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目の当たりにする逆転

 スポーツなどのように、人々を興奮させるために、あらかじめその内部に組み込まれている「大逆転」はともかく、我々が、大逆転を実体験で目の当たりにする機会はそう多くない。

 風の噂や著名人の自伝、テレビの特番で目にする程度だ。

 しかし、「大」のつかない、「小」逆転なら、案外あちらこちらで見つかるものだ。

 今日、わたしも(小)逆転を目撃した。

 今夕、家事用ゴム手袋を求めて出かけたホームセンターでそれは起きた。

 日常生活における小逆転は、レジ付近で起こることが多い。

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 平日のことで、いくつかあるレジの一つだけが稼動していた。

 夕方になって、仕事帰りの人々が訪れ始めて、レジが混雑しだした。

 すると、店員同士で、なにやら耳打ちが交わされたのち、隣のレジに店員が入って、

「並んでおられるお客さまどうぞー」

と、叫んだのだ。

 さっと隣の列に移る人たち。

 ああ、大、もとい小逆転の一瞬。

これまで列後方に並んでいた人が、突然、トップに躍り出たのだ。

だが、ここで留意しなければならないのは、逆転には二面があるという事だ。

 すなわち、逆転する側とされる側と。

 この場合、逆転されたのは、列の中ほどにいた人です。

 それまで、結構並んで、やっと、もうすぐ自分の番と思ったら、自分の後ろの人が、隣のレジで一番になるのを目撃したのだから。

 そして、自分は列の最後尾に……

 その心中いかばかりか。

 ツイてないとしか、いいようがない。

 え、お前は、その一部始終を横で見ていたのかって?

 もちろん、そんなヒマジンじゃないですよ。

 じつは、その、列まん中に並んでいた善意の第三者が、わたしだったのです。

井上ひさし氏死す

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 9日、肺癌だったそうですね。

 わたしは、小説については、あまり熱心な読者ではありせんでしたが、彼の日本語論、文章作法論、そしてエッセイには、大きな影響を受けました。

 別項でも書きましたが、井上氏の筒井康隆評、「他の凡百作家を文壇レースで周回遅れしつつ巫山戯た走りをしている天才」を読んだ時には、思わず膝を打ったものです。

 もう随分まえ、ひと月近く、ひとりでインドを回ったあと、バスで過ごしやすいネパールに移ったその日、泊まったゲストハウスに置いてあった井上氏のエッセイ(タイトルは確か「巷談辞典」)は、日本語に餓(かつ)えていたわたしの胸に深くしみこみました。

 What a beautiful language…

 そう思いながら、ボロボロだった文庫を、何度も読み返したものです。

 ご冥福をお祈りします。

週末時計ふたたび

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以前、このブログでも映画「ウオッチメン」で書いたことのある「終末時計」が、8日のオバマ、メドベージェフ大統領会談による核軍縮条約調印によって六分前になりました。

ふたりは「マンデラとガンジーだ」そうです。

例によって、イメージ先行•実効性僅少のオバマ戦略の一環に過ぎないのかもしれませんが、北朝鮮の核保有以降、昨年のオバマ演説、今回の調印と「終末時計」という単語が新聞紙面に踊るのをみると、あらためて、地球上にある「多すぎる核兵器の量」に気づかされますね。

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