【Book】 間瀬元朗 / イキガミ: 5: ヤングサンデーコミックス
藤沢周平の作品を読んで、胸を打たれるのは、主人公たちが常に腹をすかしていることだ。
江戸時代は、よほど裕福で暇な者以外は、町人であろうと武士であろうと、常に空腹を感じて生活していたらしい。
水戸黄門などの、いい加減な時代物TV番組(あれはあれで好きだが)に毒された現代人にはピンとこないかもしれないが、江戸や浪速の大都市ならともかく、地方の町のそこかしこに食べ物屋や夜泣き蕎麦があったはずがない。
冷蔵庫があるわけもないから、特に夏場なら、朝炊いた飯は、いちにち二日で食べ終わらなければならないし、まして独り者で外に出ることが多ければ、家に帰って食べるものがないことなど当たり前なのだ。
腹が減るとは突き詰めれば命の危険につながること---つまり逆説的に、そのことで彼らは否応なしに生きているということを実感していたのだった。
だが、医学の発達と平和、経済的繁栄(他の多くの諸外国に比べて)、そして家の機能の外部委託化(レストランやコンビニエンス・ストアの発達)のおかげで、空腹と死が日常生活から遠ざけられた結果、現代日本の若者たちは死を意識することが少なくなった。
だったら、と多くの作家は考える(なんせ生きるというのは、モノカキの一大テーマだから)。
突然の死が訪れたら、若者はどう考え行動するだろうか。
死と違い、生とは曖昧模糊(アイマイモコ)とした概念だ。
昔、子供相談室で、無着成恭が「生きるってどういうこと」と聞かれて、即座に「ご飯を食べて、おしっこやうんこを出すことだよ」と答えたのに唸らされたことがあるが、それは事実だ。
つけ加えれば、自身の遺伝子を残すこと、そして、そのための行為をすること、というのも入るとは思うが、「食べて出すこと」が生きることなのは間違いない。
だが、普通の人はそんな風には考えない。生活の上で嫌なことや嬉しいことが、辛いこと楽しいことが波状的にやってくるからだ。
食べること(あるいは出すこと)を「喜び」と感じられなければ、生きる、あるいは生きている、という実感がわきにくくなる。
だったら、「生きる」ということを考えるために、それを際だたせるためにはどうすればよいのか?
(コミック)作家を含め、ほとんどの人は、生は死の反対のものであると考えているだろうから、生というものをはっきりと意識させるために、突然の「死」を突きつけて、その反応を導きだし、結果、生を浮き彫りにしようと考えたのだ(わたし個人としては、死は生の一部と考えているが)。
それが「バトルロワイアル」であり「フリージア」であり、ちょっとひねくれると「愛人(アイレン)」であり、今回とりあげた「イキガミ」なのだ。
イメージ 1
イキガミは、国家繁栄のために、確率的に何パーセントかの若者を「間引く」法律が制定された平行宇宙、あるいは近未来世界の話だ。
死の二十四時間前に、役所から逝紙(イキガミ)という、太平洋戦争時の召集令状、通称赤紙(アカガミ)を模した通知書が届く。
物語は、通知作業を行う公務員を狂言回しに、イキガミを受け取った若者の様々な反応を通じて、つまり、死という刷毛(ハケ)で、その若者にまとわりつく様々な不純物を払って、彼自身の生そのものを浮き彫りにしようとする。
ある若者は、かつて自分をいじめた者に復讐し(もちろん、そのような行いをするものには、残された家族に激しいペナルティがある)、ある女性は、帰宅途中の愛する男の姿をひとめ見るために、違法の延命ドラッグを飲み過ぎて、かえって寿命を縮めてしまう。
全体としては、よく練られた話であるし、何も不足はないのだが、暗すぎて、わたしには合わなかったなぁ。
死をもって生を浮き彫りにするのは常套手段ではあるが、生は必ずしも死によってのみ浮き立たせられるものではない。
生を生として輝かせる方法が個人的には好きなのだ。
まあ、甘いといえばその通りだが。
「生は暗く 死もまた暗い」
マーラーの「大地の歌」の歌詞どおりに諦観するには、わたしはまだ若いようだ。
イベント(生ぬるい現実への気つけ薬)としての死は劇薬すぎる。
だからこそ、連続で飲まされたら胸焼けがしてしまうのだ。
それに、そういった対比手法は、ちょっと安直易な気もするしね。
あと、キャッチフレーズの「死んだつもりで生きてみろ」は、ちょっと違うって感じがするな。
結局死んじゃうんだしさ。
「イキガミ」たしか、映画になるんだよね。
観たい人は観ればいいんじゃないかな。
邦画の作り手の感性にはぴったり合っていると思うし、関西で食べるうどんに大ハズレがないように、そこそこの作品には仕上がると思うから。