さて、アバターですが……
この映画を、今後3D映画の主流となるであろう、
『ほら、これだけ飛び出させてみました、スゴイでしょう的あざとさのない、自然な奥行き感のある最初のメジャー・ヒット映画の嚆矢(こうし)』
というスタンスで捉えたり、
『どんだけキャメロン日本のアニメ好きなんや、あそこにラピュタ、ここにモノノケ、これはどう見ても腐海(漢字あってるかな)の描写じゃん、をを、とどめは「そのモノ~青き衣をまといて~」のナウシカだぁ』
的な類似性で捉えたり、
『3メーターのナヴィと1.8メーターのヒトとのサイズ比がチョー微妙。6メーターの大魔神では恐怖感があるし、18メーターのザクはちょっと現実味が薄かった。今回のナヴィ:ヒト比率で、これまでどうやってもデカかったシガニー・ウィーバーが、初めて可憐な少女のように小さく見えて感激!』
的な感情論で捉えたり、
『In the end、とどのつまり、ネット世界にジャックインして戦った「マトリクス」のネオの現実版でしょ』
的シニカルさで、斜(はす)に構えてみたりせず、
『一見ハッピーエンドっぽく見えるけど、後で、数十億単位の石コロをめざして、地球から膨大な科学兵器部隊が送り込まれるんじゃないの』
などとと心配するのはやめて、もうひとつ別な角度から見てみることにします。
それは、ナヴィとヒトのハイブリットタイプである「スカイピープル」ジェイク・サリーが、クローン牛ドリーのように生まれた時から老化が進んでいて、最後にナヴィに転送されたは良いけれど、たちまち死んでしまうのではないか、という、科学技術的切り口です……ウソ!
まあ、ご都合主義のハリウッド映画ですから、きっとサリーは、末永く幸せに暮らすのでしょう。
そいつはいい。
わたしが気になるのは、ナヴィたちが持つ、宗教観、死生観です。
多くのリピーターたちが、アバターで描かれる動植物一体となった『スピリチュアルな世界』に耽溺したくて映画館に通うともいわれていますが、実のところ、ナヴィたちの生活は、それほど『スピリチュアル』なものではないからです。
その様々な解釈はともかく、spiritualを辞書で引くと「精神的な。また、霊的な」とあります。
ストーリーを考えたのがキャメロンであり、ハリウッド映画であることを考えると、おそらく、ナヴィたちの『スピリチュアル』っぽい生活は、アメリカ人がネイティブ・アメリカンに対してもつモノから類推されたものだと考えられます。
「鳥、コヨーテ、みんな意思持っている。だから、気持ち伝わる。地面に落ちている石、手にしたら力がみなぎる」的な、ステレオタイプのスピリチュアリズムが、大元になっている。
しかし、ネイティブ・アメリカンいや、日本のアニミズムはじめ、原始宗教の多くは、世界に精霊を求めて、それを精神的に実体化します。
現実には存在しない精霊たちを、ある時は薬物を用い、ある時は永続するダンスなどによるトランス状態で、肌身に感じ、交信する。
実際には存在しないが故に、自己洞察は深くなり、やがては哲学に至るほど、深化されるのです。
しかし、ナヴィの生活にはそういった精神的な深さはない。
いや、あるのかも知れないが、それが、より深化する素地がないように思えるのですね。
たとえば、我々地球人は、死を恐れ、他者の死を悲しみます。
死ねばどうなるかわからないからです。
だからこそ、様々な哲学、宗教が生み出された。
しかし、ナヴィたちは、一般に、死をそれほど恐れない。
なぜなら、物理的に、「自分の精神」がより大きなモノ(エイワ)に吸収され生き続けることを知っているから。
サリーがナヴィの生活に馴染みつつある時に、一瞬写る、葬礼のシーンでも、そこにはいくばくかの寂しさは感じられても、悲しみはなかったように思います。
おそらく、彼らが恐れる死は「事故による突然死」なのでしょう。
あまりに早く肉体が滅んでしまえば、精神をエイワと一体化する時間がない。
要するに、彼らの宗教観、死生観は、すべて、全惑星精神ネットワーク・エイワによって自己がバックアップされる安心感に裏打ちされているのです。
だから、ヒロイン、ネイティリは部族長の父の突然死に号泣する。
彼の精神は、どこにも保存されず無に帰してしまったから。
ああ、おそらく、皆さんは何を長々と書いているのだ、と思われていることでしょう。
では、結論からいいます。
わたしは、この映画を観た人々が、アバターで描かれた、エイワ(永和?)を核とした『惑星レベルのネットワーク』に憧れることに弱冠の危惧を感じるのです。
より大きいモノに接続して、叡智を共有すれば孤独感もなくなる……
しかし、人類にある「孤独感」こそが、文明を発達させ、哲学を生み、深化させたことを考えれば、安易に精神を一本に束ね、記憶をそういったメガ(じゃないなヨタ)メモリバンクに保存することは、少なくとも地球人にとっては好ましくないと思うのです。
おそらくは、そう遠くない未来、全地球レベルでネットワーク化が推進され、ヒトは電脳化されて、あらゆる者が五感ごとネットワークにつながって、死亡する際には、ネットワークにその経験が吸収されるようになるといった出来事もあるのでしょう。
まさしく、パンドラ星の機械版ですね。
個人的には、あまり好ましくないとは思いますが、それはそれで仕方ない。
科学の進歩と歴史の流れは止められないものです。
現に、メールやブログやツイッターで、他者と緩やかに、常時接続したがる人々も激増しているのですから。
しかし、問題は、今のところ、そういった、自分自身を受け止めてくれ、叡智を与えてくれる『何か大きなモノ』、パンドラのエイワに成り代わるものが「強烈に尖った教義をもつカルト宗教」ではないかと、わたしは思っているからです。
パンドラ世界の荒々しい美しさに憧れ、エイワへの帰属を願いつつ、リピート鑑賞を繰り返す人々は、そういった「カルトモノ」に対する耐性が低いのではないか、と、まあ、これは、わたしの歪んで勝手な解釈と判断に過ぎないのですが、映画を観おわって、ふとそんな気がしてしまいました。
さしさわりがあるようでしたら、いつでも謝罪する用意はあります。
ごめんなさい。
p.s.
上でメガ→ヨタとしましたが、
一応書いておきます。括弧内は乗数。
10(6) メガ
10(9) ギガ
10(12) テラ
10(15) ペタ
10(18) エクサ
10(21) ゼタ
10(24) ヨタ