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ボーイミーツガール  ~崖の上のポニョ~

 十代の頃、わたしはギターを弾いていた(上手くはなかったが)。
 もちろん、自作曲ではなくコピーをしていたのだが、気に入った曲が少なくて困ったものだ。

 なぜなら、当時流行の歌も、今と変わらず恋愛、恋の曲しかなかったからだ。

 当時からヘンクツだったわたしは、世の中はアイトコイでできているのではなく、思想や政治、陰謀と策略で満ちあふれ、だからこそ歌にもそれが反映されるべきだと考えていたのだ(押井に似てるな。じゃあ、あの気持ちって近親憎悪?)。

 愚かなことだ。思想をヒトに押しつけるメッセージ・ソングが、もっと世の中に必要だと思っていたのだから。

 おそらく寂しくて、過剰な生命エネルギーをもてあましていたからであろうが、とにかく愛だの恋だのと歌う歌が好きではなかった。

 そもそも、歌にはその出自から政治と恋の二面性があったというのに。

 かつて吟遊詩人は、歌にのせて社会を憂い、為政者をいましめ、批判し、ジャーナリストとして各地を旅して情報を集め、広めたのだ。

 そして一方、シラノ・ド・ベルジュラックは、美しい恋の歌を、シャイな友人に変わって、自分の思い人に捧げた。

 現在のわたしはといえば、歌など恋の歌だけで充分、政治、思想的な歌などアブナイだけで一利なし、という考えに傾いている。

 少年が少女に出会い(BOY MEETS GIRL.)、子供が生まれなければ社会すら存続できないのだから。

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 遅まきながら「崖の上のポニョ」を観た。
 まったく情報を得ないまま、ただ漠然と考えていたのは、ミヤザキは「愛・地球博」の「サツキとメイの家」人気に気を良くして、またトトロ系の話を作ったのだな、ということだった。

 だが、違った。「ポニョ」は、自然に回帰する子供の話ではなく、「ラピュタ」と同じ流れに属する映画だった。

 「崖の上のポニョ」は、典型的なボーイミーツガールの映画(正確にいうと、ガールミーツボーイ)だったのだ。

 意識してか年齢のためか、宮崎監督は、物語に伏線も張らず、サイドストーリーも作らない、まっすぐな映画を作った。

 「恋は、障害があれば、その炎をいや増す」らしいが、それはオトナの恋のはなし。

 五歳の少年とサカナの恋に、余計な障害は必要ない。
 だからまっすぐなストーリーこそが似つかわしい。大正解だ。

 ストーリーに抑揚はなく、悪意は存在せず、優しさと愛情があふれる話。

 つまり、リアル感のない、寓話の世界。言い古されてちょっと恥ずかしいが、いわゆる「現代のおとぎばなし」が、ポニョの世界だ。

 不思議なサカナ(人面金魚?)のポニョは、親のもとを抜け出して、ヘドロとゴミで汚れた港町に流れ着き、少年と出会う。

 ガールミーツボーイ。そして幼い恋が芽生える。

 連れ戻された彼女は、少年に会いに再び港に戻ってくる。人間の少女の姿で。

 その時の激しい海のうねりと風、雨の描写は、なぜか郷愁をともなって迫ってくる。
 ドコカでみたような画、音楽、雰囲気……。

 あ、これって「ファンタジア」の「はげ山の一夜」にそっくりじゃないの。

 だが、もちろん時は流れている。

 さらなる技術の進化とジブリ的な感性で、ディズニーよりも遥かに豊かで大いなる海のうねりが丁寧に描かれるのだ。

 手塚治虫が生きていたら、さぞや喜び、悔しがったことだろう。

 不思議なはずの少女を、少年と彼の母は何事もなく受け入れる。

 少女の両親(魔法使い?妖精?)は海からその様子をみて言葉を交わす。

「もし、少年が、あの娘をありのまま好きになってくれたら、あの子は人間になれる」

 なんと、「崖の上のポニョ」は、アンデルセンを翻案したものだったのだ(カントク自身、明確な認識はなかったようだが)。

 人魚姫……

 翌日、出かけたまま戻らなかった母をさがしに、少年はポニョと、おもちゃのポンポン船(蒸気船)にのって外に出かける。

 これがいい。ポニョの魔法で巨大化したポンポン船(昔、よく夜店で売ってたなぁ)に乗って海原に乗り出す姿は、まるでお椀に乗って川下りをする一寸法師のようだ。

 ここでもこの映画の寓話性が良く出ている。

 昨夜の嵐で、村のあらかたは水没し、人々は船で避難所に向かっている。
 彼らは、母を捜しに行くポニョたちを見ても、別に心配もせず「気をつけて行くんだよ」と応援してくれるだけだ。

 少年の両親が、自分たちを名前で呼ばせていることに示されるように、ポニョでは一貫して子供をオトナとして扱っているのだ。

 すっかり嵐で洗われた港は、映画の冒頭で見せたヘドロやゴミが一掃され、魔法使いたちの登場もあって、古代魚の泳ぐ神秘の場所と化している。

 少年が親しくしていた介護施設の車椅子の老婆たちは、魔法使いたちに出会って、施設の庭を駆け回っている。

 少年の母は、そこでポニョの母親と話をしている。

 この時の二人の体の大小が良い。ポニョの母が、やたら大きいのだ。
 (神、あるいは精霊は大きくなければならない。これシンピロンのジョーシキアルネ)

 やがて、少年とポニョが施設にやってくる。そして……

 ポニョの両親についての明確な説明はない。

 だが、そのことに違和感はまるでない。

 なぜなら、これは寓話だから。

 まっすぐで優しいおとぎばなしだ。

 わかりやすい文章は、その中の文字がいくつか抜けていても、問題なく読むことができる。

 だから、この映画の説明不足は問題ではないのだ。

 その点が「スカイクロラ」とは異なる。
 あれはキーワードとなる単語がごっそりと抜け落ちている映画だった。

 で、その後ふたりはどうなったかって?

 おとぎばなしの結末は決まっている。

 少年は少女に出会い、少女は少年に出会い、そしてキスが交わされ、ふたりはいつまでも……




ポニョはまだサントラしか手に入りません。

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