先日、セル版のみであった「BIOHAZARD DEGENERATION」がレンタル解禁となったので、さっそく借りてきました。
これは、制作年は2年前で、一応、劇場公開はされたものの、全国限定3館、期間わずか13日という意味不明な公開方法であったため、観たいとは思いながらも観ることができない「マボロシの作品」だったのですね。
あの、現在公開中の、ヒロイン礼賛のあまりワケの分からない内容となった実写版「レジデント・エビル(英語原題)」(ところでアリスってダレ?)と違う「ホンマモン・バイオハザード映画」だったのに……
あと、これは別に書こうと思っていますが、ティム・バードンの「アリス・イン・ワンダーランド」も酷かったなぁ。
いくらディズニーと組んだお子様むけ映画とはいえ、内容が酷すぎる。
どうしたの、バートン?
リズと別れて調子が悪くなったのか?(ってそっちはリチャードのほうだった)
とくにエンディングが悪かった。
フツーの女の子が、ラストで何に目覚めたのか、突然冒険家兼商人に?
封建的色合いが濃い時代に、「ジリツするカッコイイ女性」化する「ご都合主義アリス」なんて、原作に愛着を持つ人々のダレが観たいと思っているだろうか?
まあ、もちろんコドモ向け作品だし、特に視聴者の女の子(と大人になっても頭が女の子のママの人)を喜ばせたいというディズニー映画だから仕方ないと思いますが。
しかし、それでも、わたしは、原作のアリスを構成する要素の大きな部分は、女性は常に女性らしく、つまり机にのったものをつまみ食いなどしないし、どこでも礼儀ただしく『レディ』らしく振る舞うことを強要され、それが当然とされていた時代の常識であるのは確かだろうし、その中で、アリスが自分の心に従ってどのように行動するか、がひとつのミドコロであると思うのですよ。
なんか、このあたり、かつて、宮部みゆき氏が書いていた「時代ものも現代もわたしにとっては同じ」的発想が感じられるなぁ。
以前、別項で書きましたが、「お侍にはさからわない(さからえない)」「親方は神様」「狐狸妖怪は実在する」といった、幕末以前の人々が常識と考えていたことを全く無視して、町人がサムライに食ってかかるような時代設定のみを拝借したフンイキ江戸・ナイヨウ現代的時代劇は、やはりどこか間違っているとわたしは思うのです。
バイオもアリス、ワンダーランドもアリス
最近の「アリス」が主人公の映画って、ハズレが多いのかな?
いやいや、今は、DEGENERATIONの話の途中でした。
観てみて……
やっぱり内容は、ナカナカのモノでした。
押井監督の「アサルト・ガールズ」よりはるかに良いデキです。
なにより、女性兵士の武器操作に「腰が入っている」のがすばらしい(メイキングを見るとそれも当然であるのがわかります)。
ゲームと同じ顔、質感のキャラクタが、自分で操作せずに延々と動いてくれるんですから嬉しい限りです。
主人公レオンのアクションを観ていると、バイオハザード4の興奮が蘇りました。
「BIOHAZARD DEGENERATION」のデキがあまりに良かったので、勢いのままに、サワリだけやって、あとは長らく放ったらかしにしておいた「バイオハザード5」(PS3版)を一気にやってしまいました。
ここのところ、torneによる「地上デジタルテレビ放送録画専用機」と化していたPS3が、久しぶりにゲーム機としての機能を果たしたわけです。
ちなみに、なぜ放っておいたかというと、なんか、猛暑のアフリカを舞台にした埃(ほこり)っぽい映像が好きになれなかったからです。今夏は暑かったし……
しかし、やり始めると、途中からそんなことは気にならなくなりました。
戦闘場所自体が、湿地帯や地下基地など、アフリカっぽくなくなってくるからからです。
今回の相棒、ネイティブ・アフリカンの女性であるシェバの、アフリカン・ピープル特有のしなやかな動きも魅力的。
ご存じの方も多いでしょうか、「バイオハザード5」では「ウロボロス」という単語が重要な意味をもっています。
劇中(ゲーム中?)、全人類に、あるウィルスを仕込んで遺伝子情報を書き換え、強制進化させるという設定があるのですが、その進化したわずかな人間(ほとんどの人間は不適応によって死亡するか怪物化する)をウロボロスと呼んでいるのです。
だから、そのウィルスも、ウロボロス・ウィルスと呼称される。
まあ、「パーシージャクソンとオリンポス~」のゴーゴン(メドゥーサ)役で熱演したウマサマンよろしく、頭ならぬ全身から無数のヘビに似た触手を出して、くねらせるその姿は、まさしく、ヘビが自分のシッポを咬む図案の古代「ウロボロス紋章」を連想させるものなのですが、なんか、ちょっとその名前に違和感があるのですね。
そもそも、『ウロボロス』とは、脱皮をくり返す「生命力にあふれたヘビ」が、自らのシッポにかみつくというデザイン、つまり「永遠」を現しているといわれているからです。
木城ゆきと氏の「銃夢」においても、ウロボロス・トラップは、夢の中に精神を引き込んで、延々と「覚めない夢」をみさせる罠として使われていました。
そういえば、名作アニメ「赤毛のアン」のエンディング・テーマも「覚めない夢」でした。
あれをちょっとセンスをいれて英訳すれば、「ウロボロス・ドリーム」と呼ぶこともできるでしょう。
また、横道にそれました。
今回、書きたかったのは、DEGENERATIONに登場するヒロイン・赤い髪のクレアと、バイオ5におけるクレアの実兄クリスの相棒・黒髪のシェバ、そしてクリスのかつての相棒・金髪のジルが、すべてカッコイイ女性であるということです。
しかし、これは、あくまで男の文法(と呼ぶのが正しいかどうかはわかりませんが)から見た場合です。
悲劇にあって泣かず、恐怖にあって叫ばず、苦境にあって愚痴をいわず、常に事態を把握(はあく)して先を読み、相棒にとってのベストの行動をとる。
つまり、軍人としての訓練を受けた女性は(男から見て)カッコイイ。
しかし、これはあくまで男から見た場合です。
残念ながら、わたしは男ですので、女性の本当の気持ちはよくわらかないのですが、どうも、(女性の制作で女性に人気のある)映画、小説などから読み取る限り、こんな(一見)隷属的な関係は好きではないようです。
いわば、バイオ5に出てきた、製薬会社の美人エリート支部長エクセラ、ミニのスーツを颯爽と着こなして、肩で風を切って歩き、命令口調で人に話し、自分の権威と能力を誇示する(いや、それとなく見せている、と言いかえましょうか)タイプがより好ましいように見える。
表現を変えれば、アメリカのABCニュースなどでよくある、スタジオで、足と腕を組んでディスカッションをする女性タイプがカッコイイ。
しかし、あの足の組み方のステレオタイプさは、思わず笑ってしまいますね。
何人かが並んで座っていると、足の組み方、腕の組み方が「なにも全員同じにしなくても……」という、キメポーズの類型化ぶり!
おそらく、そういった指導がなされているのでしょうが、その極端な横ナラビ、全員同じさは、ちょっとみっともない気がします。
まあ、ゲーム中、エクセラは最後にウロボロス化して、巨大タンカーを沈没させるような怪物になってしまうのですが……
いずれにせよ、この連休に、数時間をかけて、一息にバイオ5のホンペンを終わらせましたが、その後で、胸に去来したのは、カッコイイ女性たちの清々しさでした。
もちろん、これは、わたしが男の目線でしか女性を評価できないからです。
だから、男として(の教育の過程で得た常識と世界観と行動規範)自分と同じような行動をとってくれる女性は、一緒にいて疲れないし、仕事の能率も上がると思ってしまう。
ああ、そうだ、今気づきました。
先のヒロインたちは、全員が一緒にいて疲れないタイプなのです。
いいかえれば、彼女たちは、いわゆるステレオタイプな女性らしさを直接、表に出さないタイプである。
蛇足ながら、ひとこと断っておきますが、女性が男の下でキビキビと働くのが、心地よかったのではありません。
個人的には、有能な女性の下で、彼女を信じて働けたらどれほど幸せだろうか、とよく考えます。
知識があり、決断力があり、人の心の動きを含めて、モノごとがよく見えている指導者に、男女の区別などないからです。
残念ながら、そういった男女に出逢ったことがないので、自分ひとりでやっているわけですが……
ただ、そういった指導者像すら、わたしの男性的文法イロメガネでみた型に過ぎません。
おそらく、女性の考える指導者、そして格好良さは、また違ったものなのでしょうから。
主に男性によって作られた(メイキングブルーレイとクレジットから)、バイオ5をプレイしながら、そんなことを考えました。
いずれ、女性によって企画、制作されるゲームが増えてくるでしょう。
現在の映画のように。
そうなれば、バイオ5のような展開のゲームは少なくなるのかもしれません。