昨日、「完全復元伊能図 全国巡回フロア展」に行ってきました。
伊能忠敬が制作した日本地図を「原寸」で展示する催しです。
まずは、チラシからその主旨を引用してみましょう。
「2010年は、伊熊測量開始210年に当たります。
下総国佐原(現千葉県香取市)の商人・伊能忠敬は、49歳で隠居後、50歳のとき江戸に出て天文・暦学を修め、55歳の1800年から72歳の1817年まで17年かけて日本全国を実測し、正確で美しい日本地図を遺しました。
各地でウオーク日本1800や伊能忠敬ゆかりのウオークが計画・実施されています。
この催しとともに、伊能図の原寸大複製を作成し公開する「完全復元伊能図全国巡回フロア展」を各都道府県で開催することを企画しました。
いよいよ、待望の奈良で開催します。
伊能忠敬は1806年冬に四国の測量を終えて、冬に奈良を測量しました。これた「大和路測量」です。測量作業とともに寺社仏閣を巡っています。その即席を辿ってください。」
しかし、この伊能図『全』展示、さあ測量210年記念です、さっそく展示しましょう、といった簡単なものではありません。
なぜなら、幕府に提出されたものは明治6年の皇居炎上の際に焼失し、東京帝国大学に保管されていた伊能家控図についても、大正12年の関東大震災で焼失したからです。
よって、わたしが子供の頃は、そういった地図を作った人がいたよ、という史実と、縮小された複製地図だけが残っていただけだけでした。
それが、伊能大図、全214枚のうち、アメリカで207枚!が発見されたため、現代の写真技術を使うことで、伊能忠敬らが作成したものと同じ美しい地図が蘇りました。
ここで、注意しなければならないのは、およそ200年前に作られた地図の大きさです。
当時は、もちろん紙の地図で、現代のように、画面をフリップしたり、ピンチしたりして、移動、拡大・縮小ができるようなものではありません。
したがって、地図一枚一枚がデカい。なんせ実測図ですから。
これをもとに、より使いやすい伊能中図、伊能小図が作られたわけです。
写真でみれば分かるように、一枚が、およそ全紙(新聞紙見開き一枚)サイズ以上(実際は畳一畳)のサイズです。
それが、214枚ある。巨大ナリ。
展示会のタイトルに「フロア展」とあるのは、もちろんフロア展示するからなのですが、もうひとつ、その地図を床に敷いて、その上を歩き、直(じか)に伊能図を見ることができるという意味があります。
人々はこのように↓地図の上を歩き、ひざまずきながら興味ある土地を見ているのです。
展示物が巨大すぎて、普通の会場では展示できないため(と、おそらく費用を安くあげるため、アカデミックな催しであるため)に、展示会場には、各地の市や大学の体育館を充てているようです。
写真でみればわかるように、一見、ただの体育館で、特に何もない展示場です。
しかし、会場内を歩く人々の熱気は相当なものです。
皆、飽きずに地図に見入っています。おそらく、自分の住んでいる場所、生まれ故郷、出かけた場所が、200年前にはどうだったのか調べているのでしょう。
会場内には巨大なブリッジが造られ、その上から、巨大な日本地図を鳥瞰(ちょうかん)することができるようになっています。
しかし、こうやって見ると、日本って大きかったんだなぁ。
政治でも地理でも、すぐにアメリカやアフリカと比較するから小さく見えてしまう。
あの辺の土地って、無人の場所がほとんどの荒野なんだから、単純比較すること自体がおかしいんだけどなぁ。
地図の多くは、海岸沿いの正確な測量を心がけているため、日本中央部の峻険な山々は白く抜け落ちていますが、海岸線の正確さは驚くべきものです。
しかし、なにぶん200年前の地図です。
京田辺市やあきるの市などの「笑止な観光目当て造語土地名」あるいは「イメージ先行無理矢理ひらがな土地名」が無いのはもちろんのこと、意外に、現在、知らぬ者のない土地が地図上にない反面、無名な土地ながら、当時から記載されているものが多数あります。
北海道の多くの地名は、現在のように漢字を当てられず、カタカナのままであり、クナシリ島の測量の正確さは驚くべきものです。
さらに、会場内には、当時の測量道具や測量方法を記したパネルも展示されています。
その一つに、このようなものがありました↓。
伊能図が、実際に何年まで日本地図として使用されていたかを記した図です。
これから、昭和の初めまで伊能図が使われていたことがわかります。
まさに、国家百年の計。
この展示会は、今後もまだまだ日本全国を巡っていく予定のようです。
近くで催された時は、ぜひ行かれることをおススメします。