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造られた戦場:その場にいて震えあがる意味

 いまさらですが、映画「ブラック・ホークダウン」を見ました。
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 先日、年下の友人と「メタルギアソリッド2」の話をしていた時に、局地戦を描いた戦争映画としてはかなり良いできで、「物語性」を極力排して事実を追いかけているし、武器の選定からヘリコプターその他の装備にいたるまで、かなり現実に近い正確な描写をしているから一度観てみると良いですよ、と勧められたからです。

 彼はいわゆる「ミリタリー好き」で、そういったものにうるさい。

 その彼がいうなら、観てみてもよいかなと思い、DVDを借りてきました。

「ブラックホーク・ダウン」は、2001年のハリウッド映画です。

 実際に、1993年にソマリアで起こった多国籍軍とゲリラの戦闘、いわゆる「モガディッシュの戦闘」を描いてます。

 監督は「エイリアン」「ブレード・ランナー」のリドリー・スコットで、この映画を撮るにあたって、友人のいうように状況説明を極力なくして戦闘自体を映像で見せる、という手法に徹しています。

 映画の中に英雄は登場せず、また作戦自体もMH-60Lブラックホーク(多用途=戦闘ヘリコプター)をゲリラのRPG-7(無反動砲)の攻撃によって撃墜されて、失敗におわるというストーリーで、観終わってスカッとするものではない。

 だから、バイオレンス・ファンタシーとしての戦争映画ではない。

 まさしく、ブラックホークがダウン(墜落)させられる映画なのです。

 という程度の知識は漠然とあったのですが(一応、リドリー・スコットのファンなので)、これまでは、すすんで映画館に行ったりDVDを借りたりすることはありませんでした。

 そもそも戦争が好きでは無いからです。

 銃やRPG-7などの、メカニックとしての武器は魅力的だと思いますが、その用途を考えると知識を持っているだけにしておきたいものだ、と考えます。

 実際、このあいだ借りて、少しだけプレイしてみた「コール・オブ・デューティ2」(PS2用ソフト)は、第二次世界大戦の一兵卒の目から軍事行動に参加する内容でしたが、攻撃してくる超リアルなドイツ兵を撃つのが嫌で、キャンペーン1すらクリアせずに返してしまいました。

 あまりにリアル過ぎて、あのような疑似体験を繰り返していたら、いつのまにかタブーの敷居が低くなって、人に対して刃物や銃口を向けることに対する抵抗感がなくなってしまいそうな気がしたからです。

 メタルギアソリッド2の場合は、使うのは麻酔銃で、不殺クリアも目指せる作品になっているため、それほど抵抗感はなかったのですが……

 もちろん、映画となれば、話は違います。

 通常では味わえない、銃弾飛びかう緊張感を疑似体験しつつ、こういった極限状態では自分はどんな行動をとるだろうか、と自問することができるのがイイ。

 主人公が、ゲリラ兵を撃つのを観るのは辛いですが、この場合は、映画だという安心感がある。

 ゲームで、自分が照準を定めて、自分の意思で引き金を絞るのとはまったく違います。
 たとえ、相手がプログラムが作りだした疑似生命だとしても。

 さて「ブラックホーク・ダウン」はどうだったのか。

 ちょっとがっかりしたことに、思ったほどリアルな映画ではありませんでした。

 もちろん、その国のためだと思って、出かけたその国の国民からゲリラ攻撃を受けるという、米国お定まりの矛盾はイタイものですし、ダークな色調で描かれる戦闘は激しく逼迫(ひっぱく)したものです。

 しかし、耳元を、弾丸がかすめるような緊張感を感じることができなかった。

 臨場感でいえばランク5(わたしの個人的感想です)以下です。

 ランク2の「プライベート・ライアン」の冒頭、ノルマンディ上陸には到底及ばない。

 かの大作「遠すぎた橋」等、失敗に終わったキャンペーン(軍事作戦)を描いた戦争映画は多いのですが、臨場感がそれほどなければ、そういった大作の方が映画としては観やすいような気がします。

 と、そこまで書いたら、戦場臨場感ベスト1映画(あくまで個人的です)を書いておかねばなりませんね。

 わたしにとって、飛んでくる弾丸を、もっとも恐ろしく感じた映画は「トゥモロー・ワールド」でした。

 あの「シン・シティ」のクライヴ・オーエン主演。
 監督はメキシコ出身「ハリーポッターとアズカバンの囚人」を撮ったアルフォンソ・キュアロンです。

 これは、本来、戦争映画ではありません。

 子供が生まれなくなった近未来(2027)を描いたSFです。

 しかし、終盤の戦闘シーンの恐ろしさはDVDを停めたくなるほどでした。

 本当に、銃弾が、こちらに向かって飛んでくる臨場感gがあった。

 いずれにせよ、戦闘を描いた映画の、本来の存在意義は、それを観る人に「戦争の悲劇と悲惨さ」を痛感させることにあると思っているので、その意味では、ブラックホーク・ダウン」も「トゥモロー・ワールド」も、正しい意味での戦争映画であると思います。

さらば少年時代 蠅の王

 ちらかってきた本棚を並べ替えていると、ゴールディングの「蠅の王」が落ちてきました。

 パラパラとめくっているうちに、すっかり引き込まれて最後まで読んでしまい、俄然、映画「蠅の王」を観なおしてみたくなりました。

 「蠅の王」をレンタルして観たのは、もう随分前のことですが、当時はテレビが壊れかけていて、画面は真っ暗、何がなにやら皆目わからないまま音で判断していたような状態だったのです。

 さっそく、ビデオレンタル店に出かけて、以前から気になっていたものも含めて何枚か借りて来ました。

 週末ということもあって、勢いで全部観ました。

 タイトルは、「蠅の王」「ピノキオ」「エンマ」「アビス」「センター・オブ・ジ・アース」「To1・2」です。

 ピノキオはディズニーではなく、2002年のロベルト・ベニーニによる実写版です。
 先日、BSだったかでやっていたのを出先で観て、今回観なおすことにしました。

「エンマ」は、二年ほど前の邦画で、話題にもなっていなかったと思いますが、コピーの雰囲気がソウに似ていたので借りました。

「アビス」は「アバター」つながりですね。キャメロンの作品です。

「センター~」は、今回のラインナップが重そうな作品が多かったので、口直しにカゴにいれました。

 そして「To」……

 星野之宣氏の「2001夜物語」の2エピソードを、「アップルシード」の曽利文彦が監督したOVAです。前から観たかった作品なので、今回借りることにしました。

「エンマ」と「センタ~」以外は後に、本ブログで書くつもりです。

 上記ふたつが、なぜ候補外なのかは聞かないでください。

 さて、「蠅の王」

 まずは、原作についてのアウトラインを。

 作者ウイリアム・ゴールディング(1911-1993)は、英国の作家です。

 彼が「蠅の王」を書いたのは1954年、43歳の時なのですが、処女作「詩集」を含めて、この作品以外は、それほど日本では知られていません。

 まあ、一発屋っぽいというか、少なくとも日本では、そんな感じです。

 タイトルの「蠅の王」とは、聖書に出てくる悪魔ベルゼベブ(あるいはベズゼブル・ベルゼバブ)のことで、これは、ヒトの心に巣くう根源的な悪、悪意、闇の部分の象徴でしょう。

 ストーリーは簡単です。

 第三次か四次の「未来時間の世界大戦中」に、敵の攻撃を受けて墜落した飛行機が、無人島近くに着水するのが発端です。

 未来といっても、別にSF設定は何もありません。いまならパラレルワールドに逃げると思うのですが、当時としては、未来という設定にすることで、現実感を希薄にしたのだと思います。

 事故により、頼りになる大人たちは死んでしまい、無人島に少年たちだけが残されてしまいまいました。

 少年によるサバイバル生活、という点で、蠅の王について語る多くの人たちは、この作品がバランタインの「珊瑚島(さんごとう)」(1858年)の、パロディとはいわないまでも、かの著名作品から多大な影響を受けていることを指摘しています。

 個人的には、ベルヌの「二年間の休暇」(邦題:十五少年漂流記)にも似ているとは思いますが、まあ、要は少年たちによる一定時期(後に救出されるのだから)のサバイバル生活を描いた作品です。

 大人のいない、ジュブナイル・集団サバイバル・ストーリーなのですね。

 その点で、スイスのロビンソン(家族ロビンソン漂流記 ふしぎな島のフローネ原作)や、本家ロビンソン・クルーソーとは少し違っています。

 珊瑚島が穏やかに語られるのに対して、「蠅の王」では、先行きに対する不安、食料不足への不満や、狩りの能力差による配分の不平などで、徐々にリーダーシップをとる少年ジャック(というか、ボスザルになりたいという本能に忠実なヒト)が現れ、安全に、公平に常識的にグループを導こうとしていた主人公・少年ラーフを敵視していきます。

 この点で、わたしは「蠅の王は、」珊瑚島というより、二年間の休暇に近いと思うのですね。

 あれも、それほど激しくはないものの、少年たちによる敵対行為がありました。

 始めは無垢にサバイバルしていた子供たちも、徐々に、自分の心の中にある「悪」なる部分に心を浸食されていきます。

 個人的には、「深い夜の闇」とそれによる不安感が少年たちの闇の部分を浮かび上がらせ、表に出したのではないかと考えています。

 白々とした蛍光灯あるいはLED灯といった「人工の灯りのない世界」を初めて知った少年たち。

 調理や獣よけ等、様々な用途に使えるたき火の炎は、暖かく万能ではあるけれども、灯りとしてみた場合は、あまりにも照射範囲がが狭く短く、暗すぎます。

 しかも揺らぐ。

 結局、それは闇を強調する手助けにしかならないのです。

 やがて、ジャックは、得意の狩猟能力を生かして捕まえた豚を、皆に配って人望を集め、食べ残した首を「暗黒への贈物」として捧げます。

 暑い南の島のこと、豚の首はたちまち腐り大量の蠅が発生する。

 腐敗臭の中、ブンブンとうなりを上げて跳ぶ蠅。

 それこそが、ベルゼベブ。悪魔たる蠅の王なのです。

 ジャックたちは、蠅だらけの豚の頭を「蠅の王」としてあがめはじめます。

 物語の圧巻は、ベルゼベブの名のもと、ジャックたちが、ラーフたち小グループを追い詰めるラスト近くです。

 ここまで書いて、楳図かずお氏の「漂流教室」を思い出しました。
 あれは「蠅の王」にインスパイアされていたのですね。

 そして、物語は突然終焉(しゅうえん)を迎える。

 
 全てが終わって、都会へ帰って行く少年たちの胸に去来するのは、

 ブラッドベリの「何かが道をやってくる」で語られる

「ある年の万聖節前夜。ジムとウィル、13歳の二人の少年は、一夜のうちに永久に子供ではなくなった」

と同様か、あるいは「地下鉄のザジ」の最後の台詞、

母親 「楽しかった?」

ザジ 「まあね」

母親 「地下鉄は?」

ザジ 「ノン」

母親 「じゃ何を?」

ザジ 「年をとったわ」

と同じ、「もう子供でなくなってしまった自分自身」への惜別の思いだったのではないかと思えてなりません。

 その点が、「子供のまま」都会へ、もとの生活へ戻っていった感のある「二年間の休暇」の少年たちとは決定的に違っているのです。

永遠にエイワと -アバター-

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 さて、アバターですが……

 この映画を、今後3D映画の主流となるであろう、

『ほら、これだけ飛び出させてみました、スゴイでしょう的あざとさのない、自然な奥行き感のある最初のメジャー・ヒット映画の嚆矢(こうし)』

というスタンスで捉えたり、

『どんだけキャメロン日本のアニメ好きなんや、あそこにラピュタ、ここにモノノケ、これはどう見ても腐海(漢字あってるかな)の描写じゃん、をを、とどめは「そのモノ~青き衣をまといて~」のナウシカだぁ』

的な類似性で捉えたり、

『3メーターのナヴィと1.8メーターのヒトとのサイズ比がチョー微妙。6メーターの大魔神では恐怖感があるし、18メーターのザクはちょっと現実味が薄かった。今回のナヴィ:ヒト比率で、これまでどうやってもデカかったシガニー・ウィーバーが、初めて可憐な少女のように小さく見えて感激!』

的な感情論で捉えたり、

『In the end、とどのつまり、ネット世界にジャックインして戦った「マトリクス」のネオの現実版でしょ』

的シニカルさで、斜(はす)に構えてみたりせず、

『一見ハッピーエンドっぽく見えるけど、後で、数十億単位の石コロをめざして、地球から膨大な科学兵器部隊が送り込まれるんじゃないの』

などとと心配するのはやめて、もうひとつ別な角度から見てみることにします。

 それは、ナヴィとヒトのハイブリットタイプである「スカイピープル」ジェイク・サリーが、クローン牛ドリーのように生まれた時から老化が進んでいて、最後にナヴィに転送されたは良いけれど、たちまち死んでしまうのではないか、という、科学技術的切り口です……ウソ!

 まあ、ご都合主義のハリウッド映画ですから、きっとサリーは、末永く幸せに暮らすのでしょう。

 そいつはいい。

 わたしが気になるのは、ナヴィたちが持つ、宗教観、死生観です。

 多くのリピーターたちが、アバターで描かれる動植物一体となった『スピリチュアルな世界』に耽溺したくて映画館に通うともいわれていますが、実のところ、ナヴィたちの生活は、それほど『スピリチュアル』なものではないからです。

 その様々な解釈はともかく、spiritualを辞書で引くと「精神的な。また、霊的な」とあります。

 ストーリーを考えたのがキャメロンであり、ハリウッド映画であることを考えると、おそらく、ナヴィたちの『スピリチュアル』っぽい生活は、アメリカ人がネイティブ・アメリカンに対してもつモノから類推されたものだと考えられます。

「鳥、コヨーテ、みんな意思持っている。だから、気持ち伝わる。地面に落ちている石、手にしたら力がみなぎる」的な、ステレオタイプのスピリチュアリズムが、大元になっている。

 しかし、ネイティブ・アメリカンいや、日本のアニミズムはじめ、原始宗教の多くは、世界に精霊を求めて、それを精神的に実体化します。

 現実には存在しない精霊たちを、ある時は薬物を用い、ある時は永続するダンスなどによるトランス状態で、肌身に感じ、交信する。

 実際には存在しないが故に、自己洞察は深くなり、やがては哲学に至るほど、深化されるのです。

 しかし、ナヴィの生活にはそういった精神的な深さはない。

 いや、あるのかも知れないが、それが、より深化する素地がないように思えるのですね。

 たとえば、我々地球人は、死を恐れ、他者の死を悲しみます。

 死ねばどうなるかわからないからです。

 だからこそ、様々な哲学、宗教が生み出された。

 しかし、ナヴィたちは、一般に、死をそれほど恐れない。

 なぜなら、物理的に、「自分の精神」がより大きなモノ(エイワ)に吸収され生き続けることを知っているから。

 サリーがナヴィの生活に馴染みつつある時に、一瞬写る、葬礼のシーンでも、そこにはいくばくかの寂しさは感じられても、悲しみはなかったように思います。

 おそらく、彼らが恐れる死は「事故による突然死」なのでしょう。

 あまりに早く肉体が滅んでしまえば、精神をエイワと一体化する時間がない。

 要するに、彼らの宗教観、死生観は、すべて、全惑星精神ネットワーク・エイワによって自己がバックアップされる安心感に裏打ちされているのです。

 だから、ヒロイン、ネイティリは部族長の父の突然死に号泣する。

 彼の精神は、どこにも保存されず無に帰してしまったから。

 ああ、おそらく、皆さんは何を長々と書いているのだ、と思われていることでしょう。

 では、結論からいいます。

 わたしは、この映画を観た人々が、アバターで描かれた、エイワ(永和?)を核とした『惑星レベルのネットワーク』に憧れることに弱冠の危惧を感じるのです。

 より大きいモノに接続して、叡智を共有すれば孤独感もなくなる……

 しかし、人類にある「孤独感」こそが、文明を発達させ、哲学を生み、深化させたことを考えれば、安易に精神を一本に束ね、記憶をそういったメガ(じゃないなヨタ)メモリバンクに保存することは、少なくとも地球人にとっては好ましくないと思うのです。

 おそらくは、そう遠くない未来、全地球レベルでネットワーク化が推進され、ヒトは電脳化されて、あらゆる者が五感ごとネットワークにつながって、死亡する際には、ネットワークにその経験が吸収されるようになるといった出来事もあるのでしょう。

 まさしく、パンドラ星の機械版ですね。

 個人的には、あまり好ましくないとは思いますが、それはそれで仕方ない。

 科学の進歩と歴史の流れは止められないものです。

 現に、メールやブログやツイッターで、他者と緩やかに、常時接続したがる人々も激増しているのですから。

 しかし、問題は、今のところ、そういった、自分自身を受け止めてくれ、叡智を与えてくれる『何か大きなモノ』、パンドラのエイワに成り代わるものが「強烈に尖った教義をもつカルト宗教」ではないかと、わたしは思っているからです。

 パンドラ世界の荒々しい美しさに憧れ、エイワへの帰属を願いつつ、リピート鑑賞を繰り返す人々は、そういった「カルトモノ」に対する耐性が低いのではないか、と、まあ、これは、わたしの歪んで勝手な解釈と判断に過ぎないのですが、映画を観おわって、ふとそんな気がしてしまいました。

 さしさわりがあるようでしたら、いつでも謝罪する用意はあります。

 ごめんなさい。

p.s.
 上でメガ→ヨタとしましたが、
 一応書いておきます。括弧内は乗数。

 10(6)  メガ
 10(9)  ギガ
 10(12) テラ
 10(15) ペタ
 10(18) エクサ
 10(21) ゼタ
 10(24) ヨタ

    

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