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ぼろぼろな矜持(プライド)

 このブログを定期的に読んでくださっている方ならご存じでしょうが、わたしの座右の銘は、公式サイトにもあるようにジョージ・ウッドンの

「明日死ぬと思って生きろ 永遠に生きると思って学べ」

なのですが、実は、もうひとつ隠れ銘?もあるのです。

 それは、

「できるヤツはやる できないヤツは教える」

です。

 説明は不要でしょう。

 読んでそのままです。

 ガッコーのセンセーは、その典型ですね。

 だからこそ、「ヒトは教えるのではなく、やらねばならない」、そう思って生きてはいますが、稼ぐためには、知らぬ間に、教えることが多くなって愕然としてしまいます。

 いや、そこで止まっていたら話は先にすすまない。

 しつこいことに、わたしには、さらにもうひとつ、今回のテーマでもある「第三の選択」、じゃなくて「第三の座右の銘」があるのです。

 それは、第二の銘の変形とも呼べるものですが、

「できるヤツはすぐやる できないヤツはもったいぶる」

というものです。

 音楽に関係する仕事をしていると、自称歌手というヒトによく出会いますが、彼らは、その態度によって、きっちりと二分されるのですね。

 それは、酒を飲んだりして、座が盛り上がり、歌おうぜ、と誰かが言い出した時に、すぐに、楽しく歌い始めるタイプと、

「オレは、ワタシは、歌手だから、こんな座興では歌わない」

と勿体つけるタイプです。

 個人的につきあいのある、ジャズ・コーラスグループ「タイムファイブ」の田井康夫氏は典型的な前者で、何年か前の年末に、一週間ばかり氏の自宅でお世話になったおり、興がのると、夜中であろうが翌日仕事があろうが、すぐにミニ・コンサートが始まったものでした。

 著名な歌手でも、カラオケ好きで、マイクを持ったら、自分の曲ではなく他人(ひと)の曲を歌いまくるという人も結構多い。

 しかし、それとは反対に、勿体つける人も、ずいぶん多い。

 比率では、こっちの方が多いかな?

 でもって、圧倒的にヘタクソが多い。

 クラシック歌手などでも、素人ほど「喉の用意ができてない」とか、「こんなところでは歌えない」などとノタマイますね。

 いったい誰が、彼、彼女たちに勿体つけることを教えたのでしょうか?

 経験からいって「本当に歌えるヒト」は、ほとんど勿体ぶりません。

 大したことない人間ほど、勿体をつける。

 確かに、著名な歌手にも、勿体つけるヒトはいます。

 まあ、そういった人々の傾向を見ていると、若い頃、金に苦労しすぎて、売れた後でも、少しでも高く自分を売ろうとするクセの抜けない演歌歌手やジャズ歌手に多いような気がしますねぇ。

 皆さんのまわりにも、そんな、「大したことないのに勘違い勿体つけするヒト」っていませんか?

 さて、なぜ、突然、こんなことを書き出したのか?

 それは、昨日、日本におけるカストラートとも呼ばれる声楽家(ソプラニスタ)岡本知高氏が、本家カストラートを知るためにイタリアを旅する番組を観たからです。

 岡本氏は、男声でありながら女性ソプラノの声域を持つ「ソプラニスタ」と呼ばれる世界的にも珍しい男声ソプラノ歌手です。

 一方、カストラートとは、映画「カストラート」でも知られる通り、ボーイソプラノの声を保つために、声変わりする前に去勢して、さらに声楽の研鑽(けんさん)をつんだ男声歌手の総称です。

 もちろん、現在では一人も存在していません。

 男声の筋肉と肺活量を持ち、声帯は女性という、歌手としてはある意味理想的なカストラートは、言いかえれば、歌うことしかできない特化された生き物でした。

 岡本氏は、自身の声がカストラートに似ていることから、彼らに興味を持ち、今回の取材旅行を機に、本場でカストラート特有の歌唱法を学ぼうと、イタリア・ナポリに出かけたのです。

 この、氏の行動が楽しい。

 彼は典型的な「歌える人」です。

 ナポリの街を歩きながら、石造りの建物が、ちょっとホール状になっていると、突然歌を歌い出す。

 あるいは、食事に入った店で、店のオヤジが、ピザを回しながらイタリア語で「フニクリフニクラ」を歌い始めると、いきなりそれに合わせて歌い出す。

 歌の好きなナポリの人々は、それを聞いてヤンヤの喝采です。

 プロとして、声楽家としてコンサートを開いている岡本氏の行動に、勿体(もったい)ぶったところはひとつもありません。

 もちろん、それは、旅する場所が、歌曲の本場ナポリだから、ということもあるでしょうが、それだけではないことは観ていて伝わってきます。

 彼は「歌える人」であり、「歌うことが楽しくて仕方がない」のです。

 翻(ひるがえ)って、我々が、自分の行動を思い返すとどうでしょう。

 なけなしの技術、知識、能力に、つまらぬ勿体をつけてはいないでしょうか?

 そりゃ、もちろん、(自称)歌手やピアノ弾きは、こんなふうにいうかもしれない。

「勿体つけているんじゃない、そう見えるかもしれないけれど、ちょっと自信がないから人前ですぐに披露できないだけ」

 それが、勿体つけてる、ということなんだよ。

 だれも、我々やアナタゴトキが、チョー素晴らしい歌唱、演奏をし、聞いたことのない知識を披露するなんて期待してないよ。

 だからさ、やめようよ、勿体つけるのは。

「態度があんまり生意気すぎるぢやないか

      ヒトサマに失礼すぎるぢゃないか

  人間よ、もう止(よ)せ、こんなことは」

 などと、番組を観ていて思ったということでした。

ミッキーが危ない!「相撲賭博問題に勝手に思う」

 誰もがご存じ、あの世界的エンターティナーが世に姿をあらわしたとされるのは、1928年!、ひとりの夢想家が「蒸気船ウイリー」というモノクロ・トーキーアニメを作った時です。

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 声優を雇う予算のなかった、というか、そういうシステムすらできていなかった当時(世界初の音楽と声のシンクロアニメ)であったので、ウイリーに乗っているネズミの声は、当然、その作者ウォルト・ディズニーが吹き替えました。

 妙に裏返った、オカシナ声で。

 しかし、オリジナルはオリジナル。

 以来、爆発的人気を博すようになっても、世界一有名なネズミ、ミッキーマウスの声は、ウォルトの裏声に似せたものであり続けています。

 わたしは、以前、ファンタジアのリバイバル上映があった時、上映後の映画館の外で、高校生らしき少年が「ミッキーの声、めっちゃショックや」と歎いているのを聞いて、吹き出したことがありました。

 いやいや、いま、わたしが書きたかったのは、かの著名ジェントルマン・ミッキーのことではありません。

 もっとせっぱ詰まった状態のミッキー、徳俵に足の指をくいこませ、なんとか踏ん張ろうとしたものの、結局「土俵をわってしまった」ミッキーのことです。

 そう、大関コト・ミッキーです。

 わたしは、ゴシップ番組は、あまり見ないのですが、ニュースなどで、ちらっと写る彼の表情は、つねに無表情です。

 怒っているわけではなく、悲しんでいるわけでもない。

 その心中はともかく、外見は、ちょっと困惑している、という感じなのですね。

 このミッキーは……

 まあ、わたしは、相撲界に関しては、それほどの知識も見識も関心も持たないので、この件について、あまり深く書くことはできませんし、しません。

 が!

 ある、相撲記者クラブのジューチンと称する老人が、某番組で、

「名古屋場所はともかく開かなければならない。NHKが実況放送するかどうかは、局が決めればよいだけだが、この連綿と続く伝統はとぎれさせてはならないのだ」

というのを聞いて、ひどい違和感を感じてしまい、かつ憤りを感じたので、ちょっと書くことにました。

 明らかに、この老人は間違っている。

 彼は、相撲に関してドシロウトであるわたしすら知っている、江戸時代に、相撲取りをさしていった、

「一年を十日で過ごすよい男」

という川柳を知らないのだろうか?

 江戸時代の本場所は、長らく、年に10日に過ぎなかったのだ。

 このご老体、まさか、「連綿」というのを、たかだが戦後60年をさしていっているんじゃないだろうねぇ。

 かの田力男(タジカラオ)が、天照大神(アマテラスオオミカミ)が閉じんとする天の岩戸をこじ開けた時から「力強き男」がもてはやされ、それが神事となり、相撲へと引き継がれた……のは良いとして、上で書いたように、江戸時代は、一年10日しか相撲はとられなかったはず。

 神事としての相撲を持ち上げるのならともかく、「格闘技」としてのスモウを「連綿」ウンヌンで語るのは笑止にすぎない。

 現実問題として、現在のように、ほぼ2ヶ月おきに開催するようになったのは、「財団法人」日本相撲協会のゼニもうけの都合からでしょう。

 それと一部の老人ファンのため(非難は覚悟)。

 最近では広く知られるようになりましたが、「国技」というのも、明治に出来た本場所会場が「国技館」と命名されたから、「そこでやるんなら国技でしょう」という理由だけで称しているだけなのですから。

 このへんは、高橋秀実氏の「おすもうさん」↓に詳しいのですが、

http://web.soshisha.com/archives/sumo/2006_0511.php

少し引用させていただくと、

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 歴史書を探ってみると、そのほとんどが、昭和15年発行の『相撲道綜鑑』(彦山光三著、國民體力協會)を参照していた。

「相撲は、肇國(てうこく)以来、日本の國技である」という書き出しで始まる権威ある文献なのだが、そこにはなぜかこう記されていた。

 何ゆゑ、相撲は肇國以来、日本の國技であるか、いかにして、相撲は、肇國以来、日本の國技とせられたか。相撲に関する傳・論・解等の文献は、古来、決して尠少(せんしょう)とはいへない。しかし、遺憾ながらこの點を闡示(せんじ)したものは一つもない。

 国技である証拠はどこにもないというのである。それなのに、どうして「相撲は日本の国技」だと言い切れるのだろうか。同書はこう続く。
 

 この語[「國技」]が、一般的になったのは、明治四十二年「國技館」が新建された當事(とうじ)からである。

 日本ではそれまで「国技」という言葉がほとんど使われていなかったらしいが、明治42年、両国に「國技館」という相撲常設館が建設されてから、相撲は「國技」と呼ばれるようになったというのである。ではなぜ、その相撲常設館に「國技館」という名前が付いたのだろうか。相撲教習所の教科書『相撲の歴史』(竹内誠著、財団法人日本相撲協会)はこのあたりの事情を簡潔に説明している。

 国技館の命名
 一万人余を収容するこの常設館の名称は、当初、板垣退助が主張した尚武館という案もあったが、結局、右の完成案内状に「角力は日本の国技」と江見水蔭が書いたことから、国技館と命名された。

 完成案内状に「国技」と書いてあったから、国技館にしたというのである。建物の完成案内状を見て、そこから名前を決めるというのは本末転倒ではあるまいか。その案内状(「大角力常設館完成?初興行御披露?」)は現在、相撲博物館に展示されている。薄茶けた一枚の紙。その文中には、「事新しく申し上ぐるも如何なれど、抑も角力は日本の國技」と大きな活字で書かれている。「其國技の活字を他よりも大に組ませたるを、尾車が見て國技館と提案、それを常陸山が賛成して」(枡岡智・花坂吉兵衛共著『相撲講本』昭和10年)、國技館という名前が決まったらしい。

 事の経緯を整理すると、まず相撲常設館が建設された。たまたまその完成案内状に「国技」と大きな字で書いてあった。だから「国技館」と名付け、そう名付けたから、相撲は「国技」になったというわけなのである。

 偶然と言うべきか。それともいい加減なのか。先述の相撲関係者も「あくまで先輩に聞いた話ですが」と断った上で、こう明かす。

 「国技館が出来た時、その名前をどう付けようかとみんな悩んだらしいんです。それで偉い先生にお任せしたらしいんですね。そしたら先生が『國技館』って書かれたわけです。それで、国技か、ということになったんです」
 ──それだけのことで国技になったんですか?
 「そうなんです。要するに、看板に『國技館』と書いたから相撲は国技になったんです。その時、国技館という名前じゃなかったら相撲は国技になっていないと思います」

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 どうです、いい話でしょう?

 と、まあ、相撲は「神事」ではあるとわたしは思いますが、コクギでもなんでもないのは確かなので、この際、税制の優遇措置を返上して、力士へ流れるカネを少なくすることを提案したいですね。

 一罰百戒、コトミッキーを含む数人を厳罰にして、今の既得権益を残したまま、うやむやにしようなどという、体格に似合わない小せぇことを考えずに。

 法人を返上し、ただの格闘技団体になって、役員以上を総入れ替えして、ミッキーを含め、下は厳重注意のまま維持そして監視したら良いと思いますがねぇ。

 現役横綱も部屋内でバクチしてたんだしさ。

「予測市場」とアキレスと亀

 みなさんは、おそらく「アキレスと亀」という話をご存じでしょう。

 ビートたけしの映画の話ではありません。

 いわゆる「ゼノンの(運動)パラドックス」と呼ばれるアレです。

 「いわずもがな」の寓話?ですが一応書いておくと……

 足の速いアキレスと、ノロマな亀が競争をした。

 亀は、ハンデとして、アキレスより進んだ地点(地点α)から出発する権利を得た。

 二人は同時にスタートする。

 アキレスが、亀のスタートした地点αに到着した時、亀は、アキレスがそこに到着するまでにかかった時間だけ、アキレスより先に進んでいる(地点β)。

 次にアキレスがβまで進むと、亀はアキレスがα→βまでかかった時間分、アキレスより先に進んでいる(地点γ)。

 アキレスがγまで進むと、さらに亀はその先を進んでいる。

 この考えは、際限なくくり返し進めることができるため、足の速いアキレスは、いつまでたっても、ノロマな亀に追いつくことはできない。

 これは、もちろん詭弁です。

 このパラドックス寓話の面白い点は、いや巧妙な点は、結論が「いかにもアンリアル」なものであるにも関わらず、それを導く過程が、「いかにも論理的で正しく」見えることなのです。

 なぜ、こんな話を書いたかというと、先日、「新しい世論調査の方法」として「選挙における予測市場」というモノがあるということを聞いたからです。

 それは、参加者が「仮想の株式(バーチャル・トレード)を取引することによって、市場を予測するという考えに基づいたものです。

 その例として、某大学准教授という人物が、持ち出した典型例が以下です。

1.明日雨天になる場合に「100円を受け取れる」証券(チケット)を売り出す。
  これはつまり、「晴れれば紙くず(0円)になるチケット」ですね。

 実際に現実のカネで売り出すのではなく、「ネット上のゲーム」として、参加することで手に入る「仮想マネー」を使って、ゲーム内で売り買いするということです。 

2.参加者は、現在の価格が自分の予想より安ければ買う、高ければ売る。

 つまり、明日、雨になるだろうという天気予報をみたり、ゲタを投げたりして、明日が雨になる確率が高そうだと思う時、ネット市場にチケットが60円で売られていたら、40円の儲けになるから、それを買うということです。ゲームは「儲けること」が目的ですから。

 逆に、明らかに明日晴れると思うなら、紙くずになる前に、30円でも良いから売ってしまうに違いない。

3.その結果の「取引価格」を「雨天になる確率」として扱う。

 つまり、皆が「明日雨になる」と考えるなら、チケットの値段は限りなく雨の時に換金される100円に近くなるし、「晴れる」と考えるなら、晴れの時のチケット価格0円に近くなるだろう。

 つまり、最終的な、そのチケット価格0-100円が、降雨確率0-100%に対応すると考えるわけです。

 チケットの最終価格が60円なら、明日の降雨確率は60%というわけです。

 どうです?なんとなく、ゼノン的パラドックスを感じませんか?

 こういった「全てをゼニカネのやりとりに帰結させる」という思考は、いかにも拝金主義者の米経済学者が考えそうな感じがしますが、実際に、20年ほど前から、アメリカの「実験経済学」の研究者によって進化させられてきた考え方だそうです。

 実際に普及しだしたのは、例によって、インターネットの普及にともなってのことだそうですが、近年、アメリカではポピュラーな手法になりつつありそうです。

 その准教授は、対象と方法を選びさえすれば、かなり正確な予測値を得られると胸をはりますが、上の例では、いかにも例えが悪いような気がしますね。

 天気は、純粋に物理的な、いや自然現象的なものです。

 人によって動かしがたいところがある。

 実際には自然現象でなく、「選挙でどの政党が勝つか」や「アカデミー賞は、どの映画がなに部門をとるか」といった、人の思惑(おもわく)で決まる出来事の予測に力を発揮するそうです。

 ある事柄について(たとえば、次の選挙でどの政党が勝つか?など)、予測市場(以下で説明)をたてて、そこで売買される証券の最終価格をもって、確率とする。

【予測市場】
 問題の顛末(てんまつ)を価値に連動させた証券を取引する市場

 つまり、仮想市場で、ある政党が勝つなら100円もらえて、負けたらタダになるような金券を発行し、自由に売り買いさせて、その金券の最終価格をもって、その政党の勝利パーセントとする(ひどく簡略化させていますが)ということです。

 これの長所は、昨今、勝間氏などもよく言及するネット上の「集合知」を使うことができる点です。

 いわゆる、どこかの本のタイトルにもあった「みんなの意見は案外正しい」という考えですね。

 白亜の研究者による専門知識より、一般人の感覚、あるいは市井(しせい)の在野(ざいや)研究者の知識の方が正しいことがある、という考えですね。

 ボトムズによるワイズマンというところですか?
 あるいはガサラキにおける「超高度な謎の知的生命体10億体」かな?

 面白いのは、この場合の「集合知」が、ウィキペディアのような、知識の静的(スタティック)な寄せ集めである「ストック知」ではなく、時々刻々変化する動的(ダイナミック)な「フロー知」であるということです。

 静的知なら、かなり固定的ですが、動的知なら、その時のキブン、雰囲気、マスコミのミスリードで、次々と価格が変わることがある。

 ありきたりな言い方をすれば、時代の空気を読んだ結果になる、ということです。

 もっとも、個人的な感触としては、これには懐疑的です。

 上記にある「問題の顛末を価値に連動させた証券」をうまく発行するためには、その「問題の顛末(てんまつ)」が、「明日、雨か晴れか」などの単純なものならともかく、複雑なものであればあるほど、予測市場をたてる側の「問題の簡略化」に高度なセンスを要求するだろうというのが第一。

 それほどの才能があるのかなぁ。

 そして、第二として、ヒトの寄せ集めである「集合知」には、為(ため)にする意思、特定の政党・人物に悪意を持った個人、ただ面白ければ良いという、愉快犯(間違った使い方)的個人も多く存在し、そういった一握りの人々のアジテーション(扇動)によって、市場価格が変わってしまうことがあると思うからです。

 某教授によれば、そういった「悪意をもった個人」による価格操作までをも含め、現実的には正確な数値が出るというのですが、本当なのでしょうか?

 いわゆる「数学におけるリミット無限大」、限りなくサンプル数を増やしていけば、そういった個人の思惑は、許容誤差として処理できるようになるかもしれません。

 しかし、少なくとも、現時点での、ネット上かつ仮想ゲームの中での、少ない(5000人程度だそうです)参加人数におけるマネー・ゲームによる予測市場は、あまり信頼できないとわたしは思います。

 今後、もっと、人々に集合知の意義と意味が広く認知され、悪意あるアジテーションが影を潜め、主催者側が、センス良く予測市場をたてることができれば、あるいはツカエルようになるかもしれませんが……無理でしょうねぇ。

 グレシャムのいうように「悪貨は良貨を駆逐」し、大衆は低いレベルで一定となってしまうでしょうから。

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