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ほら、これってアレに似てるよ 〜銀魂〜

 最近、銀魂が快調である。
 行く先々の本屋でコミック全巻が平積みされているのを見るし、関連本も多数出版されているようだし、なにより行きつけの古本屋で、「既刊コンプリート売り」がないのは当然としても、一冊も在庫が無い時期があるという事実が、体感として「銀魂」の好調さを物語っている。

 さすがに、作品中(アニメ版)で、何度も自虐ギャグとして使われる「子供にわかりにくいギャグを多用するから、(もともとゴールデン・アワーの放映だったのに、二年目から)ゴールデン枠から外された(六時台に前倒しになった)んだ」への逆襲、つまりゴールデン・アワーへの復帰はまだだが、そのうちそれも実現してしまいかねない勢いがでてきている。

 加えて、長らくウチの地方局では放映されていなかったのに、最近になって第一回から放映が始まったのも、その傍証になろうか。

 個人的には、ずっと以前から好きであったし、「ブリーチ」「ナルト」に押されて、イマイチ人気が上がって来ないのが不満だった「銀魂」が、ブレイクしつつあるのは嬉しい限りなのだが、不安要素もかなりある。

 別冊「銀ちゃんねる」のインタビューで本人が語っているように、雷句誠氏(「金色のガッシュ」作者:小学館にケンカを売り決別した)ほどでは無いにせよ、作中でもギャグめかして暴露される担当氏との確執の存在と、売れっ子ならではの多忙さ、そしてその結果生じたであろう「銀魂モンハン編」に代表される、内容が破綻したヤブレカブレ作品がたまにあるからだ。

 その暴走ぶりは、まるで、かつてサンデーに連載され、テレビ放映もされた「やきたてジャぱん」同様の破綻へのチキンレース、いやレミングス大行進に似ている。

 今は、まだ破綻の都度、元の路線に戻せているが、いつか破綻したまま戻れなくなってしまうのではないかと心配なのだ。

 なんせ、ギャグ漫画だから。

 まっことギャグマンガ(に限らずギャグというもの)を、書き続けるのは至難の業だ。
 時代を見る才能と時流に乗る運、その二つがなければトップにはなれない。

 だから、私にはとても書けない。シリアスなものなら何とかなるだろう。お気軽なものも。だがギャグは無理だ。

 それをこなすには、膨大なエネルギーと鋭敏な時代読み取りアンテナが必要不可欠だ。
 だから、かつてお笑い芸人は、偉大であったのだ。
 今、お笑い世界は、漫画で仕入れたネタ(特に相原コージなどに代表される四コマギャグ漫画など)を、自らの体を使って具現化させるコントが主流になってしまった。

 深夜や休日にお笑い番組(芸人が格下芸人をイタぶるバカトーク番組は除く)を見ても、若い芸人のほとんどはコントに走っている。
 彼らの多くは、漫画で仕入れたセンスや知識を、無意識にコントで実写化しているに過ぎない。

 つまりコントとは、漫画が生み出した、デキの悪いレプリカに過ぎないのだ。

 まあ、たとえデキは悪くとも、見ている方も予定調和、マンガで見た通りのオチ、サゲで落ち着くネタならば、不安なく笑うことができて安心できるのだろう。

 笑いの冒険をしなくてすむ。

 演る側も観る側もレベルが落ちたものだ。

 まあ、それはともかく「銀魂」である。

 マンガに限らず、売れているものは、だいたいにおいて、過去の大ヒット作品のアウトラインを踏襲していることが多いという。本当だろうか?

 試しに銀魂の特徴をざっと挙げると……

 1.普段はちゃらんぽらんな主人公も、決める時はキチンとキメるのだ。
 2.主人公はある程度年長で、人生の裏側を知っている(ようにみえる)。
 3.見ていないようで、しっかりと相手の表情を読み取っていて、影でサポートしたり
   アドバイスできる。
 4.イザとなったら、とにかく強い。
 5.女心も男心も、老人心も分かっている。つまり(その回に関しては)何もかも
   分かっている神のような存在。

 あれ、なんだか似たようなことを、前に書いたような気がするぞ。
 えーと。検索、検索……ああ、あった、なんだ「シティハンター」じゃないの。

 そりゃ、ま、あの路線でやれば、売れるのは確かだからなぁ。

 しかし、作品を読む限り、どうも作者は、主人公坂田銀時より、シンセングミの土方の方に思い入れがあるようだ。

 ある意味、土方は銀時のネガであるし(設定資料を見ても、両者は身長も同じ)、ポジよりネガの方が、陰影があって描いてて面白いに決まってる。

 だいたい、男を二分すると「土方派」と「竜馬派」に別れるものなのだ(私の独断)。

 ともに昭和三十年代後半、つまり高度経済成長下の同時期に同じ作者(司馬遼太郎)によって書かれた作品によって、男の志向が二分されるというのも面白い(あくまで私の独断)。

 坂田銀時は、名前こそ坂田金時、いわゆる金太郎さんに借りてはいるものの、その性格は坂本竜馬に近い。

 だから、作中に出てくる坂本某(タツマ、だったかな)という、竜馬がモデルらしき男は、アハアハ笑う、まるで竜馬らしくないグブツとして描かれてしまうのだろう。
 この世に竜馬は二人いらんぜよ、ということだ。

 え、わたし?
 どっち派かって?

 そうですねぇ、まあ、どちらでもいいんですわ。
 わたしにとっての英雄は、後にも先にも「風神の門」の霧隠才蔵以外にはいませんから。

 ともかく、鎖国によって、長らく停滞していた武士の国「ニッポン」を、異人ならぬ、異星人によって無理矢理コジ開けられたエド・シティ、その結果、未来科学が何気なく利用されている異世界は何とも言えず魅力的だ。

 夷敵が異人ではなく、異星人であるという点は、別項で書いた「攘夷 幕末世界」に通じるものがある。
 まあ、あっちは異星人ではなく、土から湧き出た化け物(地虫:土グモ)であったが。

 ともかく、銀魂好調!

 ポイントは、いつ映画化が為されるかということだが……それまで連載が保つかな。

 あまり根を詰めて煮詰まらないように、ガンバレ空知。

ヤッター、のか?新ヤッターマン主題歌問題

 録画はしたものの、まだ観てはいなかったのだが、先日より「新ヤッターマン」が始まっている。
http://www.ytv.co.jp/yatterman/index.html

 タツノコの、このシリーズに特に思い入れがあるわけではないのだが、何となく気になって録画だけはしたのだが、ちょっとばかり問題が起きているそうな。

 オープニング曲作曲者の山本正之氏と、制作者サイドの意識のすりあわせがうまくいかなかったのが原因らしいが……。

問題点は大きくふたつ。

1.今の若者にアピールするために、新人若手を歌手に使いたかった山本氏に対し、制作者側が勝手に歌手公募をし、最終的に五十代のロック歌手ユニット(はっきりいうと、世良政則と野村義男)に決まったこと。

2.「世良氏が歌い、バックでヨッチャンがギターをかき鳴らす」、のだが、数カ所、曲を勝手に変えてしまっているところがある。補作詞、作曲を手がけて、当時、一世を風靡した山本氏が、心中穏やかならぬのは仕方がないところだろう。

 個人的には、世良、野村、両氏共に嫌いではないので、「今度のイイカモ」と思ってはいるのだが、前回のヤッターマン人気が山本氏の曲に負うところ大である上に(その後の長期シリーズ化を見よ)、今回も氏の曲を利用して話題を作ろうとするのなら、制作者サイドは、もっと氏に敬意を払うべきだった。

 曲がりなりにも音楽に携わっているものとして、わたしも作詞補作詞は、かなりしているが、無名の悲しさか、表にわたしの名前がでることなどほとんどない。

 だから、作詞したものが勝手に変えられるなどは、日常茶飯なので、「何をそんなに目くじらを」とも思うが、おそらくは、代表作数多ある山本氏にとっても、この「ヤッターマン」は記念碑的な作品なのだろう。補作詞までしているし……。

 制作者たちは、今後何らかのアクションをすることを示しているようだが、今更、歌手を変えることもできないだろうし(著名な人たちだけに)、曲を元に戻すのだろうか?
ヤッター、のか?新ヤッターマン主題歌問題
 あるいは、まったくのオリジナルに変えてしまうのか、考えてみると、これが一番簡単な解決法だ。

 いずれにせよ、この「ヤッターマン主題歌騒動」、話題づくりにはなっているようではある。

 ああそうだ。ご存じの方も多いとは思うが、「編曲」(いわゆるアレンジ)に著作権はありません。
 だから、何千曲アレンジをしても、著作権料は支払われません。
 つまり、バックギターの弾き方などは、自由に変えて良いのです。ヨッチャンに罪なし。
 ただ、今回のは曲のメロ自体を変えているそうなので、そこに問題がありそうです。

 しかし、今みるとドロンジョ様ってイイオンナだねぇ。
 特に、ブルーのアイラインをひいた吊り上がった眼がイイ。
 濃く朱を引いた唇も蠱惑的。
イメージ 2

 昔はキレイとも思わなかったのに、好み変わったかなぁ。

 かつて荒木飛呂彦が、眼の吊り上がった女性に謎と魅力を感じてワクワクする、と書いていたが、なんとなく分かるな。

 わたしは自分の眼が吊り気味なので、長らく目尻の下がった優しい顔立ちの女性が好きだったのだが。

 ああ、そうか。猫を飼うようになって、好みが変わったのかも知れぬ。

 左上の自画像(飼い猫ロボ太)を観ても、猫は驚くほど眼が吊り上がっていて、しかも謎に満ちているものだから。

Without Saying Good-Bye サムライ・チャンプルー

サムライ・チャンプルーが終わった。

 もとより、制作されたのは随分まえの作品だから、今回、アニマックスで放映されていた分が終わったということなのだが……

 すっきりとした綺麗な終わりかたで、見終わってこんなさわやかな気分になったアニメーションは久しぶりだった。

 まさしくロードムービーの王道。

 若き日の医学生チェ・ゲバラの貧乏旅行を描いた佳作「モーターサイクル・ダイアリーズ」がそうであったように、ロード・ムービーとは、主に若者が経験する一片の夢だ。

 必ず終わりのある夢。

 夢であるが故に素晴らしく、そこから離れたくなくなる世界。

 そして、これは、多分にわたし個人の理想なのだが、終わったあとで、その終着点から元気に手を振って歩き出せる夢、それこそが最高のロードムービーだと思えてならない。

 ロード・ムービーの範疇(はんちゅう)には入らないかもしれないが、萩尾望都の「11人いる!」が「チャンプルー」と同様の感慨を抱かせる作品だった。

 萩尾望都は、「11人〜」「続・11人いる東の地平 西の永遠」の後、「スペース・ストリート」というギャグ漫画で、主人公たちの学生生活を描いていたが、この「チャンプルー」も、必ずアフターストーリーが描かれなければならないだろう。

 孤独なまま集まった三人が、旅の果てに、自分の中に欠けていたピースを見つけ、しっかりと自身に嵌め込んでゆっくりと歩き出す。

 さよならを言わずに別々の方向へ。

 実際、「カウボーイ・ビバップ」と、同じ者の手になるとは思えないほどに、「チャンプルー」の完成度は高かった。

 単にわたしがジダイモノを好きなだけかもしれないが、それだけが要因とも思えない。。

 機会があれば、全話ぶっ続けで観てほしい。

 そして自分の目で確かめて欲しい。

 玉石混淆(ぎょくせきこんこう)ではあるが、そのイシですら、凡百な作品よりは数段上であるものだから。

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