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ちょっと惜しかったB級SF フジテレビ「O-PARTS~オーパーツ~」

 先日、放映された、四夜連続深夜番組「O-PARTS~オーパーツ~」を観ました。

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 いや、このオレオみたいなのはホンモノのオーパーツだから↑

「O-PARTS~オーパーツ~」公式サイト(あらすじの詳細、画像などはすべてここ↓にあります)
  http://www.fujitv.co.jp/O-PARTS/index.html

 何かの予告で観て、四夜連続、チープそうなSF映像、そして、まったく知らない役者陣(どこかでカンジャニとか書かれてましたが、そもそも、その人たちを知らない)と、マイナス要素が多すぎて、かえって興味が惹かれ、録り捨て用のトルネで録画してあったものを観たのです。

 はっきりいって、最初は辛かった。

 例によって、イカニモな、自己中心的かつ自己主張過多な登場人物たちが(そうじゃなかった若者は早々に退場!)叫シーンが多い。

 富野ヨシユキがガンダム以降流行らせ、アンノがエヴァンゲリオン(ヲンか?)で一応完成させた「巻き込まれ型僕ちゃんヒーロー自己主張す」のパターンですね。

 すぐ声高に「オレたち仲間じゃないか」なんていうのも、気味が悪いったらありゃしない。

 今の若い人に尋ねてみたいけど、本当に、ジッサイ、みんなで「仲間」「ナカマ」って確認しあって仲良しぶるものなのかなぁ。

 もしそうなら、それはかなり歪んだ教育のタマモノのような気がする。

 なんというか、自己中心的、利己的な主張と、「ナカマ」って叫ぶと、なんとなく仲良くなると言う設定にギャップがありすぎるんだな。

 少年あるいは青年コミックスなどを読んでも、あまり違和感がないけれど、たまに日本のドラマ(映画含む)を観ると、この人たちいったいどうしたんだろう、と思ってしまうことが多い。

 最近観たものでは、「インシテミル」「彼岸島」なんかがそうだった(まあ、最近の映画でもないし、「彼岸島」は原作コミックでもそのコトバが鼻につきますが)。

 これって、上記コミックスは男性向けで、ドラマは、視聴者がほとんど女性という、対象者の性差の問題なのかな。

 でも、女の子が、「仲間」「ナカマ」って連呼するのは、ちょっとあり得ないように思う。

 いったい、どこで、日本のドラマはこんな風に作るんだ、という風潮ができたのだろう。

 あるいは……

 そうか、これらのパターンは、中・高校生向けのドラマによくある言動なのかも。

 義務教育に近い、学校教育に関わっている世代の子供たち。

ということは、やはり学校教育が原因かな。

 コミックスは、読者層に大人も入るから違和感が少ないのか?

 ともあれ、全体としてみると、この物語は、それほど悪いデキではなかったような気がします。

 特に、ヒロインの扱いがうまかった。

 実験用のモルモットとして、徹底的に傷つけられた存在として、政府を恨みながらも、人そのものを憎むことができない「善良さを持つ生き物」としての描き方が良い。

 未来から来る暗殺者、といえばターミネーターが有名ですが、それに、先祖・子孫という「血縁同士なればこその共感性」を加えたのも良かった。

 オリジナルとクローンの恋、というのは、わたしも思いついて、三十年前に「由良」という作品で書きましたが(自作小説にあります)、なかなか魅力的な設定なんですよね。

 そりゃあ、なんで未来から来た暗殺者集団が、毎回、電子レンジよろしく、マイクロ・ウェーブを使ったショボい間接攻撃方法しか取らないの?とか、何で、物質の交換転送ができるなら、遠距離からターゲットを狙って、比較的大きな物体と交換(例えばペコちゃん人形とか)し、体の大部分を取り去ってしまえば、あっさりと殺すことができるのに、やらないのか、どうして怪人二十面相*(ルパンというべきか?)のように日付のみならず時刻まで予告するのか(しかも、その理由も要領を得ない*)、という欠点はありますが、物語全体の流れは悪くない。

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 *最近になって、初めて「二十面相の娘」を読んだので、つい二十面相、といってしまいます(「二十面相の娘」については、別項にて書く予定)。

 *物語中では、テロリストはそういう示威行為的な行動をするものだ、と言っていたけど、何か違和感が残ります。

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 しかし、やはり気になったのが演出面。

 電磁波の生体への影響は、少しでも電磁波をかじったものなら知っていますが、眼球の白濁、つまり目が煮えて白くなるという症状になって現れるのです。

 そのくらいは映像表現として出して欲しかった。
 目から血を流させる、なんて安っぽい方法をとらずにね。

 「オーパーツ」の総評、ヒトコトで言えば、シノプシス(あらすじ)は悪くないけど、演出がヘボかった、ということになるかな。

 最後のオチといい、爆弾の処理方法といい、観るべきところは多かったのに残念でした。

 プロットとして、ターミネーター、リターナー、僕の彼女はサイボーグあたりに影響を受けた作品でしょう。

 安易に、SF「映画」からではなく、ちょっとハードなSF「小説」からインスパイアされていれば、もっと歯ごたえのある作品になったのではないか、と思います。

「マンガを描くのに、マンガから得た知識で描くな」
とは、よくいわれることですから。

 まぁ、そんな難しい作品にしてしまうと、企画が通らないんでしょうがね。

 ともかく、オーパーツ、最後まで通してご覧になられるなら、DVD化された際に借りてご覧になられても良いかと思いますよ。

ゲゲゲの黄金の日々

 連続テレビドラマ「ゲゲゲの女房」も佳境(かきょう)に入ってきました。

 主人公たちが、赤貧(今は誰も使いませんね)洗うが如き生活をしている時は、我が身につまされてよく観ていましたが、豊かになってからは、あまり真剣に観ていません。

 話はちょっと横道にそれますが……これは別項で書こうと思っていますが、先日、日本橋にでかけたおり、「禁断の惑星」のロビー貯金箱を叩き売りの値段で手に入れました。

 連日、ディスプレイの前に置いて悦に入っています。

 そこで、この機会に、映画を見直そうとDVDを探すうち、「のんのんばぁとオレ」を見つけました。

 何年か前に、スカイパーフェクトで放映していたものです。

 ご存知のように、これは、漫画家、水木しげる氏が少年時代を描いた原作を、1991年にNHKがドラマ化した作品です。

 さっそく全五話を一息に観かえしてしまいました。

 母役をもたいまさこ、父役を岸部一徳が好演しています。

 番組冒頭、まだ矍鑠(かくしゃく)として元気な水木しげる氏自らが登場し、当時の思い出を語りながら物語へと誘います。

 今は知らず、かつて男の子にとって、少年時代は、ある意味ユートピアでした。

 その半ズボンのポケットの中には、綺麗なガラス玉、なにか得体のしれない動物の骨、独楽回しの糸の切れ端と共に、遊びのエネルギーがいっぱいにつまっている。

 その過剰なエネルギーと好奇心が、時にトカゲや蛙の面白半分の解剖などの、同世代の(いや、世間全般のかな)女の子たちのマユをひそめさせる行為につながるのです。

 いまだ、明確な自我の目覚めを得ず、したがって、それゆえの孤独を知らず、たえず胸を軽く押されるようなメランコリィを知らない黄金の日々。

「のんのんばぁとオレ」は、正しく少年の、その幸福な世界を描いています。

「のんのん」つまり神様をまつる民間の拝み屋のお婆さん、だからのんのんばぁ。

 山田 昌さんが好演しています。

 当時からその仕事だけでは食い詰めて、水木しげるの家に臨時に雇われ、家政婦のような仕事をしつつ、彼女は、少年たちに、さまざまな妖怪や不可思議な出来事と共に、教養ではなく、経験から得たヤルベキコト・ヤッテハナラヌコトを伝えていくのです。

 また「この親にしてこの子あり」の夢想家の父や母、結核の転地療養のためにやってきた遠縁の女の子との関わりを交えつつ物語は進んでいきます。

 子供たちは、毎日のように隣村の子供たちと戦争ゴッコをくりかえしていますが、いまだ戦時色は強くなく、田舎の村の雰囲気は自由です。

 その中で、少年は逃亡中の強盗犯と出会い、少し年上の女の子に淡い恋心を持ちます。

 強盗で思い出しました。

 わたしの祖母は、山口県の青海島(オウミジマ)という離島(現在は橋が架かっています)の出身ですが、八歳の時に山賊にあったことがあるそうです。

 十二歳の姉を頭に、三人の女の子だけで、島から仙崎(本州側)にある本家に引き出物を受け取りにいった帰りのことだそうです。

 祖母の家は、本州からみて島の反対側にあるので、行きは家の前の海岸から舟に乗り込んで送ったもらったのですが、帰りは、何かの用事で遅くなってしまい、同じ場所まで送り届けるというのを断って、本州側の浜につけてもらったそうです。

 なぜ、祖母たちが舟を断り、大人たちがそれを許したのかは聞き逃しましたが、とにかく島を縦断して家に帰る途中に、彼女たちは山賊にあったのです。

 夜道を、提灯を掲げて歩くうち、うしろから「おーい」と呼ぶ声が聞こえる。
 まだ子供だった祖母が
「呼んでいるから返事をしないと」
というのを、年の長で、危険を感じ取った長姉が
「返事なんかしないで、急いで歩くの」
と急かせているところへ、ぱっとその山賊が飛び出してきた!

 お腹の大きな女性を連れて。

 ザンバラ髪に真っ黒な顔、大きな体、恐怖による誇張と錯覚は混じっているでしょうが、心理的には、正しく鬼に出会ったような恐怖だったでしょう。

 子供心に、妙に恐ろしく、またリアルに感じたのは、その山賊がひとりではなく、妊娠中の、同じように真っ黒な顔をした女性を連れていた、という点でした。

 今なら色々と想像できます。

 何らかの事情があって島に逃げ込んだ夫婦が、食べ物に困って、道行く子供を脅かしたのでしょう。

 結局、祖母たちは、引き出物を放り出して、命からがら家に帰ったそうです。

 一応、翌日に山狩りが行われたそうですが、何も見つけることはできなかった。

 まあ、祖母が死んで20年近く、100年ほど前の事ですから、そんなこともあったのでしょう。

 こういった話を、さまざまな声色を使い分けて、ゲゲゲの女房の祖母やのんのんばぁのように、祖母は寝物語に話してくれました。

「のんのんばぁとオレ」の時代は、それより十数年後の話です。

 祖母は恐がりだったため、のんのんばぁのように妖怪や怪奇話はしませんでしたが、当時の「科学と合理主義という信仰」を持たない人々にとっては、妖怪や不可思議な出来事は事実として存在していたのでしょう。

 いまだって同じような出来事は起こっているはず。

 しかし、現代人は、宗教よりちょっとだけ再現性のある、科学技術信仰に、闇雲に陥っているためそれが見えないだけなのでしょう。

 まあ、わたし自身、根っからの鈍感、凡夫、俗物であるためか、幽霊も見えず、霊も見ず、心霊写真も撮ることができず、金縛りにもあわず幽体離脱も経験せず、UFOも目撃せずUMA(未確認動物:ツチノコなど)も見たことがないのですが……

 物語中で、のんのんばぁの語るコトバが素晴らしい。

 おそらく、原作者、水木しげるの記憶に肉付けされたセリフなのでしょうが、押しつけがましくない、妖怪を用いた軽やかで重い言葉。

 ここで、わたしのつたない文章で再現するのは止めておきます。

 機会があれば、ぜひ、ホンモノをごらんになってください。

「おまえが正しいと考えることをやりなさい」と、子供へ責任を丸投げする、親と教育機関の共同謀議である、ゆとり教育とはまるで違う教育がそこにはあります。

 同時に、イラン映画「運動靴と赤い金魚」で感じた、強大な『子供力』を目の当たりにする、元気のでるドラマです。

信じる力(ゲゲゲの女房とヘンリー・ダーガー)

 今回は「信じる力」について書きます。

 コミックやアニメ、あるいは若者向けライトノベルでよく使われる『耳触り』(耳障りでなく)の良い意味ではなく、もっと苦しく、切なく、血を吐くような気持ちで使う方の「信じる力」です。

 ああ、この言葉を、若者向けの「カッコイイ」意味で使えたらどんなに良いだろう……

 あれ、なんだか気持ちがネガティブになってるぞ。

 陰気な話になるかもしれないので、そんなハナシが苦手な人は、これ以上お読みにならないでください。

 さて、どこから書きましょうか。

 まず、わたしもイイ年なので、自分の小説のなかで、斜(はす)に構えた言い方でなく、真っ直ぐな使い方で、登場人物に「『信じる力』が大切だ」と断言させることは、もはやできなくなっています。

 んなもん、信じたってダメなもんはダメだって、長く生きてりゃ、イヤってほど分かってくるからです。

 「信じる力」にはいろいろありますが、特に「自分の能力を信じる力」は、儚い(はかない)ものです。

 「にんべんにユメ」とかいて「儚い」と読ませるのは、腹がたちますが、まさしく言い得ていますねぇ。

 「現実の重み」というクソ野郎は、時にキレイゴトを見事に吹き飛ばして跡形もなくしてしまうモノです。

 「現実の重み」、その中で特に苦しいのは、「時間の経過」と恥ずかしながら「カネ」です。

 こんなことは、もう、とうに分かっていたことですし、今さら書くことではないと思ったのですが、最近、すっかりカサブタになってしまったと思っていたブブンをえぐるような話をいくつか観てしまったので、こんな話を書き出してしまいました。

 そのうちのひとつは、現在、日本放送協会で毎朝放送している「ゲゲゲの女房」です。

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 そもそもは、頼まれて録画していたのですが、チェックがてら目を通すうち、隻腕(せきわん)の水木氏(向井理氏)が出てきてからは、特に、夫婦が赤貧洗うごとき生活をするようになってからは、身もだえするような気持ちで毎日観てしまっています。

 戦傷(せんしょう)による隻腕、40を過ぎて廃(すた)れつつある「貸本マンガ」(わたしが子供の頃はもうなかったなぁ)の作家として、全く売れない漫画を書き続ける水木氏を観ていると胸をかきむしられます。

 もう観たくない。

 でも観てしまう。そして、こう考えてしまう。

「この気持ちを本当にわかるのは、わたしを含めて日本の人口のごく一部だろうなぁ」

 まあ、そう考えた時点で、すでにこの考えは間違っているのですがね、おそらく。

 水木氏の少年時代については、かつてこのブログでも、「のんのんばぁとオレ」(正・続)で書いたことがあるように記憶しています。

 その時にも書きましたが、昔、あの番組を観て恐ろしく思ったのはのは、あれほどエネルギッシュで生気にみちあふれていた子供が、大人になって戦争で片腕を失ってしまうという運命の過酷さ、非常さを感じたからです。

 その点は、わたしもトシをとったので、誤解を恐れずにいわせていただければ、「彼はただ腕を無くしただけで、不便になるけれど人としてなんら変わってしまったわけではないのだ」と思えるようになりました。

 しかし、もうひとつ、これも誤解を恐れずに書かせてもらえれば、

「利き腕でない方の腕を失ったという事実」

 こそが、水木氏にある種の「呪い」をかけてしまったように、わたしには思えてならないのです。

 ここでいう「呪い」とは、「そのことが無謀な挑戦に対する自信の核」になるということです。

 水木氏の自伝をお読みになった方、夫人の「ゲゲゲの女房」でもいい、あるいは、今、番組をご覧になられている方なら、わかっていただけるでしょう。

 世は高度経済成長期、日本全国、人手不足で、いわゆる「金の卵」と呼ばれた集団就職の青少年たちが次々と都会にやってきて、「働く気さえあれば、貧しくとも食っていくことはできた時代」です。

 片腕というハンディはあっても、「とにかく食べて、妻子を養っていくのだ」という決断をすれば、少なくとも鼻紙を買う金すらない生活にはならない。

 でも、氏はマンガを書いて生計をたてようとする。

 「信じる力」が強いのです。

 そして、その裏には、明確には表現されていませんが、

「あの南方から生きて帰り、腕を失いながら、それが利き腕ではなかった」

という事実が、

「だからこそ、生きて描かねばならないのだ」

という「信じる力」の核になっているような気がします。

 番組の感想などでは、

「あの、豊かになりつつある時代に、あんな貧乏はないよ」

というものがありました。

 これについては、はっきり反論させてもらいます。

「時代じゃネェんだよ。そりゃ、世間の流れを見て、世間を追いかけ、世間に流されて、世間が働くなら働く、引きこもりがゆるされるなら引きこもるってヤツがいう言葉だ。そんなふうに、右見て左見る人間なら、テキトーに働いて生活だけは確保できる。でも、そんな風に生きない、生きられない人間(下記参照)にとっては、世間も時代も関係なく、つねに生活は赤貧なんだよ!」

と。

 言い換えればこういうことです。

「人間にはふた通りある。時代に生きる人間と時代と関係なく生きる人間の」

「働きながら描けばいいじゃないですか、みんなそうしているんだし」

 そう書かれる方も多い。

 実際、その通りです。正しい。

 でも、おそらく水木氏はそう考えていない。

 いや、氏だけでなく、多くの赤貧に身をおいたマンガ家、作家たちはそう考えなかったはずです。

 言葉にするしないの差こそあれ、彼らの気持ちの中には、

「生活を確保して、その合間に書くような作品に『魂が込められるかよ』」(*)

 という気持ちがあるのです。

 青臭い考え方、そして見方をかえれば、現実から逃避する「生活無能力者」の逃げ口上に過ぎないのですがね。

 しかし、これは極小の小さい声でいわせてもらいたいのですが、

「作家になってからも他に仕事を持っている兼業作家(たとえ著名作家でも)の作品になんて、ロクなものがねぇよ」

というのが、わたしの個人的見解です。

 上記(*)のように考えているクリエイターたちが、トシをとって、「もうこんなことをしていてはダメだ、子供も大きくなってきたし身の振り方を考えよう」と、世間一般いうところの「正業」(いいねぇこの呼び方、完全にヒトをバカにしている)に就くと、その後は、いくつかのパターンに分かれます。

 そう、失敗し続ければ、どれほど強い精神力をもっている人間でも、やがては折れるのです。

 何度やってもダメ。

 自分でも不安になりつつも、さらに「信じる力」を奮い立たせてようとしても、やがて自分を信じている者の目に、不安と不信の色が浮かぶのが分かる。

 それが、生活苦から、すがるような色になると、もうダメです。

 折れます。折れるのです。

1.「信じる力」が折れて、もう書けなくなり、余生を小説、漫画と関係なく過ごす。

2.まだ信じて書き続けるが、その生産量は低下し駄作をレンパツ。さらにトシをとって、流行作家をコキおろす、漫画や小説が趣味のジジイになる。

 これに、「仕事の合間に書いた作品が、水木氏のように40を過ぎてから突然認められて、大ブレイクする」なんて項目を加えたいのですが、ほぼあり得ないので書きません。

 私的(してき)な考えでは、赤貧の中書き続けたものの、時間(つまり寄る年波)と積み重なる失敗の波状攻撃に、ついに、気持ちが「折れた」人が「正業」に就きながら、作品を書き続けることなど、ほとんどできないと思います。

 先の見えない中で、自分だけを信じて赤貧に耐え、作品を書き続ける辛さは、経験しないとわからないものです。

 まあ、しかし、考えてみれば、こんなことは、普通の人たちには関係ないことですね。

 好きで「自分を信じ」、「自分に賭け」て、ダメだったんですから、他人が気に掛けることでもない。

 案外、本人たちは楽しいんですよ。血は流れてますがね。

 「運」「時代とのマッチング」最後に「わずかな才能」が揃わないと、世に出るのは難しいものなんですから。

 というのが、ひとつ目です。

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 二つめが、ヘンリー・ダーガー(1982-1973)です。

 ご存じでしょうか。

 彼は、おそらく世界一有名で無名な作家(クリエイター?)です。

 これについては、映画(ドキュメント)「非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎」(2004年)を観てもらえればすぐにわかるのですが、カンタンに映画のコピーを引用しておくと、

「病院の掃除夫で貧しい老人、と誰もが関心を示さず、大家や隣人以外ほとんど接触をもたなかった独居の男性が81才で亡くなった。
 部屋を片付けようとした大家夫人は、おびただしい数量の絵画や執筆物を発見し驚嘆する。孤高のヘンリー・ダーガーの生涯と、その作品を隣人のインタビューを交え、紹介するドキュメンタリー。
 専門教育を受けず、公開する意思なく制作された作品群が、様々な研究対象となり注目されるヘンリー・ダーガー。日本では1993年に世田谷美術館で開催された「パラレル・ヴィジョン-20世紀美術とアウトサイダー・アート」展で初公開され、緻密で独特な世界観と、絵巻状の絵画の鮮やかな色彩感覚などが大きな反響を呼んだ」

 彼は、いったい何を信じていたのでしょうか?

「信じる力」はあったのでしょうか?

 上記の「公開する意思なく制作された作品群」というのがなんだか恐ろしいですね。

 死後に残されたのが、「おびただしい作品群」ではなく、日本でよくあるように「大金」であれば、これほど考えさせられることはなかったのですが……

 機会があれば、この映画

「非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎」(2004年)

 監督            ジェシカ・ユー
 音楽            ジェフ・ピエール
 ナレーション       ラリー・パイン
                ダコタ・ファニング

をご覧になってください。

 現在も、多くの研究者が、彼を研究し続けています。

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