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思いつきが映画に世界に 〜20世紀少年〜

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 ミステリ、のみならず物語をつくる上で犯してはならないミスが二つある。

 ひとつめは、登場人物のモノワスレを謎の核にすることだ。
 真相、あるいはそれにつながるヒントは、必ず読者に、一度は示されなければならない。

 物語終盤になって、殺人現場にはもうひとりいたはずだ、ああ、あいつだ。なぜ忘れていたんだろう。あれが犯人だ、じゃあ、ミステリ以前のただのサギ話だ。

 もちろん、ミステリ、謎トキでなくてもダメだ。
 だって、その、物語終盤まで出てこなかった犯人の、背景や性格の作り込みがまるでなければ、物語としての意味をなさないからだ。

 想い出しました。だれか分からないですけども、犯人はこのヒトです。

 とても、金をとって話を売る作家の所行ではない。
 読者も、そんなことをされたら怒らなければいけない。

 直木賞作家、高橋克彦が「記憶」シリーズでよく使う手だが、あれはもっとタクミにうまく使われていて納得できる。

 そう、そういった卑怯ワザは、細心の注意を払って一点攻撃で使われるべきなのだ。しかも、真相の核心で使ってはいけない。

 そんなことをしたら、読んでいる時は、謎(らしきもの、ほとんどは真相を知っているヒトが口をつぐんでいるから謎にだっているだけ)に引っ張られて読み続けられるが、読み終わったらむなしさしか残らない作品になる。

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 さて、やってはならないコトもうひとつ。

 それは、作者が、世の中の「質量」は、途方もなく大きい、という自覚を忘れてはならない、ということだ。

 この「質量」、とはモノの重さではない。

 「世に溢れる精神的質量の総和」と言い換えてもいい。

 つまり、多くの人が、それぞれの思惑で動き、それぞれがそこそこのプライドを持って生きていて、その各点は、容易に動かせない質量を持っている、ということだ。

 だからこそ「世の中は恐ろしい」のだ。
 自分程度の能力のものは、そこここに転がっている。自分が思いつくこと程度は誰かが先に思いついている。

 若者がそれを知らずに突っ走るのはいい。それは若者の特権だ。

 だが中年になった作者が、それを無視して、だれか一人の意思だけで、世の中を、世界を動かし得る話を書くのはどうだろうか?

 たしかに、先にわたしが言ったように精神の総和には質量がある。

 だから、初めはなかなか動かしにくいが、いちど勢いがついてしまうと誰にも止められないほどのエネルギーをもってしまうこともある。第二次大戦のナチスのように。

 だが、それは国家レベルの外圧(外国からの侵略)がある場合のはなしだ。

 宇宙から、途方もない攻撃力を持った異星人が、やってきて、地球に何らかの圧力を掛けでもしないかぎり、現行の秩序が崩壊することなど考えにくい(後に述べる大災害が無い場合は)。

 誰かの書いたコドモダマシで幼稚ななシナリオに、世の中が乗って動くなんてことがあるわけがないのだ。

 それを納得させるためには、よほど巧妙で緻密な仕掛けが必要だろう。

 浦沢直樹「二十世紀少年」が、全三部作で映画化され、話題となっている。

 もうずっと前に、原作を読みかけたことがあったが、前作「モンスター」でガッカリした後だったので、やっぱり冗長な回り道にうんざりして、5巻ぐらいでやめてしまった。

 しかし、映画化もされるし、長かったハナシも一応完結したということで、とりあえず全巻を通して読んでみた。

 長編だ。いろんな意味で。
 
 彼が、以前に描いた佳作「マスターキートン」「パイナップル・アーミー」は、短編で、キレが良い話だった。

 だが、あれは原作つきだった。

 彼の(自身原作の)特徴は、「YAWARA」を除いて、伏線を多くちりばめて、最後にそれを引き絞って話を完成させる、と言われているらしいが、実際に読んでみると、まるでそんな風には感じない。

 ただ、ダラダラと思いつくままにサイドストーリーを書いているようにしか思えない。
 いつ終わるとも分からない横道で、読者にガマンを強いているだけで、あとでそれらが見事に有機的につながって、美しい珊瑚のようなフラクタル模様にはなる、ということはまったくない。

 なんか、「あ、そうだ、この登場人物にもなんかストーリー作っとこ」の連発で、あまり意味のない話が並べられているだけだ。

 「二十世紀少年」も本筋を書けば原稿用紙4枚程度に収まる話だ。

 そうだ、ちょっとやってみるか。

 えーと、主人公たちは昭和30年代生まれの少年少女で、成人した後に、昔小学生の時、彼らが空想した未来小説「よげんの書」どおりに事件がおこり始め、しがないコンビニ店長の主人公は、自分たちで何とかしないといけないと考えて、当時の仲間を呼び集める。

 仲間のひとりは、アジアでショーグンと呼ばれる豪傑になっており、ひとりは一対一では誰にもまけない武術の達人の女性、いじめっこだった双子は、巨大企業のオーナー(たったかな)、主人公の姉は、弟を育てるために大学進学を諦めたが、いきなり未婚の母となり、のち失踪、外国で細菌学の博士となった(らしい)。また仲間のひとりは、外国に行き、後のローマ法王と知り合う。
 2000年にエボラ熱に似た細菌兵器がまかれ、世の中が変わり、なぜか「ともだち」を中心とした社会になる。

 あと、なんだったかな?
 2000年にともだちの野望を阻止しようとした主人公たちはテロリストとして、逃亡、逮捕されている。
 ともだちは、一度殺されるが、別人がマスクをかぶって復活(顔も整形済み)。
 2015年(だったかな)に、そいつが、もっと強烈なウイルスで世界を破滅させようと行動しはじめると、記憶喪失だった主人公が復活し、仲間も再結集する。
 同時期、主人公の姉が命をかけて抗ウイルス剤を完成。

 コミックの巻数が20巻を越え、タイトルが「21世紀少年」に変わってから、突然、あれ、あの頃、もうひとり仲間がいたはずだ、と主人公が思い出す(ダカラ、それをやっちゃいけないんだってば……)。

 そいつが例の新しい「ともだち」で、すっかり忘れてたけど、子供の頃、主人公が万引きした時、犯人扱いされていたヤツだった。そいつは、それを逆恨みしていのだ。

 で、国連治安軍のぬるーい警備体制のもと、何の権限があるのか主人公たちが走り回って、ウイルスならぬ(いつのまにか変わってる)「反陽子爆弾」の起爆を阻止、大団円をむかえる。

 なんか抜けてるとろこもあるかも知れないが、コミック喫茶で4時間粘って読んだだけなので、細かいところは検証できないし、オオスジでは間違ってないからいいだろう。

 ということで、シノプシス(梗概、あらすじ)を見ると愕然とするが、なんともご都合主義のオンパレードだ。

 だいたい、ワレワレの(そして、あなたたたちの)アソビ仲間(大学の頃とかは別にしてね。偶然同じ町内で育った仲間、という関係)の中で、40歳代になった時に世の中に突出した能力を持つ人間が、何人いると思います?
 ひとりいりゃあ奇跡的、あとは普通の人間でしょう。

 それが現実であり、現実という重みが、ストーリーにリアル感を与える。

 もし、かつての友達全てが、社会に影響を与えているようなら、明確な理由が必要だし、それを考えるのが作家のつとめであり、仕事なんだから。

 はい思いつきました。ともかくこうなりました。じゃあ、(印税?時間?)ドロボーだよ。

 とにかく、「20世紀〜」のリアル感のなさは酷すぎる。

 物語終盤、多国籍軍による統治下の日本で、好き放題している主人公たちを見ていると、痛々しいほどだ。

 一世を風靡した作品(YAWARAってそうだよね?)を世に送り出した作者なら、分かっているはずだ。そういった成功は、自分の能力だけでなく、運(世の流れに合っていると言い換えてもいい)によることが多いということを。

 でも、いくら運があっても、子供の思いつきが世の中を動かすことなどあり得ない。

 もちろんギミック(仕掛け)はある。細菌兵器という切り札が。

 しかし、それならば、まず細菌兵器をバラまいて、その後に新興宗教っぽい、ともだちナントカを立ち上げるべきだろう。

 なのに、ともだちは、平和時のニッポンで、企業トップを引き入れ、警察官を抱き込み、かなりな勢力を持っていた。
 世紀末退廃思想が世に蔓延していたとしても、ちょっとあり得なさすぎる。

 まあ、オウムの例などから、人々がワイヤーによる空中浮遊などの、タアイもないトリックにひっかかって入信する姿を見て、そんなハナシを思いついたのだろうが、平和な国では、いくら熱狂カルトを拡大しても、世の中にクサビを打ち込めるほどの力にはなり得ない。

 なんか違和感を感じてしまう。

 そのあたり、「北斗の拳」の武論尊は、よくわかっていた(安直であったともいえるが)。暴力が支配する新しい世界を生み出すには、核戦争後、といった世界設定が必要だったのだ。

 子供の思いつきは、子供の思いつきにすぎない。

 「20世紀少年」は、昭和三十年代初めに生まれた者たちの郷愁マンガにしか過ぎず、若い人たちの70年代生活テクストとしてのみ意味を持つ作品だ。

 のはずだが、けっこう多くの国で、出版されているらしいのが不思議だ。

 「世界中で好評」というのは売り手の惹句(コピー)だから信用はできないが、ヨーロッパでナントカマンガ賞をとったらしい(上記写真参照)。

 まあ、ヨーロッパのマンガの扱い、そしてマンガ賞ってのが、どの程度のものかは、わたしは、二、三年前の状況しか知らないからはっきりとはいえないが……中松博士が受賞している偉人賞程度のものかな?

 今回の映画も、原作を越えて新しい切り口をみせてくれたら観てもよいが、そうでなければ観る価値なしだな。

 主題に使われているロックなどに郷愁を感じるセダイなら観る価値ありかなぁ。

 追記
 個人的に、浦沢直樹が現在連載中の新鉄腕アトム「プルートゥ」を描きはじめたのは、「20世紀少年」で、中途半端な「キョダイロボット」を描かざるをえなかった不完全燃焼を解消するためだと思っているのだが、どうだろうか?

やなぎごしならず 〜おせん〜

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おせん 【コミックセット】
 昨年来、ドラマの録画を頼まれるようになって、民放のテレビドラマを観ることが多くなった。

 この「おせん」も、はじめ、何の前知識も無く録画し、うまく録れたかチェックするために流し観したのだが、原作者が、あの「獣王バイオ」の(せめて「(三四郎)2」っていうべき?)きくち正太であることを知って原作を読んでみた。

 よせばいいのに。

 で、久しぶりに、ちょっとショックを受けました。

 いまさら、こんなことを書く必要もないと思うが、テレビになるとどうしてあんなに原作を無視したひどい出来になるのだろう。

 多くの、良心的で才能あるドラマの作り手が嘆くように(最近ではそんなセンスも持たない脚本家もいるんだろうが)、よい原作は、テレビドラマ化するとたいてい駄目になる。

 スポンサーのついた(つまり金主{きんす}の意向を汲まねばならない)、不特定多数を対称とした「てれびどらま」に何を期待しているのかと笑われそうだが、あらためてそう感じてしまった。

 今回の「おせん」、もっとも駄目なのは脚本だ。ついで演出もひどい。

 たとえば、次のようなシーンがある。

 朝、狂言回しの青年ヨシオが、酒好きの仙の部屋を開けるなり後ろへのけぞり、「ウヘェ、酒くっせぇ〜」

 そりゃないんじゃないの。

 在りし日の景山民夫が嘆いたように、最低の演出というのは、かかってきた電話をとった刑事が、

「ん、何だって、港区の公園で、ああ、三十代の、うん、絞殺死体が見つかった。わかった、すぐいく」

などと、説明過剰というか、すべて言葉で説明だけするものだ。

 こういったやり方は、昔のテレビドラマでよく使われた。

 さすがに、最近は、こういった『演技とカメラワークでなく、単に言葉で説明する』貧困演出はなくなったと思っていたのに、まだこんなところで生き残っていたんだなぁ。

 まるで、出来の悪いコントだ。
 いや、コントについては、最小の小道具で、話を進めなければならないから、仕方がないところもある。

 だが、ドラマには、豊富な大道具、小道具、そしてカメラワークがあるのだ。言い訳はできない。

 せめて、

 ヨシオ、障子を開け、ほんの少し顔をしかめる。
 コタツのアップ。そこには数本の徳利、床には一升瓶が転がっている。
 『また飲んだんですか?』
 ヨシオ、障子を大きく開けて換気をしながら、呆れたように尋ねる

 ぐらいの表現はできないのかねぇ。何でもないと思うが。

 「ウグゥッ、酒くっせぇ〜」って、地方ミニFM局制作のラジオドラマじゃないんだからさ。

 作り手から言えば、「紙メディア」と「テレビ放映」のもっとも大きな違いは、放送が垂れ流しで、ナガラ観することができるメディアなのに対して、小説やコミックは読者自らがページをめくらなければならないという点だ。

 これはよく言われることだが確かに事実だ。
 たかが紙一ページをめくる労力。
 されど、その手間はテレビをつけて垂れ流しにするのと天と地ほども違う。

 もちろん、それより重要な違いは、雑誌などの場合、食堂においてあるものを読む場合を除いて、読者が金を払ってそれを手に入れるという点ではあろうが。

 だから、漫画家も小説家も内容を吟味し、中身で勝負する。
 ツマラナイ作品に金を出し、ページを繰ってくれる人がどこにいる?

 だが、テレビは垂れ流し、暇つぶしのメディアだ。
 視聴者のほとんどは、これから作品に接するのだという意識が(気づいていようと無自覚でろうとなかろうと)無い。

 それゆえ、テレビドラマは、とにかくアイ・キャッチ中心の、奇をてらったものになってしまう。目を引きさえすれば良いのだ。
 
 お笑い芸人の多くを占めるコント集団と同じ過ちに陥ってしまっているのだ。

 その最たるものが、コマーシャルだ。

 矍鑠(かくしゃく)とした威厳ある老人を登場させ、次のシーンで水着姿の女性に飛びつかせる。

 あるいは、子供や女性を並べて、意味不明で妙な踊りを踊らせる。

 だから、振り付け師がもてはやされる。

 常識の破壊による不安感につけいるのが、アイ・キャッチ手法だから。

 そうではない作品もあるのだが、どうしてもそういった駄目な作品に目がいって、がっかりしてしまうのだなぁ。

 だから、もう何年も前から民放テレビは意識的に観ないようにしていたのだが、最近は録画を頼まれているから、そうもいかない。

 話をもとに戻そう。

 原作では、ただのボンボンである主人公(というか狂言回しだな)の青年を、ドラマでは、野心家でホンモノ志向(それも上っつらだけの)である単純バカとして描いているが、その意図はなんなのだろう。

 先輩料理人との仙に対する「恋のさや当て」ってのも理解できない。
 どうやら、脚本家は、男と女が同じ職場で働けば、二秒で恋が芽生えると思いこんでいるらしい。

 え、実際、そうなのか?だからそれを反映しているの?そうだとしたら、恐ろしいことだ。

 だが、少なくとも、原作者はそうは思っていない。

 ヨシオには恋人が居り(ま、あとでフラれるけれど)板前にも好きな女性がいる。

 ドラマの制作側は、きくち正太が描こうとしている世界観をまるで尊重していない(あるいは分かっていないのか、まさかな)。

 他に、あきらかに配役のミスがある。

 骨董屋のオヤジが、渡辺某というのは明らかにおかしい。
 もっと無骨な男でないと、後のエピソードに差し障りが出てくることもあるだろう。
 寡黙な大男だからこそ味の出る話が多くあるのだ。
 ひょろっとして洒脱な小男ではまるで印象が違ってしまうのだ。それは、演技云々の問題じゃない。

 主役にしても、半田仙のボンヤリしていながら、時として凛とした姿勢をしめす演技ができていない。

 役者の名前はあまり知らないのだが、ドラマの仙は、ふにゃふにゃと気持ち悪いだけの軟体生物のように見える。例えて言えば、大林監督「ふたり」における石田ひかりみたいな感じかな(あれはそういうつくりだから良かったが)。

 おそらく、きくち正太が描こうとしているであろう、柔らかそうに見えて、中にしっかりと一本芯の通った(たぶん江戸前の気質の)柳腰の女がまるで表現できていない。

 以前、友人にその話をすると、
「無料(タダ)のものに、なにを期待してるの?」
と、まっぷたつにしてしまった。

 まぁ、それはそうなんだけど。

 本当にテレビドラマは駄目だなぁ。

猫の消えた街 〜フリージア〜

 昔から、リンドグレーンの「名探偵カッレくん」が好きだった。

 特に好きなのは、物語の冒頭、気だるく退屈で暢気な昼下がりの街角を、冒険がしたくてたまらない主人公カッレ少年が眺めているシーンだ。

 退屈でたまらない探偵志望のカッレの前を、靴屋の太った猫がゆっくりと横切っていく。行ったことのないスウェーデンという国の、空気の匂いが感じられる素晴らしい描写だ。

 良い人生とは?、と尋ねられてもわからない。

 良き人とは?、と尋ねられても同様。

 しかし、良い街とは?、と尋ねられたら即座に答えることができる。

 それは、太った野良猫がゆっくりと通りを横切っていくような街だ。

 英国でも米国でも、美しい田舎町では、通りを猫がのんびり横切っていたものだ。

 では、悪しき街とは?

 当然、その逆。

 つまり猫が一匹もいない街。

 それがつまり「フリージア」の世界だ。(コミックのはなし、実写は観てないから知らない)

 すでにご存じだろうとは思うが、「フリージア」は、仇討ち法が制定された近未来日本のハナシだ。

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 画は、昔からあったものの、「セクシーボイスアンドロボ」のように、最近特に目につくようになったフリーハンド調の雑いもので、慣れるまで読みにくい。

 内容は、ひとことで言えば気色悪いサイコ・ストーリーだ。

 登場人物全員が精神を病んでいる(それが現代人?)。

 それはもう、あたかも「健康なヤツも、ただ『健康』という病気にかかっているだけだ」と言わんばかりのイキオイだ。

 好悪だけで考えれば、決して自らすすんで読まない作品である。

 内容も、一貫性のない、いわゆる流れの悪いストーリーで、設定の荒さが目立つ。

 インパクトの強さに惹かれる人もいるようだが、衝撃だけを求めるなら、笑いながら自らの指を刃物で切り落とすようなハナシを読めばいい。

 極端な自傷行為は、常に自己防衛する生き物にインパクトを与えるものだから。

 だが、そんな話がおもしろいのだろうか?

 わたしには、よくわからない。

 ただひとつ、気になったのが、フリージアの舞台が、上記の「猫のいない街」であることだった。

 なぜ猫がいないのか?

 駆除されているからだ。

 では、なぜ駆られるのか?

 近未来の日本では、猫インフルエンザが流行しつつあるからだ。

 ウイルスの媒介となる猫は、野良猫であろうが飼い猫であろうが、片端から駆られ焼却される。

 作者のセンスを、唯一感じるのは、この病気の流行を、あまり本筋には関係ないといった体で、新聞記事やテレビニュースなどで『猫インフルエンザの感染者7名に』などとしている点だった。

 実際に、すでに猫には猫だけに感染する「猫エイズ」という病がある。

 猫インフルエンザが出ても何ら不思議ではないのだ。

 「フリージア」、ストーリー自体は、ただのサイコものでたいして語ることはない。

 主人公は、記憶障害を抱えたサイコ野郎だ。

 仇討ち法自体は、よくある内容だが、魅力的な設定ではある。

 作者が、安易にサイコものに走らずに、健常な主人公が異常な仇討ちと関わっているうちに、いつしか人間性を失い、理性にも蔭りが広がっていく、といったストーリィにすれば、キューブリックの「フルメタル・ジャケット」的良作になったかもしれない。

 今、精神を病む者は多い。そして、世界は陰惨な事件と出来事であふれている。

 だから、それをあらためてコミックにしても、真の陰惨さを知らない子供たち(あるいは大人コドモ)には、インパクトの強さで受けても、ただそれだけのものとなるだろう。作品としての成熟加減とは無関係だ。

 こういった作品に人気があるというのも時代なのだろうか。

 本作の好きな人は、「ホムンクルス」や「殺し屋イチ」、はては「バクネヤング」なども好きなのだろうな。

 まさか、抑圧された社会生活で歪みつつある自分の精神を、マンガのサイコと重ねて「あるある」と納得しているのではないだろうねぇ。

 たぶん、違うと思うが、そういった人が多いならば、それは社会にとっては少々アブナイことだ。

 かつて、沢木耕太郎が、そのエッセイで書いたように、人には大きく分けて二通りある。

 本来あるべきハードルを簡単に越えてしまうものと、越えられない者と。

 たとえば、それは、金が欲しければ簡単にヌードになり体を売ってしまう女性たちであったりする。

 本来、かなり高いハードルであったはずの羞恥を、彼女たちは簡単に越えてしまうのだ。
 おそらく、そんなことぐらい大したことじゃないよ」という、社会認識に後押しされて。

 フリージアの登場人物たちが越えるハードルは殺人だ。

 仇討ちの助っ人として殺人を許可されている彼らは、銃を使い、敵とその警護人たちを殺す。

 だが、彼らの精神の危うさは、容易に、その銃口を仇討ち以外の一般人に向けてしまうのだ。

 そして、「一般人は傷つけない殺さない」というハードルを容易に越えてしまう。

 といった、いかにも、猫のいない陰惨な街にはお似合いのストーリーなのだが、さきに書いたように、もし、読者が、彼らと自分を、たとえ緩くであっても重ねているならば恐ろしいことだ。

 この手の作品に惹かれる、ということは、無自覚であっても、自分の心の闇と重ねていることが多いものだから。

 登場人物たちが、いとも簡単に、殺人というハードルを越えてしまうのを読んで、彼らがその気にならないとも限らない。

 さきのストリップ嬢同様、マンガの世界観に後押しされて。
 

 閑話休題、フリージア世界の人々の精神を歪ませている要素の一つに、近未来の日本が戦時下であるということがある。

 しかも、負け戦。

 徐々に敗戦色が濃くなる戦時下故の精神不安ということだろうか?

 だが、大東亜戦争(世界史的にみれば第二次世界大戦)下の日本において、そのような奇妙で大規模な集団精神異常は発生してはいなかった。

 もちろん、田舎や局地的なものはあったかも知れない。

 戦に負けて占領され、敵兵に殺されるくらいなら、まず自分が殺人者になった方が良いと考えた者もいただろう。

 あたかも、イジめられる前に、イジめる側に回ったほうが良いと判断する中学生のように。

 まあ、確かに、当時も日本人お得意の集団ヒステリーは存在しただろうが、世情不安であるがゆえに、戦時下に同国人同士を殺し合わせる、という政策は、まずあり得ない。

 為政者たちは、危機に臨(のぞ)んでは国民に一致団結を望むからだ。
 
 あるいは、フリージアの最大の欠点は、その設定にあるのかも知れない。

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