ミッキー・ローク主演の「レスラー」を観ました。
Witness The Resurrection of Mickey Rourke.
どこかのサイトにあったオリジナル英語版のトレーラーで、裸のミッキー・ロークの映像とこの文字を観た時、ネコパンチ(古いなぁ、覚えていますか?)の再来か、と笑いそうになりました。
監督も、あの、なんだかわからない「π(パイ)」を撮ったダーレン・アロノフスキーだし……
公式サイト↓
が、あとで、この「The Wrestller」が、全世界の映画賞54冠!(ヴェネチア国際金獅子賞含)を達成した『極太』の映画であることを知り、いずれは観たいと思いながらその期を逸していました。
というより、実際は、なんだか観てはいけない映画のように思えて、避けていたのです。
どうして、そんなふうに思ったのか?
たぶん、映像で一瞬写る、顔はすっかり老けたものの、体にはかなり筋肉をしっかり残した「いかにも老いたレスラー体格」のミッキー・ロークの姿に「これは観てはならない映画なのだ」という直感が働いたからでしょう。
そして、その感じは正しかった。
基本的に、わたしは、ほとんどの作品に耐性があります。
ホラーであろうと、SFであろうと、文芸であろうと、コメディーであろうと。
耐性とはつまり、映画を楽しみつつ、それを作られたフィクションとして、カメラワークや脚本の流れを評価できる、ということです。
いわゆる、岡田斗司夫氏がいうところの、
「特撮オタクが、スゴイ特撮だと感動しながらも、心の一部でどうやって撮っているのか分析し続ける心」
あるいは氏の言葉を借りて言い換えれば、
「宇宙人と対面した科学者が、その事実に気絶しそうになりながらも、彼らの内蔵の位置や免疫構造を見極めようとする気持ち」
を忘れず映画を観ることができる、ということですね。
しかし、数多(あまた)ある映画の中には、そんな余裕を持てず、作品に気持ちが持って行かれてしまうものがあります。
たとえば、「真夜中のカーボーイ」(車のボーイの意で、原題のカウボーイでないところに注意!水野晴郎氏のセンスさすが)、スコセッシの「タクシー・ドライバー」や、オリジナル版「傷だらけの天使」最終回、あるいはTVシリーズ「OZ/オズ」などがそれです。
一度、取り込まれてしまったら、しばらくは、その気分に支配されるため、なるべく、そういった「重い」作品は、敬遠するようにしているのですが、ゴールデンウイークも始まったことだし、「レスラー」を思い切って観ることにしたのです。
さて、ミッキーロークの「レスラー」
結論からいうと、ずっと尾を引くような作品ではありませんでしたが、観ている間は、まったく余裕がなくなる作品でした。
ストーリーは単純です。
かつて栄光を極めたプロレスラーであったランディ(=ミッキー・ローク)も、50代半ばになって、すっかり人気も衰え、地方の特設リングを回りながら、口に糊する(メシを喰う)生活を続けています。
しかし、大量の筋肉量を維持するため、プロテインを飲みステロイドを使う毎日は、徐々に年老いたランディの心臓に致命的なダメージを与え、ある日、彼は心臓発作を起こして倒れてしまう。
目が覚めると、心臓バイパス手術を施され、胸には大きな傷跡が……
医者から「無理な運動などもってのほか」といわれて、結局、ランディは引退を決意します。
週末は地方巡業、ウイークディはスーパーの荷物搬入という「二足のわらじ」を続けてきたランディは、虫の好かない上役に頼んで、フルタイムのスーパー店員になろうとするのです。
生き甲斐をなくした彼は、今まで以上の孤独を感じ、なじみのストリッパーに求愛します。
このストリッパー役のマリサ・トメイがイイ。
若すぎず老けすぎず、いわゆる妙齢のご婦人で、よく気がついて優しく生真面目でイヤラシイくらいに色っぽい(映画を観てください)、という、かなり矛盾しているようで、かつては色街で案外よく見かけた女?を好演しています。
結局、彼女から拒絶され、疎遠だったひとり娘との関係も、自らの愚かさからコジれてしまったランディは、病をおして、ファンサービスとして20年ぶりにマッチングされたリングに上ります。
それが、バイパス手術を受けた彼の体に、どんな影響を与えるかを知りながら……
というように、ストーリーはシンプルですが、そこで描かれるシーンの一つ一つに魂がしめつけられる気持ちがするのです。
たとえば、控え室に入ったランディに、若いレスラーが最敬礼をしながら「今日のリングの打ち合わせ」をするシーン。
掛け値なしの敬意でハグする彼らに、年長者、先行く者の優しさをもって、ランディはいいます。
「前に君の試合を観たよ。良いセンスだ。客がよろこんでいたからな。やりたいようにやって客を喜ばせろ。それが大切なんだ」と。
ああ、書いていて、今気づきました。
上で「引退して孤独を感じ」と書きましたが、それはリングに上がると(少ないながらも)ファンに囲まれるだけではなく、若いレスラーからの敬意を得られるからなのですね。
また、試合が終わって、レスラー仲間と和やかに挨拶を交わしながら、大きな背中を見せつつ、ガラガラとリング衣装の入ったキャスターを引いて去っていく後ろ姿の映像もいい。
仲間とホームセンターで、リングで使えそうな、つまり、派手に音が出て痛そうにみえながら、そうでもないシナモノ、具体的にはフライパンやアルミのトレイをみつくろっているのもなんだかもの悲しくてつらいなぁ。
ランディは、粗野で乱暴な男ではなく、マジメで紳士的であろうと努力するエンターティナーなのです。
そして彼が属するプロレス界も同様。
リング上では「死にやがれジジィ」と反則ワザを繰り出す悪役レスラーも、控え室ではお互いの技術のうまさを称(たた)え合い、拍手しあいます。
彼らは知っているのです。
自分たちのいる、場末の仮設リング(体育館借り受け?)が舞台の地方プロレスは、地方ファンからは、憧れられ慕われても社会的には下層であることを。
体がモトデの肉体資本主義(古館氏のうまい表現)だからこそ、仲間同士がいたわりあって、やっていかなければならない。
つまり、レスラー仲間は血のつながりはなくとも家族なのだ、と。
映画用に少し美化されているのかも知れないとも思いますが、おそらく、中央ではない、地方プロレスでは、こういったアットホームな雰囲気が現実にあるのでしょうね。
映画のラストに、先年、リングで事故死された三沢光晴氏の映像がオーバーラップしました。
その時も、リングに倒れた三沢氏を、ワザをかけた相手はじめ、レスラー全員が心配そうに見守っていましたね。
あと、これは、書くべきかどうか迷いましたが、書いておきます。
力を崇拝するアメリカの一般人にとって、体が大きくたくましいレスラーは敬うべき異人種なのです。
もっとも、これは洋の東西は問わないかもしれません。
日本人も相撲取りが好きですから。
自分たちとは違う体格で世間を見下ろし、自分たちにできない格闘を繰り広げる超人たちに彼らはあこがれる。
たとえて言えば、彼らは、地上人が憧れる雲上の神々に近い存在なのでしょう。
だからこそ、映画でも、リングサイドには肉体的弱者、たとえば車いす生活者であったり侏儒の人たちが集まって声援を送る姿が描かれていました。
ランディも、自分を冗談めかしてヘラクレスに例えていますしね。
もちろん、現実は、そんなものではありません。
レスラーの多くは、長年にわたる激しい衝撃や打撲によって腰痛や肩の痛みなど、体のいたる所に障碍を抱えているのです。
確かにレスラーたちは、もともと肉体に恵まれたヘラクレスたちで、リングの上は、神々が集う天界なのかもしれない。
しかし、一歩控え室に入れば、ヘラクレスたちは湿布で関節を冷やし、痛み止めの注射を打ち、ガラスや鉄条網で切った傷を麻酔もなしで縫い合わされているのです。
その風景はオリンポスというより、北欧神話のヴァルハラ(*)に近いですね。
- ----------------------------------------- (*)オーディンに支配されている戦死者の館
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彼らはそんな舞台裏はファンに見せずに、リングでの戦いを見せ続けなければならない。
苦痛を隠し、夢を売ることで、彼らは収入を得ているのですから。
そういえば、この映画を観て高校時代の友人を思い出しました。
彼はプロレスの大ファンでしたが、プロレスの開催場所情報が、野球などと違い、新聞の「スポーツ欄」でなく「興業欄」に載っていることを常に憤慨していました。
当時は「へえ、そういうものなんだ」と、なんとなく思っただけでしたが、今ならそれについて少し付け足せるような気がします。
「プロレスは、スポーツ欄ではなく興業欄に載っている、だから素晴らしいのだ」と。
村松友視の有名なことばがありますね。
「プロレスはプロのレスリングではなく、プロレスという別なものなのだ」
けだし名言であると思います。