうち、AVPR1Aと呼ばれる遺伝子の中で334型を持つ男は、妻に不満を持たれていることが多く、過去1年以内に家庭が破綻しかかった者は、334を持たない者の2倍近くあったらしい。

 とはいえ、人は(シツケや自己啓蒙などで)しっかりと自分を律しない限り、なんでも他人のせい(この場合は遺伝子のせいだが)にしたがるものだから、こんな記事を鵜呑みにはできない。

 「あの人と合わないのは、彼の離婚遺伝子のせいよ」
 「おれがひとりの女とうまくやっていけないのは離婚遺伝子のせいだ」

 そういっておけば、さぞ楽だろう……が

 だいたい怪しいじゃないの。そもそも、サンプルが2000人ってのが少なすぎる。
 そういった、心情がからむ実験の場合、男性の職業(収入)や女性との年齢差など、考えなければならないパラメータが多すぎて、とても単純比較できるものではない。
 これでは、学術的な実験とはいえない。

 と思ったら、実際の研究論文には「離婚遺伝子(Divorce Gene)」なる単語は一切出てこず、遺伝子によって離婚率が変わる、などという記述も一切なかったことを知った。
 ただ、ネズミを使った実験の結果を人間にも応用できるかもしれない、と示唆しただけだったようだ。

 ネズミが遺伝子によって、どのように雌雄不和になるのか、そして研究者はどうやってそれを見極めたのか興味がわくが、要するに、あの記事は、単に、誰もが感じる、かつてあれほど愛し合ったふたりの仲が冷え、いつしか憎みあうようになる男女間の、説明がつかない憤りを、この100年で世にあらわれ、最近、特にクローズアップされている「遺伝子」のせいにして話題づくりをしたい、というマスメディアの思惑だったようだ。

 確かに、恐怖をあまり感じない遺伝子というのは存在するようだが…。

 遺伝子はただの設計図だ。

 体は、それにしたがって組み立てられる。自動車と同じだ。

 もちろん、われわれの肉体は大きな影響をうけるだろう。

 そして、遺伝的に決まってしまった脳内麻薬物質、ホルモンの分泌の多寡(たか)によって、精神状態も大きく変わることがあるかもしれない。

 だが、それはあくまでも基本的な部分であって、器にいれる中身は、その後の学習によって大幅に変わるはずだ。

 また変わらねばおかしい。

 わたし自身は、そういった「遺伝子至上主義」的な傾向は危険だと思うし、間違っているとも思うが、まだ解明されていない部分が多いだけに、人々が遺伝子にいろいろな、そして原因不明な、われわれの行動原因を求めたがる気持ちもわかる。

 わからないことは、わからないもののせいにすると楽なのだ。

 しかし、結局は、この「ディボース・ジーン」、いつの間にか忘れ去られ、誰かがふと口にしたときに、あの「マギー・ミネンコ」同様、「あったあった、そんなの!」と大笑いされることになるのだろう。

 100年前、R.ドーソンが唱えたのが「利己的な遺伝子」セルフィッシュ・ジーンだった。
 50年前、映画界にあらわれた史上最高の「セックス・シンボル」はノーマ・ジーンだ。
 そしてさらに50年を経て、今、一時的にせよ「離婚遺伝子」ディボース・ジーンが登場したことに、わたしは歴史の暗黙の符合を……感じるわけないわな。

 それはさておき、遺伝子の話題について、わたしが好きなのは「ボトルネック現象」だ。

 動物の遺伝子は多様性を持っている。冷徹な自然の中にあって、多様性こそが生き残る秘訣だからだ。

 似てはいても、免疫、抵抗力、体重、身長など、さまざまな部分で違えば、ある病気が流行ったところで、気候が少々変わったところで、そのイキモノがすべて死に絶えることはない。

 多様性は、生き物が自分自身にかけた、いわば保険なのだ。

 しかし、現存する生き物の中には、遺伝子を調べると多様性が極端に少ない種が存在する。

 たとえばチーターだ。

 なぜ、遺伝子の多様性が少なくなったかというと、ある時期、絶滅寸前まで数が減ったために、ひとつの種族、集団だけが生き延びて、それが数を増やして現在のチーターになったからだと考えられている。

 つまり、何かが原因で、ポチ一家だけか生き残って、その一族が子孫を増やし、のちの犬全部になりました、って感じだな。

 このように、ある時期、その数が急激かつ極端に減少する現象(ややこしいね)をボトルネック現象と呼ぶ。

 チーター以外にボトルネック現象を体験したと考えられるのが、われわれ人類だ。

 他の大型霊長類(ゴリラなど)と比べても、人類の遺伝子の多様性は少ない。

 チンパンジーの小集団のミトコンドリア遺伝子の多様性の方が、人類全体のミトコンドリア遺伝子の多様性よりも大きいことがあるほどなのだ。

 つまり、人類も、かつて絶滅の危機に瀕したことがあって遺伝子に多様性が少なく、種として見れば、幅の狭い、弱い生き物だということだ。

 いったい何によって絶滅の危機に瀕したのか、SF的な想像力をかきたてられるが、それはともかく…

 ただでさえ、薄められた農薬やメラミンを体内に蓄積し続け、あるいは、それらを食べて毒物が生体濃縮された魚や貝、牛、豚を食べている人類だ。

 次に、大規模な疫病や気候の激変があれば、今度は危ないかもしれない。

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