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クールなルークの死 ~暴力脱獄~

 俳優、レーサー、実業家(ニューマンズ・オウン社:輸入品店で、ドレッシングなんかよく見かけたね。ニューマンの顔がラベルのやつ)として活躍したポール・ニューマンが死んだ。享年83歳。

 決して短くはない人生であったし、早くに息子を亡くしもしたが、晩年まで映画スターとして活躍し(そんなことができるスターは、1パーセント未満だ)、そしてなにより、数々の「名作」に出演できた幸運な役者であった。

 色々な場所で、さまざまな追悼文が書かれるだろうから、彼自身についての話は、そちらにゆずるとして……

 「傷だらけの栄光」「動く標的」「評決」等、訃報とともに代表作が列記されていたが、わたしのもっとも好きな作品が入っていなかった(つまり、代表扱いされていない)ので、それについて書いて、彼への追悼としたい(実をいうと、前にもちょっと書いたのだが今回は別な角度から)。

 その作品は、「暴力脱獄」Cool Hand Luke (1967)

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 もちろん、これは、本来、彼の代表作であるべき作品だが、なにせスーパースターだから、綺羅星(キラボシ)のごとく代表作があり、後発の「スティング」や「ハスラー」がクローズアップされ、男のみ出演の、汗くさくハードなこの作品は隅に押しやられている感がある。

 実際に囚人生活を送ったことのあるドン・ピアーズの小説を、「アンタッチャブル」(テレビ版)の演出をしていたスチュアート・ローゼンバーグが監督した作品……なんだが、脱獄がこの映画のテーマではない。

 理不尽な権力の横行と、それに負けない不屈の個人の魂との闘いを描いた、最高にカッコいい作品なのだ。

 観るたびに胸が熱くなり、意味もなくゆで卵を食べたくなってしまう(後述)。

 あらすじは単純そのもの、戦争(ベトナムだったかな)帰りの英雄ルークは、酔ってパーキングメーターをへし折り、懲役2年の刑で刑務所に送られる。

 刑務所で彼は独特の存在感を示し、囚人仲間の中で頭角をあらわしていく。

 昼間は炎天下の未舗装道路で重労働(人力による草刈り!これがスゴイ。み、水をくれ)
 常に監視され、作業中は、トイレも水を飲むのも、ショットガンを持って立つ刑務官に、直立不動で許可を得ないと許されないのだ。

 すべてが管理された中での重労働、という極限状態の中でも、ルークは、自尊心を失わず、決して負けない。

 いつしか仲間の囚人たちは、彼をクールなルーク:Cool Hand Luke(シャレだよ、もちろん英語でもね)と呼ぶようになる。

 まあ、ひとことでいうと、刑務所の囚人の話です。

 でも、後のOZ(知ってる人だけ頷いて)やショーシャンクみたいな、現代風ケダモノ刑務所の話じゃない。もっと、気高い(うまくいえないが)囚人の話なのだ。

 あるいは重労働すぎて、刑務所内での権力闘争なんかできない、非人道的なムショの頃のハナシというべきか。

 OZ(オズ:重犯罪刑務所が舞台のテレビシリーズ)などの、現代の刑務所は、その是非(ぜひ)はともかくとして、人権重視で重労働が無いから、中でミョーな人間ドラマが生まれてしまうのだ。

 閑話休題、クールなルークの話。

 役者もニューマンをはじめとして、アメリカ名脇役総出演といった豪華さだ。

 なんといっても、最高に良いのは、古株の囚人、刑務所のヌシであったジョージ・ケネディ(「大空港」そして日本映画「人間の証明」!)演じるドラグラインだ。

 ご存じのように、鯨のような大男である彼は、刑務所にあっても、やはりケンカなら無敵で、ムショのボスとしてハバをきかせている。

 だが、その彼にしても、冷徹で、強大な権力を持つ刑務官には、底知れぬ恐怖を感じ、怯えながら毎日をくらしているのだ。

 もちろん、彼も、そんな自分を忸怩(じくじ)たる思いでみているのだが、そんなことどうしようもないぜ、だってここは奴ら(体制側)の支配するムショなんだから、と諦めている。

 そこへ、ルークがやってくる。

 二枚目な上に、生意気な態度の若造に、まず彼はカチンとくる。

 そこで、いつものように、作業の無い日に、ボクシングと称してルークを血祭りにあげようとするのだ。

 刑務官たちも、スポーツという名目で、新入りをムショ内のヒエラルキーにはめ込むこの作業を見て見ぬふりをしている。

 だが、ルークは負けなかった。何度打ち倒されても、立ち上がり向かってくる。
 しまいに、ドラグラインは根負けして、やっと、ぶっ倒れたルークを見ていうのだ。
「たいした野郎だ」

 その後、何度となくこの言葉が彼の口から漏れることになる。

 そして、いつしか、ドラグラインは、自分より小柄で若いルークを尊敬するようになる。

 彼の底なしの反抗心と矜恃(プライド)の高さには到底かなわないと、自らの負けを認め、惚れ込んでしまうのだ。

 その演技が実にイイ。

 ちょっと、無知で無教養で、ハゲかかった中年で大男のケネディ(ドラグライン)が、ルークを見る時に見せる、憧れと思慕と、期待と不安と、友情の表情。

 その演技を見る度に、わたしの胸は苦しく熱くなる。

 やがて、もっとも印象的なエピソードが幕開く。

 きっかけは、本当に単純な囚人同士の会話からだった。

「ルークは大食いだな。タマゴを何個食べられる」
「50個だ」
「嘘いえ」
 すぐに、ドラグラインがルークの側につき、囚人を二分した賭けが行われる。

 大量にゆでられたタマゴがルークの前に用意され、賭けが始まった。

 日本の「大食い選手権」に似た、おそろしく孤独でハードな激闘が終わった夜、

「どうしてあんな馬鹿な賭けを真剣にやるんだ?」

 ドラグラインが尋ねると、ルークはクールに笑って何も答えない。

 んで、またドラグラインは、ルークにゾッコン参ってしまうのだった。

 だが、そんな反抗的な囚人を体制が見逃すはずもない。
 徐々にルークに対する締め付けを厳しくしていく。

 やがて、ルークは脱獄を繰り返すようになる(直接的には、あまり馴染めなかった母親の死が原因だが)。

 そして捕まる。

 その度に、木製の、デキの悪い電話ボックスに似た独房(まさしく独立した小屋、底辺1メートル四方)に、おまる代わりのバケツをもって押し込められるのだ。

 だが、ルークは脱獄をやめない。看守に目をつけられてもやめないのだ。

 その度に、ルークの足には、重い鉄鎖が幾重にも巻かれるのだ。

 鎖が増えるにつれて、ルークの脱獄への情熱は激しくなる。

 さすがに、三度めに脱獄する前には、諦めて、看守たちになつくそぶりを見せたりもする。

 だが、やはり彼の芯の部分は折れず、脱獄を敢行するのだ。

 ルークが脱獄するのは、自由になってウマイ飯を食い、女を抱くためではない。

 看守たち、体制側に押しつけられた抑圧を打ち破るためなのだ。

 もちろん、ルークは、声高にそんなことを叫びはしない。
 囚人たちを煽るような熱血漢でもない。
 どちらかというと、退廃的、というより、冷めた気持ちの男だ。
 ただ、なにものにも負けたくない、腹の底にそんな気持ちを飲み込んだ男なのだ。

 そして、何よりルークが負けたくない、と思ったのは、冷たく輝くレイバンのミラーグラスをかけて、囚人を睥睨(へいげい)する看守長だった。

 決して瞳を見せず、常にミラーグラスを光らせているその男は、不気味で囚人にとっての横暴な権力そのものだった。
 ルークは、彼といつもロッキングチェアにすわって囚人を断罪する所長の鼻をあかしたかったのだ。

 そうしないと、彼の心が押しつぶされてしまいそうだったのだ。

 そもそも、彼が、深夜にパーキングメーターをへし折って歩いたのも、大義なき戦争(ベトナム戦争)で負った虚無感に耐えきれず泥酔した上でのことだった。

 皮肉なことに、彼は、戦争で体制(軍)から押しつけられた抑圧から逃れた(退役した)とたん、投獄されてさらなる抑圧に甘んじることになってしまった。

 最後に、重労働の隙間をぬって、足鎖を巻いたルークは三度目の脱獄をする。

 ドラグラインも、初めてそれに続く。

 そして……

 ドラマのラストで、伝説となったルークの話を、夢見るようなまなざしで仲間に語るドラグライン。

 不屈の魂は形を変えて、人々に伝えられていくのだ、ということを示す、すばらしいシーンだ。

 
 ある意味、「暴力脱獄」という邦題は言い得て妙である。

 暴力と脱獄、その繰り返しの映画だから。

 だが、観終わった後、悲しさと苦しさと悔しさと共に、不思議にある種爽やかな胸の熱さを感じてしまうのはなぜだろう。

 おそらく、どれほど厳しい環境に置かれても、「折れない魂」は存在する、ということを、声高ではなく、高らかに宣言した映画だからだ。

 Cool hand Luke が名作たり得たのは、G.ケネディら名脇役の演技もさることながら、主演ポール・ニューマンの存在があったればこそだ。

 誰がリメイクしても、この作品を越えることはないだろう。

 不思議に、伝え聞くニューマンという人物像はルークに似ていた。
 
 ならば、制作後40年たって、いま、クールなルークはあの世に旅立っていったのだ。 

 数々の不屈の精神を地上に残して。




いま、特別版DVDが売られています。

ひと華咲かせて ~緒方 拳 死す~

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 緒形 拳が死んだ。

 他の人の印象は知らないが、わたしにとって緒形 拳という役者は、妙に脂ぎって精悍で、ちょっと人情家で人懐っこく、トコロにより冷たいデコボクロ役者だった。

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 真偽はしらないが、芸名を決める際に「自分の特徴は手だ」といったため、緒方テノヒラやコブシといったものが候補にあがり(これじゃジャンケンだよ)、最終的にコブシ(拳)になったものの、皆からケンと呼ばれたために、結局はオガタケンにしたのだという。 その点、「飢餓海峡」の役名を芸名にした三國連太郎とは好対照だ。

 「太閤記」の秀吉、サル役は古過ぎて知らないから、特に、小林桂樹主演ではないテレビ版の必殺仕事人の藤枝梅安の印象が強い。(映画「復讐するは我にあり」も悪くはないが、原作の方が優れているように思うので:あ、これって三國との共演だ)

 最近の彼の姿を「おみやさん(って古い?今は渡瀬恒彦?)」などでは見かけてはいたが(ナナメ観だが)、なんだかすっかり良い人になって覇気・元気共になくなったナァと感じて少し寂しい気がしたものだった。

 息子も世界遺産やCM(CF?どっちだ?)のナレーションなどで活路を見出しているし、心配もなくなったから枯れちゃったのかな、と思っていたら、晩年に彼は復活したのだった。

 その役で、彼は悪役を生き生きと役者らしく演じていた。

 「隠し剣鬼の爪」のワル家老だ。

 小林稔侍演じる腰巾着とともに、自分勝手に癇癪(かんしゃく)を起こし(キレるって言い方は安易でキショク悪いから使わない)、意地悪く主人公を足蹴(あしげ)にし、人妻を騙して犯し、そして最後に鬼の爪によって暗殺される。

 しばらく「良い人」が続き、なんだか気が抜けたような演技(まあ、テレビも邦画もあまり観ないから偉そうには言えないんだが)が続いていた緒方が、枯れてはいるものの、久しぶりに見せた生きた演技だった。

 たとえていうと、檻の中で、すっかり弱った老熊が、空を飛ぶ鷹を見て、突然立ち上がり、吼え、往年の激しさを一瞬だけ垣間見せた、という感じかな?その後すぐに、ぐったりと寝ちゃうんだけど……

 なにより、ワル役を楽しんで演じている気持ちが伝わってくるようで、わたしは嬉しかったのだ。

 今思えば、あの、「鬼の爪」に刺されてからしばらく歩き、そのままスッコロンデ死んだ死に様こそが「俳優」緒形拳の到達点だったのではないだろうか。

 ここ数年、肝臓を悪くして闘病していたらしいが、最近も製作発表に顔を見せていたので、唐突な死という印象は否めないが、突然の訃報は、ワル家老の死に方に似て、いかにも緒方らしい死に様のように、わたしには思えるのだ。

ボーイミーツガール  ~崖の上のポニョ~

 十代の頃、わたしはギターを弾いていた(上手くはなかったが)。
 もちろん、自作曲ではなくコピーをしていたのだが、気に入った曲が少なくて困ったものだ。

 なぜなら、当時流行の歌も、今と変わらず恋愛、恋の曲しかなかったからだ。

 当時からヘンクツだったわたしは、世の中はアイトコイでできているのではなく、思想や政治、陰謀と策略で満ちあふれ、だからこそ歌にもそれが反映されるべきだと考えていたのだ(押井に似てるな。じゃあ、あの気持ちって近親憎悪?)。

 愚かなことだ。思想をヒトに押しつけるメッセージ・ソングが、もっと世の中に必要だと思っていたのだから。

 おそらく寂しくて、過剰な生命エネルギーをもてあましていたからであろうが、とにかく愛だの恋だのと歌う歌が好きではなかった。

 そもそも、歌にはその出自から政治と恋の二面性があったというのに。

 かつて吟遊詩人は、歌にのせて社会を憂い、為政者をいましめ、批判し、ジャーナリストとして各地を旅して情報を集め、広めたのだ。

 そして一方、シラノ・ド・ベルジュラックは、美しい恋の歌を、シャイな友人に変わって、自分の思い人に捧げた。

 現在のわたしはといえば、歌など恋の歌だけで充分、政治、思想的な歌などアブナイだけで一利なし、という考えに傾いている。

 少年が少女に出会い(BOY MEETS GIRL.)、子供が生まれなければ社会すら存続できないのだから。

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 遅まきながら「崖の上のポニョ」を観た。
 まったく情報を得ないまま、ただ漠然と考えていたのは、ミヤザキは「愛・地球博」の「サツキとメイの家」人気に気を良くして、またトトロ系の話を作ったのだな、ということだった。

 だが、違った。「ポニョ」は、自然に回帰する子供の話ではなく、「ラピュタ」と同じ流れに属する映画だった。

 「崖の上のポニョ」は、典型的なボーイミーツガールの映画(正確にいうと、ガールミーツボーイ)だったのだ。

 意識してか年齢のためか、宮崎監督は、物語に伏線も張らず、サイドストーリーも作らない、まっすぐな映画を作った。

 「恋は、障害があれば、その炎をいや増す」らしいが、それはオトナの恋のはなし。

 五歳の少年とサカナの恋に、余計な障害は必要ない。
 だからまっすぐなストーリーこそが似つかわしい。大正解だ。

 ストーリーに抑揚はなく、悪意は存在せず、優しさと愛情があふれる話。

 つまり、リアル感のない、寓話の世界。言い古されてちょっと恥ずかしいが、いわゆる「現代のおとぎばなし」が、ポニョの世界だ。

 不思議なサカナ(人面金魚?)のポニョは、親のもとを抜け出して、ヘドロとゴミで汚れた港町に流れ着き、少年と出会う。

 ガールミーツボーイ。そして幼い恋が芽生える。

 連れ戻された彼女は、少年に会いに再び港に戻ってくる。人間の少女の姿で。

 その時の激しい海のうねりと風、雨の描写は、なぜか郷愁をともなって迫ってくる。
 ドコカでみたような画、音楽、雰囲気……。

 あ、これって「ファンタジア」の「はげ山の一夜」にそっくりじゃないの。

 だが、もちろん時は流れている。

 さらなる技術の進化とジブリ的な感性で、ディズニーよりも遥かに豊かで大いなる海のうねりが丁寧に描かれるのだ。

 手塚治虫が生きていたら、さぞや喜び、悔しがったことだろう。

 不思議なはずの少女を、少年と彼の母は何事もなく受け入れる。

 少女の両親(魔法使い?妖精?)は海からその様子をみて言葉を交わす。

「もし、少年が、あの娘をありのまま好きになってくれたら、あの子は人間になれる」

 なんと、「崖の上のポニョ」は、アンデルセンを翻案したものだったのだ(カントク自身、明確な認識はなかったようだが)。

 人魚姫……

 翌日、出かけたまま戻らなかった母をさがしに、少年はポニョと、おもちゃのポンポン船(蒸気船)にのって外に出かける。

 これがいい。ポニョの魔法で巨大化したポンポン船(昔、よく夜店で売ってたなぁ)に乗って海原に乗り出す姿は、まるでお椀に乗って川下りをする一寸法師のようだ。

 ここでもこの映画の寓話性が良く出ている。

 昨夜の嵐で、村のあらかたは水没し、人々は船で避難所に向かっている。
 彼らは、母を捜しに行くポニョたちを見ても、別に心配もせず「気をつけて行くんだよ」と応援してくれるだけだ。

 少年の両親が、自分たちを名前で呼ばせていることに示されるように、ポニョでは一貫して子供をオトナとして扱っているのだ。

 すっかり嵐で洗われた港は、映画の冒頭で見せたヘドロやゴミが一掃され、魔法使いたちの登場もあって、古代魚の泳ぐ神秘の場所と化している。

 少年が親しくしていた介護施設の車椅子の老婆たちは、魔法使いたちに出会って、施設の庭を駆け回っている。

 少年の母は、そこでポニョの母親と話をしている。

 この時の二人の体の大小が良い。ポニョの母が、やたら大きいのだ。
 (神、あるいは精霊は大きくなければならない。これシンピロンのジョーシキアルネ)

 やがて、少年とポニョが施設にやってくる。そして……

 ポニョの両親についての明確な説明はない。

 だが、そのことに違和感はまるでない。

 なぜなら、これは寓話だから。

 まっすぐで優しいおとぎばなしだ。

 わかりやすい文章は、その中の文字がいくつか抜けていても、問題なく読むことができる。

 だから、この映画の説明不足は問題ではないのだ。

 その点が「スカイクロラ」とは異なる。
 あれはキーワードとなる単語がごっそりと抜け落ちている映画だった。

 で、その後ふたりはどうなったかって?

 おとぎばなしの結末は決まっている。

 少年は少女に出会い、少女は少年に出会い、そしてキスが交わされ、ふたりはいつまでも……




ポニョはまだサントラしか手に入りません。

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