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リコ is back! スターシップトゥルーパーズ3

 以前にも書いたが、「スターシップ・トゥルーパーズ」が好きだ。
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 第一作は、いかにも「ロボコップ」「トータル・リコール」の監督らしい、過度のプロパガンダに対するマスコミ不信と安っぽいスプラッタ好みのテイストでありながら、B級映画に落ちる一歩手前で踏ん張って名作となった。

 踏ん張れた理由のひとつに訓練所同期の男女の青春モノとして話をつくったことがある。

 ハインラインの原作では、基本的に第二次大戦を意識した男臭い軍隊が描かれていたが、バーホーベン監督は、わたしの大好きな「終わりなき戦い」と同じ、ベトナム戦争を下敷きにさらにそれを進化させた、男女混成の軍隊を描いたのだ。

 「終わりなき戦い」では、作者がベトナム帰りのうえ、60年代という時代の背景もあって、選ばれた男女エリート学生による未来の軍隊(パワードスーツ部隊)は、麻薬の自由摂取とパートナーを日夜取り替え交わるフリーセックスによって、過酷な戦闘に対するモチベーションを維持していた。

 さすがに1997年制作の「1」では、そういったあからさまな、死を忘れさせるための小道具を持ち込むことはなかったが、そのかわり、主人公リコ(キャスパー・ヴァン・ディーン)と彼に思いを寄せるデイジー(ディナ・メイヤー)の片思いの恋を中心に、さわやかな男女混成部隊の青春を描いて見せた。

 このあたり、監督のセンスなのかなぁ。

 もちろん、後にボンドガールになったカルメン(デニース・リチャーズ)や「トータル・リコール」でも、シュワルツェネッガー知事を追い詰めた小隊長役ジーン・ラズチャック(マイケル・アイアンサイド)のタッタ演技もいい。

 それに、主人公リコたちを訓練する教官でありながら、地球の惨憺たる戦禍に憤(いきどお)り、彼を守りたい上官から「実戦復帰するなら階級を剥奪(はくだつ)するぞ」といわれでも考えを曲げず、本当に二等兵として実戦に復帰し、最後に敵の中枢ブレイン・バグを捕獲するズィム軍曹(クランシー・ブラウン:ホームアローンの間抜けな泥棒役!)もいい。

 こういった、後に頭角を洗わす役者たちがワキに回っているのも、Bクラスに落ちずに踏ん張れた理由だったろう。

 人によっては、SF考証が甘かったり(いったいどうやって、ムシが何光年もの距離を隔てて、地球を直接攻撃できるのよ?とか)、兵士の非業(ひこう)の死を描いて戦争の無惨さをスルドク突きながら、同時にリコたち青春トリオのスポーツ・ライクなバグ退治で、戦争カッコイイと思わせたり、ハタンしとるじゃないか、と憤ることもあるでしょう。

 しかし、ここではっきりさせておきましょう。

「スターシップ・トゥルーパーズ」は、「西部戦線異状なし」でも「ジョニーは戦場へいった」でもありません。

 文芸作品ではなく、他のバーホーベン作品すべて(氷の微笑なんか)と同様、ギリギリB級映画に落ちずに危ういバランスを保持している娯楽映画なのです。

 いってみれば、これもわたしの好きな「SF好きのSF知らず」のリュック・ベッソン監督「フィフス・エレメント」と似た作品なのです。

 内容より、脚本より、監督の熱で映画を観せてしまうという……

 さすがに、世間の目も確かなようで、のちに「スターシップトゥルーパーズ」は人気を博し、フルCGのTV版「スターシップ・クロニクルズ」も制作されました。
 これは、ガンダムの原型になったといわれている、原作に登場する人型戦闘マシン・モビルスーツを、CGを用いて実現したなかなか面白いシリーズでした。

 そして、2003年、超ガッカリムービーと言われた映画「スターシップトゥルーパーズ2」が公開される。

 前作をはるかに下回る低予算で製作された「2」は、 撮影日数も26日。

 これだけで駄作の資格充分というかんじ。

 もちろん、主人公のリコは出ないし、脇役も出ない。バーホーベンは、その前にハリウッドと決別しヨーロッパに帰ってしまっている。

 結果、「2」は「1」とはまったく別物の低予算丸出しの狭い要塞内だけで話が進む劇映画になった。

 さりながら、やっぱり日本での「スターシップトゥルーパーズ」(1)の人気は確かなものだったようで、アメリカでは劇場公開なしで、テレビ・ムービーとして放送されただけなのに、日本では「2」すら劇場公開(R-15指定)されたのだった。

 監督は、映像の魔術師フィル・ティペット(1でも特撮を担当)で長編映画監督デビューだった。

 予算からだけ考えても、彼の才能を否定してはいけないだろう。運が悪かったに違いない。

 しかし、ほんっとーにツマラなかった。B級映画にすらなれなかった。

 そして、2008年。

 ついにリコ(キャスパー・ヴァン・ディーン)が帰ってきた。

 リコ is back!

 おまけに、ハリウッドを見限っていたバーホーベンも制作総指揮に復帰、予算も「2」の3倍を確保してヤル気充分。

 でも、「2」がショボ過ぎるから、それでも「1」の予算の5分の1だって!いったい「2」の予算っていくらだったの?

 で、やっと、この項の主題である「スターシップトゥルーパーズ3」の話です。

 結論からいうと、これもB級です。

 ストーリーもいい加減だし、破綻してるし、ご都合主義だし、マローダーと称するモビルスーツもチャチっぽい。

 だけど、いわゆる、いたるところブチ切れた「良い」B級映画になってしまっています。

 配役は、リコ以外の役者は、すべて新顔。

 監督は、前二作で脚本をつとめたエド・マイヤー。初監督作品です。

 「1」同様、「市民になれ!」テレビのプロパガンダで愛国心を煽(あお)る連邦。
 今回は、それに反抗する元兵士の穏便テロリストも登場する。

 そして、リコは……
 リコは大佐になっていた。
 大佐といえば、宇宙船の船長になれる階級だ。

 なのに、相変わらず、彼は歩兵として現場での戦いにあけくれている。
 あるいは、デイジーや仲間をを殺された怒りで、自らの手でアラクニド・バグズを殺したいと思い続けているのか……なんて思うわけです、ファンとしては。

 実際には、主人公が、スタートレックのカーク提督みたいに、指揮官の立場でふんぞり返っていたら、何にも面白くないから、という演劇手法のためなんでしょうがね。

 顔に傷のひとつでもあったほうがリアル感が増したと思うが、女性ファンの反感を恐れてか、顔は少し老けたものの以前の通りハンサムだ。

 前作のヒロイン、カルメンもズィム軍曹も出ない。

 そのかわり、歌って踊る感能力総合指令が登場する。
 総司令の歌うCDを買うことが市民のステイタスだ、ってもうすっかりイッテる設定ですよ。 

 現実主義者のヒロインが、バグ星の真っ直中に放り出され、絶体絶命のピンチの時に空から現れたリコたちマローダー部隊を見て宗教に目覚めてしまうとかね。

 でも、登場人物に、信仰の尊さを述べさせた舌の根も乾かぬうち?に、穏便テロリストたちの公開処刑映像を挟んだり……

 つまり、この映画は、神も法律も国も権力もプロパガンダも、バグさえも、すべてが胡散臭(うさんくさ)くニセモノに過ぎないのだ、という態度で話を進めているのですね。

 そこらへんを、マジメにとると映画の評価を間違えてしまいます。

 残念だったのは、鬼才バーホーベンならではの、さじ加減を、脚本家出身のエド・マイヤーができなかったことでしょうか。

 映画の間に流れるプロパガンダ映像の回数が多すぎる。クドい。
 宗教心の篤い、客室乗務員の女の子が叫ぶ「天にまします我らが……」ってのも、聞いててこっちが引いてしまうほどネチッコ過ぎ。

 「1」とテイストは近いのに、B級を越えた快作たりえなかったのは、そのあたりに問題があるのでしょうか。

 ともかく、往年の「悪魔の毒々モンスター」や「片腕サイボーグ」あるいは、サム・ライミの「死霊のはらわた」シリーズに抵抗がない人なら、おすすめです。

 わたしは、いま、ひさびさにB級の名にふさわしい作品を見た、という気持ちでいっぱいです。

あ、ヒロインは、知る人ぞ知る、スタートレック・エンタープライズのバルカン女性トゥポルだったんですね。気がつきませんでした。そういや、口もとに面影が……



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スローターハウス5  SFか現実か?

 ある男が、自分の意思に反して、ひんぱんに自分の生涯を行き来する。

 つまり、彼は、ふと気がつくと青年であり、少年であり、中年であり、うっかりすると老人となって、その時々の人生を経験するのだ。

 何度も何度も。

 ある時は少年期の経験を追体験し、またある時は妻の死に立ち会う。

 あるいは、従軍した戦争のつらい記憶を再体験し、次の瞬間には自分の死を経験する。




スローターハウス5
640円

 これが、つまりカート・ヴォネガット・ジュニアの小説「スローターハウス5」なのだが、わたしはこの話を、小説ではなくジョージ・ロイ・ヒル監督の映画(1972年)で知った。

 作者自身が、原作より良くできている、と感心したといわれているものだ。

 映画をご存知ない方のために、ごくごく簡単にはなしを紹介すると、新兵ビリー・ピルグリム(主人公)は、戦争(第二次大戦)でヘマをしでかし捕虜になる。

 そして彼は、ドイツの風光明媚な古都ドレスデンへと送られ、そこで英米の無意味かつ苛烈な大爆撃を経験する。

 世に言う「ドレスデン爆撃」である。

 かろうじて生き残った彼は、戦後、(多少の戦中トラウマは残るものの)ごく普通に社会に復帰し、結婚をし、子供をもうける。

 そして、飛行機事故に遭い、ひとりだけ助かる、

 事故を聞いて錯乱した妻は自動車事故で死ぬ。

 ひとりになった彼は、トイレのパッコン(ってわかりますよね。でっかい吸盤のついたやつ)に似たトラルファマドール星人誘拐され、彼らの動物園でポルノ女優モンタナ・ワイルドハックとともにガラス張りの部屋で住むことになる。

 だが、その間も、彼の意思は、さまざまな時間にランダム・ジャンプを繰り返す。

 やがて彼は老い、人々に、自分の時間ジャンプ(感覚的な)を講演し始め、一部から熱烈な歓迎をうける。人々は、彼がトラルファマドール星人に教わった「死はただのイベントに過ぎない」という考えを好んだのだ。

 そして講演中、ビリーは唐突に暗殺される。

 大戦中、ヘボ新兵だったビリーを目の敵にしていたウェアリーという兵士が、自分の死を彼の責任にして死ぬと(事実は違う)、彼の友人ラザーロが執拗にビリーを狙い始め、数十年後、ラザーロは公演中のビリーを射殺したのだ。

 これを、形而上のたとえ話としてみれば、「死は恐れるものではない」というビリーの、ということは、トラマファドール星人の、「死に重きを置かない、諦観(ていかん)ではない楽観主義」の話だし、SFとしてみれば、奇妙な宇宙人に奇妙な時間ジャンプ(しかも彼は未来も過去も変えられない)をからめた不条理SFのようにも見える。

 だが、別な見方をすれば、「これらすべてを現実である」と考えることもできる。

 なぜなら、ビリーが時間ジャンプし始めるのは、中年になって、飛行機事故を経験した後だからだ。

 事故で、彼の脳が何らかの機能不全、高次脳機能障害を起こしたと考えれば辻褄があう。

 ビリーは「未来」へはジャンプできず、「今まで経験した」過去へ意識ジャンプする。

 これはつまり、彼が、突然、現実から離れ、過去の記憶に囚われるという脳障害を起こしているとみることもできる。

 かつて、どこかで観たポルノ女優と一緒に、ガラス張りの部屋で生殖を含む行為の観察を、トイレの掃除道具に似た宇宙人にされているというのも、脳障害による妄想と考えれば納得がいく。

 そう考えれば、彼が、彼の人生のあらゆる時間を移動できる時点は、彼が最大限生きた瞬間、つまり暗殺される直前ということになる。

 つまり、ラザーロの銃弾が銃口を離れてビリーに命中するまでの短い時間だ。

 その短い時間に、「人生が走馬灯のように」なんていうけど、ビリーは自分の人生を、さまざまにランダムに振り返ったのではないだろうか。

 じゃあ、やっぱりトラマファドール星人は幻覚か……

 なんて見方もできるということです。

 人が「ものを感じる」というのは、あくまでも認知論の問題で厳密な科学ではないのだから。

 話は変わるが、ドレスデン空爆の後、事態を収拾しにきたソ連軍によって、ビリーの頼りになる友人(しかもイイやつ)はあっさりと銃殺されてしまう。

 「何も盗むな」と厳命されていたのに、自分の家にあるのと同じちっぽけな置物(だったかな)を、何気なくポケットにいれたのをソ連兵に見つかったからだ。

 ゴミ同然のガラクタだから、何も考えずにポケットにいれたのだが、杓子定規なソ連軍兵士には通じなかった。

 彼の犬死は、立派な人格者でも、あっさり死んでしまうことがある、という無常観を示しているのだろうか。

 これに引き換え、ロベルト・ベニーニの「ライフ イズ ビューティフル」の死に様はひどすぎる。

 必要もなく、チョカチョカ動きまわったあげく銃殺されるのだから。

お節介な宇宙人 ~地球の静止する日~

「地球の静止する日」といえば、まあ、今ならキアヌ・リーブスのリメイクがすぐに思い浮かぶでしょう。

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 あるいは、今川監督のアニメ「ジャイアント・ロボ」が頭に浮かぶかも知れない。

 わたしが子供の頃は、和製2時間ドラマなど、まだ生まれておらず、夜の2時間テレビ枠を埋めていたのは、もっぱら「**ロードショー」という名の名画放送だった。(**には曜日が入るのですね。水曜ロードショーとか日曜洋画劇場とか)

 そして、それは同時に、映画の始まる前後に、作品について解説する映画評論家が、きちんとした社会的評価をうけるようになった頃でもあった。

 淀川長治、水野晴郎、荻昌弘や高島忠男もやってたなぁ。

 今も、ちょっとずつ映画放映はやってますが、なんだかリメイクの公開にあわせた広告がわりに旧作(オリジナル)をやるというパターンが多いように感じられて観る気がしません。

 もっとも、地デジの電波が強くなった影響か、我が家の地上波は、すごいノイズでうまく画像が映らないから観たくてもちゃんと見えないのですが……

 レンタルで観る映画と違って、コマーシャルが入るのも不愉快ですしね。

 NHKには昼と夜に、BS映画劇場という素晴らしい放送が残っていますが、とにかく、映画放送の絶対量が少なくなっている。

 放送が減ったのは、レンタルビデオやDVDで、気が向いた時にいつでも観ることができるようになったのが一番大きな理由でしょう。

 ケーブルテレビやスカイパー・フェクトTVといった専門チャンネルができたのも、地上波の映画放送を少なくした原因のひとつと思います。

 そういった専門放送チャンネルは、一回ぐらい観逃しても、何回も繰り返し再放送してくれるから安心です。

 逆にいえば緊張感が少なくなった

 そう、レンタルDVDが普及し専門チャンネルができ、映画放送が減ったおかげで、映画に対する緊張感を感じなくなったのです。

 公開中の映画のみ、公開終了からDVDが出るまでの間、観なおすことができないので、多少の緊張感が残っていますが……

 家庭にビデオさえ満足にない頃には、映画の放送などは一回コッキリ
 いい加減に観てしまったら、次に目にするのは運が良くて名画座のリバイバルだったのだから、コドモながらに根性いれて観たもんです。

 そんな時代に、良きにつけ悪しきにつけ、わたしに強い印象を残した映画が何本かあります。

 良い影響を与えてくれたのが「冒険者たち」に代表されるフランス映画です。

 「ピアニストを撃て」だとか「おかしなおかしな大冒険」(これは本当に好きな映画で、ある意味、わたしの人生を変えた映画でもあります)、あるいは「ミスタァ・ロバーツ」「12人の怒れる男」なども印象深かった。

 しかし、一番わたしに強い「影響」(悪い影響といってよい)を与えたのは、SFや怪奇モノの映画でした。

 今と違って、感受性の強いコドモ時代に観た映画のインパクトは強烈です。

 たとえば「禁断の惑星」。
 今では信じられない、あの裸のガンを持つ男、レスリー・ニールセンが二枚目船長を演じている50年代SFの金字塔です。

 この映画の「イドの怪物」は、何度もわたしの夢に出てきて、よくうなされました。

 元祖「蠅男の恐怖」も恐ろしかった。邦画では「妖星ゴラス」なんかも怖かったなぁ。

 さて、なぜ、こんなことを書き連ねたかといいますと、この項で書きたかった1951年版「地球が静止する日」は、それらインパクトの強かった映画と異なり、まったく何の後遺症もわたしに与えなかった映画だからです。

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DVD 地球の静止する日 【ベスト・ヒット・マックス】
 1951年制作。ウエストサイド・ストーリーの監督、ロバート・ワイズが撮ったモノクロ映画。

 当時、宇宙人を旧ソ連に見立てて敵視するというSF全盛だった頃に、宇宙人=冷静沈着で良い人、地球人=まず銃ぶっ放しの野蛮人という図式の映画を撮ったことは大したものです。

 モノクロ独特の質感のある映像、びっくりするくらい長身でスマートな宇宙人クラートゥの落ち着いた物腰、知的な会話もいい。

 彼の連れてきたロボット、ゴートが銀一色のズン銅スタイルで、ちょっとチャチいのはご愛敬でしょう

 クラートゥは、地球人に向かって、争いをやめるようにいいます。

 当然のように拒絶する地球側、というかアメリカ人

 彼は力を示すために、地球上の電力を止めます。

 これが、THE DAY THE EARTH STOOD ATILLです。

 何も地球の時点を止めたり、時間を止めるわけじゃないんですね。

 でも、おそらく被害は甚大です。

 病院では多くの患者が亡くなったことでしょう。

 だから米軍はクラートゥを射殺します。あばれるゴート。

 虫の息ながら、クラートゥは宇宙船を発進させ、宇宙に帰っていきます。

 いったい、何のために来たの?って感じもしますが、しっかりと地球人の愚かさは胸に届きます。

 インパクトは弱いですが、名作といって良いでしょう。

 さて、なぜ、今日、この映画について書いたかというと、先ほど立ち寄ったビデオレンタル店で、このモノクロ映画「地球が静止する日」のDVDがずらっと並んでいるのを見かけたからです。

 もうすぐ映画が公開されるとはいえ、これはすごい。

 でも、キアヌ・リーブスの作品の前哨戦、いやアペリティフとしてあれを借りたら、みんな怒るだろうな。

 しかし、「地球が静止する日」とは題名の付け方がうまい。ハリイ・ベイツの原作どおり「主人への告別」では、だれも観ないでしょう。
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地球の静止する日
1,000円

 今度のリメイクがどんな映画なのか、まったく知識はありませんが、アメリカ人が本能のままに映画化すれば、今度もお節介な介入者は殺害されるでしょう。

 (先住民からムリヤリ土地を奪いとったという)建国に多少のトラウマが残る彼らの方針は「俺たちは常に正しい。だから俺のアメリカンウェイに口を出すな」ですから。

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