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中国についての個人的感想

 以前に「上海万博にからめて中国について書く」などと、このブログで公言したのですが、世はおしなべてサッカー・ワールドカップ一色(特に日本はね)で、時期を逸した感も強いため、万博抜きで、現在の中国についてのわたしの感想を書くことにします。

 沖縄の米軍問題で、しばしば話題にされた「米軍のヨクシリョク」という言葉、その大部分は「北朝鮮」を指すのでしょうが、残りは中国を指していると考えられます。

 確かに巨大な人口(13億人)を持ち、それを背景に急成長する経済力、おまけに過去の経緯からの日本との確執を考えれば、気にしない方が楽観的過ぎるでしょう。

 自国のすぐ側に「一党独裁の国家」があることを危ぶむ気持ちも分かる。

北朝鮮と同様、国から押し付けられた思想、価値観で、世界のスタンダードとは違った行動をとることもあるかもしれない。

しかし、極言すれば、そもそも、現在、世界標準となっている、「個人尊重」「主権在民」すら国によって、知らぬ間に押し付けられたものではないのでしょうか。

年配の方にとっては、終戦直後の、教科書の多くを墨(墨)で塗り潰すという衝撃を覚えているひともおられるでしょうが、そういった人々は今では少数派になりつつある。

「歴史を真剣に学んだことのない」「感覚として主権在民を理解できない若い世代」にとっては、「自分の知らない間に成立していた民主主義」をとにかく与えられ、「自明のものとして使っている」のにすぎないのです。

 それに、世の中には「衆愚政治より賢帝独裁を望む」人々も存在するのですから。

 何が正しいかは、これからの歴史が証明するのかもしれない。

 個人的には、「突然」とんでもない方向に行く可能性がある賢帝政治(6代将軍綱吉や暴君ネロなどの歴史が証明:君子は豹変するモノ{間違った用法のほう}ですから)より、愚かなりに動きの「鈍重」な衆愚政治の方がマシだと考えています。

 いずれにせよ、現在の世界経済は、中国抜きで考えられなくなっている。

特定のイデオロギーで、闇雲に中国脅威論を振りかざしても、日本にメリットはない。
偶然ながら近隣に存在し、歴史的に影響を受け、戦争や一時的支配などの経緯があったにせよ、もはや中国を抜きにして、日本だけでなく世界経済すら考えられなくなっているのは事実なのです。

 願わくば、現在の独裁形態から、世界標準の政治形態に、うまくソフト・ランディングしてもらいたいものです。

 おそらく、世界の首脳だけでなく、中国の指導者たちさえも、そう考えているはずでしょうから。

 もちろん、自分たちが持つ「既得権」はそのままにしてね。

 しかし、そのためには問題も多い。

 ここで、ちょっと脱線して……

 わたしはいつも不思議に思うのですが、日本のメディア、学者等オエライ方々は、どうして外国と比べて日本を卑下しようとするのでしょうか?

 いまだに敗戦時、自己反省キブンが抜けていない?

 どこの国でも問題はあるのです。それに目をつぶり、日本をコキおろし、外国を賞賛する……なんだかね。

 失礼ながら、わたしには、オタメゴカシの福祉の好きな人々(反論は覚悟)が、こぞってホクオーの国々を、バラ色の楽園のように賞賛するのがわからない。

 人口が二桁違う国、GDPが3000億ドルと4兆3500億ドルの国を単純比較する愚をなぜ犯すのか?

 それと同様、今、マスメディア始め、学者サンたちは「ライジング中国」、中国の勢いを、こぞって持ち上げすぎているような気がしてならないのです。

 労働人口が多く(これが怪しいということは「老いて行くアジア」で書きました)、賃金が安く(これが今、大問題になっています:後述)、同時に購買人口も多い、これじゃ老人揃いの日本が対抗できるわけがない、とね。

 まあ、逆に、何のイデオロギーなのか、何かイベントがある度に「中国没落論」を振りかざす御用(誰のだ?)学者も何人かはいますが……

 曰く、
 オリンピック後に中国経済破綻!
 万博後に中国壊滅!
とね。根拠もなく、叫ぶ人の頭がどうなっているのか観てみたいなぁ。

 また、そういった人物に限ってミョーに世渡りがうまく、地上波テレビの奥様番組などに出て歪んだ思想を吹きまくるから始末におえない……

 いかんいかん、また脱線を。

 要するに、わたしは、そういった中国を持ち上げすぎることも、過度に悪く見ることも、ともに公正さにかけるように思うのです。

 国も人と同じで、良いところもあれば悪いところもある。

 中国が、いまだ登り調子であることは間違いがない。

 しかし同時に、中国が、危険な芽を数多く内包し、指導者たちが、それを微妙(本当の意味のビミョーね。辞書をみてください)にコントロールしつつ、かなりきわどい綱渡りをしているのも事実なのです。

 何から書きましょう。

 そう、たとえば、自動車メーカー。

かつて、独自の自動車メーカーを持っていた中国が、現在、ほとんどその活動を停止し、こぞって外国の部品メーカーに成り下がっている。

 かつて、政府がつぶそうとしていた民間自動車メーカーがだけがかろうじて自動車を作ろうとしているだけです。

 低い人件費を背景にした部品作りのほうが、まとまったモノを作るより「安易」に億元長者になれるからです。

 先のビジョンではなく、まず目先の金儲けに走っている。

 まあ、日本の高度経済成長もそうでした。
 
 しかし、それをすると、様々な問題が後に露呈してくるのです。

 中国には、日本の轍(てつ)を踏んで欲しくない。

 ヒトは、どこの国の人間であろうと、公害などで苦しむべきではないからです。

かつて鄧小平が「豊かになれる者からなれ」と叫び、経済化を推し進めた結果、かつての日本同様、中国でも社会のひずみが生じてきました。

なかんずく製造業に問題がでた。

企業倫理をコントロールできず、つまり儲け優先で余計なコトに金をかけたくないと、企業トップが考えた結果、公害が発生し、現場の労働者たちの賃金は抑えられた。

「国進民退(こくしんみんたい)」と中国では呼ぶそうです。

 「国が栄え、民が貧しさにあえぐ」

 上で、中国首脳達は「微妙」なコントロールで、国を運営している、と書きました。

  今の中国は、毎年1000万人の新規雇用を生み出さなければならないのです。

だから毎年必ず8パーセントの経済成長を達成せねばならず、そのために公共投資を行わなければならない。

結果、格差が広がるという悪循環に陥っている。

すでに、企業や金持たちが、投資目当てで、都会の土地を買いあさる、「土地バブル」が深刻になり、いまや一般人は、北京市内に家を持てなくなってしまいました。

 どこかで聞いた話ですがねぇ。

上海万博が始まった当時の中国では(おそらく今もそうなのですが)、「個人消費がない」ことが大きい問題だったといわれています。

個人を中心とした金の流れが国内に作られない。だから、トップダウンの「公共投資」で無理やり資金を流れさせる。

 しかし、それは大企業などにカネが流れるだけで、草の根にまで行き渡らない。

 よって、さらに格差が広がる。

そもそも胡錦濤氏が主席になった時(2002年だったかな)、彼は「和解社会」というスローガンを掲げて登場したのです。

彼は格差是正を望んでいた。

具体的にいえば、「国のインフラ整備」と「年金の充実」を行うのが彼のテーマだった。

しかし、現実は理想どおりにはいかない

国民の間には低賃金に対する苦情が、富める者と貧し者の間には、摩擦と軋轢(あつれき)が生じている。

 先日、外国の不満を緩和するのと内需の拡大のために、固定相場制である人民元に、弾力的切り上げを行うと発表したのもそのためです。

 さらに、労働者の不平の高まりは、ついに中国国内でストを多発するようになりました。

 そのために、部品がなくなり日本の中国工場が稼働停止になっています。

 余談ですが、昨今、引き下げが取りざたされる法人税について、金儲けに走り過ぎて悪相になってしまった経団連会長あたりが、このままだと「法人税の安い国外に出て行くことになる」と国を脅していますね。

 以前から、あれについては不思議で仕方がありませんでした。

 だって、それは、会社・工場をどこの国に設置するかを、ゼニカネの観点、法人税によってのみ決める、と宣言しているということでしょう?

 オエライ企業トップが……?

 会社をどこに置くかは、カネだけの問題ではないでしょう。

 そんな拝金思想だからダメなんだよ。

 その国の安定度、治安の良さ、そして、その国との信頼関係をどの程度培うか、という点からも考えないとならないはずです。

(一時的に)安い労働力が手に入るからといって、ストが多発する国に、会社・工場を持っていっても意味がないでしょう?

 ヤクザまがいに、国を脅すケーダンレンのじいさんたちの顔を見る度、「出て行きたいなら出て行って、私設軍隊で守らせろよ!」と叫びたくなってしまいます。

 いや、今は中国の話でした。

 現在、中国国内には不満が溜まりつつある。

 万博開催時の、数ヶ月前もそうでした。

 興味深いのは、中国が、それらをおさえるために「国家の犬」を飼っていることです。

 その名も「ケルベロス!」(ウソ、ウソです)

 驚くのは、そのための予算が国防費と同程度だということです(こっちはホント)。

「穏維(おんい)のコスト」

 つまり治安維持のコストが、「警察」および「ガードマンから引き抜いた第二の警察」にかかる予算とほぼ同じ。

 第二の警察官たちは、やたらと威張り散らすために「二匹目の犬」と呼ばれ、嫌われているそうです。

 わかりますか?

 中国は、国民の不平を抑えるために、国防予算なみの資金を使っているというわけですよ。

 さらにその資金は、騒いだ人間に金を渡して、騒動を沈静化させるためにも使われているといわれています。

 Google撤退でしばらく話題となった、インターネット関連の情報統制にも金がかかります。

 中国には「ネット評論員」とよばれる人々がいて、上海万博に限らず、国家寄りの情報を書き込むことで、政府から金をもらうことができる(一回五角『一元の半分』)といわれているのです。

 先日、日本は、中国に対するビザの発行対象を、富裕層から中間層にまで引き下げました。
 (実施は七月から。実験的に一年のみ限定)

 これによって、日本に観光に来る中国の人々も増えることでしょう。

 彼らが、日本にやってきて、よく買う物をご存じですか?

 テレビ?コンピュータ?ウォークマン?違います。
 
 ご存じの方もおられるでしょう。

 彼らは、電気街や空港の免税店で、高給炊飯ジャーを買っていくのです。

 あの高いやつね。

 ひとりで10個買う人もいるとか。一族のために買って帰るのでしょう。

 大阪日本橋横の黒門市場も中国の観光客で一杯です(それでわたしも歌を作ったのですが)。

 今、日本では、電気街以外でも、多くの観光地で彼らを誘致するために努力を始めています。

 例えば、和歌山のマリーナシティ。

 ここでは、大刀を使ったマグロの解体ショーを行っています。

 いや、そんなことはどうでもいい。

 何を書きたいかといえば、そこでマグロを試食し、笑顔で「おいしい!」と語る中国の人々は我々と何らかわるところがないということです。

 イデオロギーの違いなど影を潜めている。

 まあ、いざとなれば顔を出すのでしょうが、ともかく、わたしは、こういった草の根の交流、日本に来て、日本の物を買い、日本のものを食べ、日本製品を使って、日本のコミック、アニメを観ることで培われる「親近感」を大切にしたいと思うのです。

 ガス田の所有問題などで、すぐに風向きの変わるトップの仲の良さなどに左右されない、心情的なものを培いたい。

 だって、たまたま大陸の端に集まった者同士、仲良くしないとソンじゃないですか。
 モーコハンのあるもの同士なんだしさ。

 それに……以下は小さい声で書きます。
 白豪主義がいまだ残るオーストラリアで、インド移民に対する迫害が表面化したりするたびに、わたしが思い出すエピソードがあります。

 以前に、ある学者が苦笑混じりに告白したそうです。
 金満家の人種差別主義者の依頼によって、白人の優位性を証明しようと様々な実験を繰り返す度に、いつも黄色人種が一番優れているという結果になって発表できないんだよ、と。

 アジア人同士、仲良くしないとソンです。

 ああ、あと、オリンピックや上海万博の際にも流れ込んでいたとされる「中国の地下経済」および、この間の捕鯨でも話題になった、中国によるアフリカ各国の上手な支援(日本だって、中国以上のODAをやっているんですがその利用がヘタ)、少数民族への圧迫、大きすぎる大陸に対する効率的支配の限界(いかにネットが発達していようと13億は多すぎる。せめて4分の一にならないと)などについても書きたかったのですが、今回はこのへんにしておきます。

ハイてくのろじ……なのか

 こんなことは、ブログではなくツイッターで呟いた方がよいのでしょうが……

 「ナノイー」って、「まいうー」に似てる、と思いませんか?

 ナノイー。

 たしか正式な科学用語ではなく、パナソニックの登録「商標」だったと記憶していますが……クラスター・イオンのようなものなのでしょうか。

 前に、エセ科学に気をつけろ、というハナシで、「クラスター」という単語が出てきたらマユにツバしろ、という意見があることを書いたような気がしますが、ナノイーはどうなのでしょう。

 それはともかく、どうも我々は「四文字で最後は伸ばす」単語に気が惹かれるようです。

 「アラサー」とか「アラフォー」、「オロシー」(中学時代の友人がオロナミンCを略してそう呼んでいました)、「ゴロゴー」(野球好きな方ならご存じですね)など。

 勝手につくってしまうと、不思議なできごとなら「マカフー」(摩訶不思議)とか。
 背中をかいてもらう時には「ソコイー」。

 八分・八分・四分音符というナラビが、心地よいのかも?

 だって、アラフィフティーって、もひとつ魅力に欠ける言葉でしょう?

 個人的には、タッタカとか、タタッカ、とスタッカート気味な音も好きです。

 それで思い出しました。

 音楽をやっていると、読譜ができないことを気にする人が、随分多いことに気づかされます。

 歌はうまいのに、読譜ができないから恥ずかしい、とかね。

 本当は、譜面が読めるより歌が上手いほうが遙かに幸運なことなんですがねぇ。

 残念ながら、歌はかなり持って生まれた能力、肉体に依存(いそん)します。

 脳と声帯、肺活量など。

 その点、勉強すればわかる読譜とは違う。

 しかしながら、「楽譜なんか読めなくても、曲と歌詞を覚えてうまく歌えることが肝要です」、といってもなかなか納得してもらえません。

 まあ、わたしも、子供の頃からヴァイオリンを習い……なんて結構な家に生まれなかったので、複雑な楽譜になるとわからなくなるのですが、だいたいの読譜をするだけなら、ちょっとだけ秘訣があります。

 それは、連桁された音符(つまり2つ3つ横棒でつながれた音符。八分と十六分などの音符の組み合わせでいくつかパターンがありますね)、上で書いた、タッカだのタタッカだの、のパターンを覚えて自分で叩けるようにすることです。

 そうすると、かなり自分で楽譜を読むのがラクになるのですね。

 慣れてくれば、休符と音符の組み合わせも覚えるようにすると、さらに読みやすくなります。

 要は、すべての音符の流れを一度に理解しようとせず、小さなリズムのブロックごとにパターンを覚えることが、オトナになってからの、読譜の第一歩だということですね。

 あれ、ナノイー=マイウーから、変な方向にハナシがそれてしまいました。

 まあ、ハヤリ言葉にも言葉のリズムが必要なのでしょう。

 それこそが、人を惹きつけるための「ハイてくのろじ」なのでしょうから。

 その点で、3Dテレビのネーミングはまだまだの感がありますね。

 というか、どこの社もまだ「スリーディー」としか呼んでいない。

 せめてドイツ語で「ドライ ディメンズィオーン」って、あまり意味ないかな。

 ああ、いま気が付きましたが「次元」って女性名詞なんですね。

 なんとなく納得してしまうのは、わたしがステレオタイプの女性観にしばられているからなのだろうかなぁ?

 いずれにせよ、各社共に3Dに力をいれようとしているのだから、ここんトコロにコピーライターのプロとしての意地を見たいものですね。

 かつて某社がレコーダーにつけた「怪禄ルパン」なんてのは、カンベンしてもらうとして……

近頃の流行歌(はやりうた)

わたしは、仕事がら作詞をすることもあるのですが、最近の歌の歌詞はほとんど知りません。

 というか、音楽の仕事にたずさわっていながら、最近の流行歌を(曲、詞とも)ほとんど知らないのです。

 まあ、実際に楽曲を作っているのは、わたしではありませんし、歌詞も添削依頼が多いので別に問題はないのですが、おそらく、わたしが最近の曲に興味を持てないのには理由がふたつあります。

 まず曲についてですが、これはもう、ひと言でいえば、盗用だらけなので聞くのが嫌になっているのですね。

 以前、このブログで「小説作法」について書いたことがありますが、小説を書こうと思ったら、まずたくさんの既存の小説を読むことが大切です。

 なぜなら、知らずに、あるいはずっと前にどこかで読んだ話、聞いた話をオリジナルだと思って作ってしまうことがあるからです。

 インスパイアされたいがために読むのではなく、モノマネだといわれない為にこそ読む。

 これは「趣味でなくプロとしてモノを書く最低限のマナー」であるとわたしは思います。

 もちろん、同工異曲(どうこういきょく)の作品を「日の下に新しきモノなし」と居直って、ちょっとだけシチュエーションを変えて書くというスタイルもアリでしょう。

 実際、そんな著名作家もかなり多い。

 編集者や同業の作家にいわせれば、自分自身の作風のコピー、つまり自己模倣(じこもほう)は、そこまでその作品を育てあげた編集者と作家のご祝儀(しゅうぎ)だから、構わない、という意見もあるようですが……

 個人的にはそんなヤカラは軽蔑しますがね。

 音楽にも同様のことがいえる、というより、音楽の方が知らずにモノマネする可能性が高いと思うのです。

 だからこそ、作曲者は多くの曲を聴くべきです。

 あるいは、色々な人に聴いてもらってチェックするべきです。

 ご存じのように、クラシックの多くは著作権が消失しているために自由に使えます。

 だからといって、まるっきり真似をしておいて、作曲に自分の名前をだすことは、プライドがあれば普通はできない、と思うのですが、案外、皆やってますね。

 アニメ「巌窟王」(アニメとしては好きな作品です)では、ショパンの「別れの曲」をまるまる使っていながら、どこかの外国人が作曲者として自分の名前を使っていました。

 あれは恥ずかしかったなぁ!

 余談ながら、アメリカのジャーナリズムには、2ドル・ルール(最近では1ドル・ルールらしいですが)という、暗黙のルールがあります。

 取材対象(あるいは非難しようとする相手)から受け取ることができる金額の上限のことですね。

 この場合の「金」とは、取材のさいに珈琲をおごってもらったりすることを指します。
 1ドル・ルールはもちろん、2ドル・ルールでさえ、スターバックス(アメリカにおける)のレギュラー・コーヒーはOKだが、ラテはダメという厳しさです。
 これから考えると、前与党から何十万も受け取っていたといわれる日本の著名評論家およびマスコミは、アメリカから見てもイカガナモノカ、ということになりますね。

 一方、音楽の世界では「2小節ルール」という暗黙の了解が存在するのです。

 これは、いわゆる音楽業界ではかなり常識化されていますが、「2小節」が盗用して良い上限なんですね。

 もちろん、厳密にいえば「絶対真似しちゃだめ」なんですが、一応、目こぼしというのがあるわけです。

 それが2小節。

 もちろん、「盗」んで「用」いるなんてしない方が良いし、たとえ見逃してもらったとしても、それ以上真似しないために作曲家は色々な曲を聴くべきなのです。

 その点からみると、最近の(自称)シンガー・ソングライターたちの多くは、カントリー・ソングやフォーク、ロックの黎明期の知識に乏しすぎるように思えます。

 だって、何年か前に二流のシンガーが60年代の名作を流用して作った曲の、サビの部分だけを盗んで曲を作っている売れっ子シンガー、なんてのがいるわけですから。

 旧知の曲に「即物的ありきたりのイメージ歌詞」(以下で書きます)を当てはめた曲など聴いていたら頭が痛くなってくる。

 皆さんも、最近の曲で「あれ?これってアレじゃないの?」なんて思ったことはありませんか?

 まあ、クラシックなどでも、才能につまった作曲家が、東欧やアジアに旅行して現地の「民謡」を聴き取って、自作の曲として発表したりしていますから、曲の盗作は世の常、ということかもしれません。

 昔のことですから、わざわざその地域まで出かけて「音をサンプリングしてきた」という意味で別に問題はなかったようですし、さすがに「丸ごと盗用」をしている人はいませんからプライドはあったのでしょう。

 というわけで、曲の次は、近年のシンガー・ソングライターの歌詞についてです。

 こっちが、この項の本論です。

 日本語の歌の歌詞なんてカンタンですよ。

 だって、日本語で育って、日本語で会話して生活しているんだから、歌詞ぐらいカンタンにつくれる……と、思う人もいるでしょうが、イザ作るとなると「斬新で印象的な歌詞」を書くのは、文章書きと同じくらい難しいものだと気づかされます。

 私見で断定しますが、詩人は特殊な人間にしかなれません。

 コトバを大切にし、あの有名なたとえ話、

「詩人の作業は、浜辺で拾ったコインを砂でこすって光らせる行為に似ている。新しく言葉を作るのではなく、今ある言葉に違う光をあて、新しい輝きをもたせるのだ」

で表されるように、言葉に対する「鋭敏なセンス」「過剰な思い入れ」「言葉の知識」そして「軽い諦め(言葉で伝わらない事が多いことも知って)」を、ない交ぜにして持っている人間でないと、詩人あるいは歌人にはなれないのです。

 もちろんわたしも詩人ではありません。
 七転八倒しながら、文字と格闘しているだけです。

 「何らかの自分のメッセージを歌詞にのせて伝えたい」と、若者が思うのは良いことですが、早くに自分にその才があるかどうかを見極めて、歌詞は「書ける人」に任せるべきです。

「人は誰でも一作ぐらいは名作小説を書くことができる」とはよくいわれることですが、同様に、
「人は誰でも、一曲ぐらいは良い曲、歌詞をつくることができる」
でしょう。

 しかし、何曲もの歌詞を作り続けるのは、おそらくよほどの才に恵まれないかぎり無理なのですから。

 なぜ、こんなことを長々と書いているかというと、先日、「女脳と男脳」の項で書いた斉藤 環氏が、同じ文章で、以下のように書いているのを読んだからです。

『喜怒哀楽にまつわる最近の傾向として、感情表現が非常にわかりやすいかたちになってきていることが挙げられます。例えば「泣ける」というキーワードを掲げる映画や小説など、平板でわかりやすい、つまりベタな表現が増えていますし、音楽にしても、かつては複雑な心理を歌に託して、聴く側もそれを解釈する楽しみを感じていたのが、最近では「生まれたことに感謝」「出会えた奇跡」など、非常にシンプルな歌詞が溢れている。これは、「複雑な感情表現をすると相手に受け取ってもらえない、そっぽを向かれてしまう」というおそれ、強迫観念の表れです。携帯小説はまさにその象徴ですね』 

 これには、目からウロコが落ちました。

 まあ、強迫観念ウンヌンは、イカニモ現場の精神科医がこじつけそうな意見だとは思いますが……

 氏は、最近の傾向として「ベタ」で「シンプル」な歌詞が多い、と書いていますが、それがなぜなのかについて、正確に言及してはいません(強迫観念ウンヌンはコジツケですから無視するとして)。

 これについて、少し補足しようと思います。

 某放送協会の番組で、各界の著名人が自分の母校(小学校)を訪ねて、特別講義をする、というものがあります。

 先日、それに歌手の石川さゆり氏が出演され、母校である九州の小学校に行って、彼女の人生を変えた名曲「津軽海峡冬景色」を子供たちに理解してもらおうと、2日にわたり授業をされたのですが……

 その時の子供たちの反応が興味深かった(石川氏の言葉も)。

「津軽~」からどんなストーリーを想像できるか、という彼女の問いに、出るわ出るわ、主人公の女性のフルネームから、不倫相手の男声の名前、果ては北海道の出身地名まで、細かいスペックがぎっちりと模造紙に書き込まれ、子供たちによって発表されます。

 しかし、石川氏の表情は冴えない。

「なんだか、本当の悲しみを分かっていないなぁ。想像力は豊かだけども……」

 そういって、彼女は子供たちに「引っ越しをしたことのある人は?」と尋ね、手を上げた少年、少女に「辛くなかった?寂しくなかった?」と尋ねたのです。

 もちろん、子供たちは「寂しかった。辛かった」と答えます。でも、それだけ。

 石川氏は呟きます。

 人間、生きていたら「津軽海峡冬景色」に、もっと多くの悲しみや色々な感情を感じ取ることができるはずなのになぁ……

 その気持ち、痛いほどわたしにはわかりました。

 が、同時に、子供たちにそれを望むのは無理ということもわかった。

 個人的に、「子供は幼い大人ではなく、子供という別なイキモノ」なんぞという、教育心理だったか教育原理だったかで習ったような考え(同級生でほとんどとる者はいませんでしたが、わたしは授業料のモトをとりたくて教職もとったのです)は、マユツバだと思っています。

 子供は大人と同じイキモノです。

 しかし、決定的に「経験値」と「情報量」が大人とは違う(まして小学生ではね)。

 ライトノベル、携帯小説、コミック、アニメなど、さまざまなエンターティンメントのソースによって、今の子供たちの頭の中にはストーリーが渦巻いています。

 しかし、実際に胸が引き裂かれるような悲しみと辛さ、血を吐くような絶望の叫びは、「ナルト」を読むだけでは、理解はできても実感はできないのです

 有り体(ありてい)にいえば、物語を詩にして、そこから気持ちを読み取れ、と、小学生に望むのは、ほとんど無理です!

 彼らには、斉藤氏が上で書いているように、「胸が痛いほどの悲しみ」だとか、「涙が止まらない」だとか「ご飯が欲しくないヨー」だとかの、即物的な表現でないと、理解が及ばないのですよ、まだね。

 分かるまでには、あと少し時間がかかる。

 いや、中には、子供程度の経験しか持たず、体だけが大きくなった人もいるでしょう。

 案外、そんな人が多いかもしれない。

 ふた昔前、消費ターゲットは15(イチゴ)世代を狙え、といわれました。十五才前後の、案外カネを持っている子供たち、ということですね。

 その後は、年金ぐらしでも結構資金に余裕のある老人世代と、彼らからカネを引き出す能力に長けた小学生たちが購買層としてターゲットにされています。

 流行歌は売れなければ商業的にはなりたちません。

 だから、どうしても最近の歌詞は、小学生にもわかる(斉藤氏のいうシンプルな)歌詞になってしまうのです。

 詩を作っている人たちが、ターゲット世代と同レベルだとは思いませんが、わたしには物足りない、というか、タイクツなものが多いのですね。

 最近では、老人たちの好きな演歌も、同様の思考の硬直化におちいって、ぱっとしないステレオタイプなものばかりではありますが、流行歌のほうが、感覚的(これを女性脳的というとマズイのでしょうが)な歌詞が多く、硬直化しているように思えるのです。

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