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アメリカが求める聖母 サラ・コナー クロニクルズ

 スタートレックについて書くつもりでしたが、スカイパーフェクトTVで始まった(もうシーズン2がDVD発売されていますが)「サラ・コナー クロニクルズ シーズン1」(以下、クロニクルズと表記)を観たので、先頃、書いた映画に関連して少し追記します。

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 T4の項でも書いたとおり、有識者の間ではT3は無かったものとすることが常識化していると思いますが、クロニクルズも、T3以前、T2後数年を経た時代から始まります。

 ジョンとサラ親子は、スカイネットではなく(T2でスカイネットの芽はつまれました)、サイバーダイン研究所破壊およびスカイネットの開発者(予定)ダイソン殺害の主犯として警察から逃亡を続けていましたが、やはりというか、そうでないと話にならない、というか、未来からやって来たターミネーターに襲われます。

 それを救ったのが、上の写真にある女性型ターミネーター・キャメロン(ってどういうセンスのネーミング?)です。

 まあ、そういったシノプシスはともかく、このテレビシリーズを、単なる映画の派生作品以上のものにしているのは、いちウェイトレスに過ぎなかったサラ・コナーという女性が、カイル・リースとの出会い、つまり歴史の力で聖母にされてしまった悲劇を描いているからです。

 だからこそ、この作品は、サラ・コナーのクロニクルズと呼ばれているのですね。

 そして、サラ以上に不幸なのは、母から「あなたこそが人類の希望」「英雄」と言い続けられるジョン・コナー少年です。

 自分で考えても、多少のネットワークの知識はあるにせよ(T2で描かれてましたね)、女の子にモテるわけでもなく、仲間の人気者でもない、そもそも、警察の眼を逃れ引っ越しをくりかえす彼に仲間ができるわけがない。

 やりきれない孤独を、未来から来た女性型ターミネーターに告げると、キャメロンは不思議そうな顔で答えます。

「あなたは、未来では、いつも大勢の人に囲まれている」

 こんな言葉は、ジョンを憂鬱にするだけで何の救いにもなりはしません。

 英雄としての自覚のない彼は、再び未来からの刺客が現れたことで、絶望しているサラに、「自分は英雄ではない、英雄なのはきっと母さんなんだ」と安易に責任を委譲しようとします。

 まだ息子が「ダメ」であることを再確認させられたサラは、絶望の涙を拭いて再び立ち上がらざるをえなくなるのです。

 サラ・コナーのクロニクルズ(年代記)の始まりです。

 わたしには、「宗教的な意味の聖母」を失いかけている米国が求めた新たな聖母(歌手のマドンナじゃないよ)こそが、サラ・コナーなのではないかと思えてなりません。

 今度の聖母が、平和を求めながら、銃を撃ち、傷つき、血を流す女性であるのは、ある意味、数度の負け戦と100年ぶりの内地への攻撃(テロリズム)および経済的疲弊を連続で体験したアメリカが、自分を守ってくれる母を求めているからなのかも知れませんね。

復讐者としてのゴウレム 「銭ゲバ」

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 先頃、「メイちゃんの執事」で銭ゲバについて触れましたが、誤解を招いてはいけないので、この際、ついでではなく、きちんとこの作品について書いておきます。

 その前に……

 わたしは「復讐」に関しては少し過激な意見を持っています。
 今回、勢いで書いてしまいますので、これがわたしの本性だなんて思わないで欲しいのですが……無理でしょうね?

 ともあれ、「銭ゲバ」の現時点における感想です。

 「銭ゲバ」は良いドラマです。

 しかし、それは当たり前。

 まずジョージ秋山の原作が良いし、出演者が某50周年記念番組と違って、演技のできる役者をそろえているのですから。

 加えて、テーマが「復讐」。セケンに対する復讐。

 これで面白くならないワケがない。

 誤解を恐れずにいえば「復讐はすばらしい」。

 かつて、わたしは思っていました。

 スベカラク、男の人生は「復讐に満ちたもの」でなければならない。

 
 対象者がいる場合はソイツに復讐し、もしいなければタイクツな「人生そのもの」に復讐する。

 「それが漢(オトコ)の生き様だ」

 なんてね。そう思っていたのです。

 もうずっと前のことですが。

 今は、そんなふうには思っていません。

 なぜなら、そんな生き方は「正しく」ないからです。

 でも、復讐譚(ふくしゅうたん)は、今でも好きです。

 史上最高の復讐劇「モンテ・クリスト伯」、そして日本で描かれたダントツの復讐コミック「KILLA」(大和和紀)、そして、あのアルフレッド・ベスターの「虎よ!虎よ!」、片目片腕を無くし恋人を犯され血の涙を流して超越者(神)に復讐を誓う「ベルセルク」(三浦健太郎)、高潔にして清廉な父を世紀の犯罪者にした世界を破滅させるため、若き復讐鬼となったエマニュエル・フォン・フォーグラー(ジャイアント・ロボ)……

 繰り返しますが、復讐のストーリーが面白くないわけがない。

 握りしめた拳で地面をたたき、血の涙を流しながら声のかぎりに呪詛(じゅそ)の言葉を叫び続ける。

 そう、恨みに色をつけるとすれば、おそらくは血の色をしているのです。

 その瞬間、漠然と過ごされてきた人生は一変し、ただひとつ、復讐という目的に向かって走り出す。

 おそらく人は、裏切りや激しい絶望感で一度死んでから、復讐者としてよみがえるのでしょう。

 だから、復讐者は、もはや生きている人間ではないのです。

 泥でつくられたゴウレムに似たヒトガタに過ぎない。

 だから、ゴウレム同様、額に貼られた羊皮紙の上のemeth(真理)という文字から、後悔や逡巡(しゅんじゅん)や諦めの涙でeの文字が消えてしまうと、meth(死)を迎えて崩れてしまう。

 復讐とは、裏切られた者の中で滾(たぎ)る怒りと憎しみと無念を混ぜ合わせて爆鳴気(ばくめいき)に近い状態にし、復讐鬼というエンジンに送り込み、回転数を無視してオーバーレヴさせる、地獄への片道切符を貼り付けたレースカーのようなものです。

 ニトロを混ぜたような強力な燃料は、すさまじいエネルギーを捻り出すと同時に、エンジン内部をも傷つけていく……

 やがて、酷使されたエンジンは平均的な寿命より遙かに短く、シリンダヘッドを吹っ飛ばして寿命を迎える。

 燃料が強力で、まわりに与える影響も大きい分、自分の命を削りながら突っ走るのが復讐者の人生なのです。

 その意味で、わたしは、銭ゲバの「脆弱さ」が気になります。

 復讐者たるもの、安易に泣いてはいけません。

 ガッツ(ベルセルク)やキラ・クイーン(KILLA)は決して涙を見せない。

 「地獄にあっては鬼を殺し、天国にあっては仏を殺す」

 自分を愛するものの気持ちを利用し、赦(ゆる)しを与えるものを踏み台にして、復讐を目指し、さらなる高みに上っていく。

 決して、後ろは振り返らない。

 ただ復讐のために。

 それこそが、まっすぐな復讐なのですから。

 余談ながら、わたしが大藪晴彦氏の作品が好きなのは、彼の造る主人公たちが、振り返らず、彼らに不遇を強いた人生に復讐するために、あらゆるものを利用して前に進んでいくからです。

 その意味で、今に至るまでの「大藪賞」受賞作には、すべてがっかりしました。
 それらには、本当の大藪マインドが入った作品がひとつもなかった。

 大藪の主人公は、自分を信じ、愛してくれる者さえも目的のためには斬り捨てていきます。

 伊達邦彦は、犯行後、友人で共犯の真田を眠らせたまま殺害し、朝倉哲也は、物語のラスト近く、日本を出て海外に向かう前に、自分を愛してくれた、どこか自分と似たところのある恋人京子を殴り殺し、その体温が消えていく間、ずっと抱きしめて髪に顔をうずめて離さなかった。

 だが涙は流さない。

 彼らが生きてきた、そして生きていく復讐の闘いの苛烈さが、それを許さないのです。

 彼らの挑む、偽善にみちた既得権力の支配する世の中は、あまりにも強大で冷酷なので、泣いている暇はない。

 その意味で、先に書いたように「銭ゲバ」の蒲郡風太郎は脆弱すぎます。

 泣きすぎる。精神の動揺を安易に顔に出しすぎる。

 そうしないと視聴者が分かってくれない、という事情は分かりますが、復讐者の描き方としては、もう少し頑張って欲しいと思うのです。

 復讐者が泣くのは、額に貼られた羊皮紙の文字からeが消える瞬間、元通りの泥人形に還る最後の時だけで良いのです。そして静かに人生の舞台から去って行けばいい。

 あるいは、復讐を果たした後も、さらなる悪行を続け、自分が滅ぼした相手によって、逆に復讐されるまで突っ走り続ける、それこそが真の復讐劇なのではないでしょうか。

 あとひとつ、原作にあったかどうか定かではないのですが、風太郎が、彼を追い詰める刑事に、妻の手術費を得るために風太郎に頭を下げ「金が全てだ」といわせる場面がありましたね。

 あれなどは、昨今ハヤリの拝金主義、現金至上主義を象徴するエピソードでした。

 わたしも、若い頃なら、あれは仕方ないかなぁと思ったでしょうが、今ならはっきり、刑事のあの行動は間違いだと断言できます。

 「世の中銭ズラ」といいながら、どこか、そうではないことを証明してくれるのではないかと、自分を追い詰める刑事に期待しながら、逆に彼を金で追い詰める主人公、という図式はすばらしいとは思うのですが……

 理由は簡単。

 彼は、妻の命の代償として、頭を下げて金を受け取ったあの瞬間に、刑事として、人として、男としての魂をなくしてしまうからです。

 体は生きているが、本当の意味で、彼はもう生きてはいない。死んでしまっているのですね。

 ああいうタイプの男は、ただ肉体が生きているだけではダメなのです。

 さきのゴウレム同様、彼も額の羊皮紙のeが消えかけた状態で生きている亡霊になる。

 そんな、自分のために「死んだ」夫を間近に見て生きる妻は幸せでしょうか。
 母のために「死んだ」父を見て育つ息子は幸せでしょうか。

 もちろん、これは、わたし個人的見解です。

 違う意見の方も多いでしょう。

 それでも、わたしがホン(脚本)を書くなら、彼には金を断らせ妻を死なせてしまいます。

 そして、事情を知った息子に父を怨ませる。

 風太郎は、馬鹿な男だと刑事を馬鹿にしながら、どこか嬉しそうな顔をする。

 なぜなら、彼はもう大金を手に入れてしまったからです。

 復讐は終わってしまった。

 もう彼の額のeの文字は消えかけているのです。

 空転する高出力のエンジンは、心に負荷をかけます。

 はやく、この一幕劇を終わらせて欲しい。

 だからこそ、刑事の拒絶が、彼には腹立たしく嬉しかったのだ……なんてね。

 でも、それじゃあ、一般の人々の共感を得られないんだろうな。

 ああ、そうです。

 あとひとつ。このことについては、ぜひ書いておかねばなりません。

 それは、蒲郡風太郎が、復讐を決意するのが「幼少時」であるということです。

 エドモン・ダンテスも、ガリィ・フォイルも、ガッツも、大人になってから裏切られ復讐を誓います。

 人格が定まっていない時期に、貧乏ゆえ母を亡くし、「金が全てである」と信じた風太郎の決意が、大人になってからブレだすのは仕方がないのかも知れません。

 長く人生を生きれば分かって来ますが(いや、そのはずです。その割に、分かっていない老人が多すぎる気がしますが)、本当の話、金は全て、金は万能ではないのですから。

(現代社会を生きていく上で、絶対に必要で、大切で、あれば女性にもモテる[らしい]し、無くなれば次の瞬間から困るほど重要なものであるのは確かですが、万能でも全てでもなく、あればレストランに入った時にメニューの値段表を見ずに注文できる程度のモノに過ぎなく、ありすぎれば妙なものをいっぱい連れてくるヤッカイなモノであるだけです)

 「世の中銭ズラ!」

 蒲郡風太郎は、その価値観を再確認するために、あからさまに金で人を試し、釣ろうとしているのです。

 子供の頃の「狭い世界観での決意」というのが、風太郎の不幸でもあるのですね。

 ほとんどの人間は、育つにつれて、その価値観からブレていくでしょうから。(あの、多くの人が持ち上げてヒーロー視した「ホリエモン」も、ブレていないフリをしていただけです)

 生きたまま、母の死体とともに埋葬され、森羅万象すべてを憎んでいるキラ・クイーンは別格としても。

 ともかく、まだドラマは終わっていません。

 この刑事のエピソードが、なにかの伏線で、最後の打ち上げ花火となってすばらしい大団円を迎えないとも限らない。

 それを見届けるためにも、「銭ゲバ」、あと少し見守りたいと思っています。

豪快な弥次喜多道中 ~素浪人 花山大吉~

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先月よりCS時代劇専門チャンネルにて、「素浪人 花山大吉」が始まりました。

 近衛十四郎演じる花山大吉は、子供の頃からわたしのヒーローでした。

 オリジナル小説を読んでいただいた方にはお分かりのように、ある事情から、推理モノを書かねばならなかったため、わたしの時代物は、どうしても岡っ引き中心になってしまっていますが、本当に書きたいもののひとつは、この「素浪人~」のように風任せに各地を放浪しつつ、行く先々で事件に巻き込まれるロードムービー時代劇なのです。

 もともとは、前作の「月影兵庫」の続編として作られた作品ですが、なぜか、わたしは、こちらの方が好きです。

 おそらく、回を重ねることで「予定調和」が練れて、ストーリー展開が、日本人にとって心地よいものになっていったからでしょう。

「月影兵庫」は、昔からある「マタタビもの」と、頭のキレる風来坊が主役の世界のクロサワ作「椿三十郎」あたりからテレビの制作サイドがインスパイアされ、ついでに弥次喜多道中のような凸凹(デコボコ)コンビの珍道中を描くようになってしまったあげく、原作者、南條範夫(あの「シグルイ」の原作者です)が、思い描いていた「渋い浪人の放浪話」という設定から逸脱しすぎたため、ついに作者からクレームがついて、放送終了になってしまったといいます。

 その設定をほぼ引き継いだ「花山大吉」は、最初から、そういった「作者の思惑」から解放されて、全開でコメディ時代劇道を疾走します。

 その結果、ホンペン(映画)からやってきたスタッフと芸達者な脇役をふんだんに用いて作られたこの作品は、最高にポップでキッチュ?な名作に仕上がりました。

 子供の頃は「どうしてオヤジにまったく似ていないのだろう?」と不思議に思っていた兄の松方弘樹や弟の目黒祐樹が、今みるとすごく近衛十四郎に似てきているのも嬉しい発見です(実のところ松方は、一時、花山大吉を演じたことがありますが)。

 いまだ健在(77歳)の、ハンサムな三枚目お人好しの旅ガラス「焼津の半次」を演じた品川隆二氏が、シリーズ放送を記念したインタビューに答えて、「コメディーの形で(近衛さんと)むき出しの闘争をしていた。NGは出した方が負け。その緊張感があったから続いたと思う」と語っておられますが、まさしくその通り、マンザイでもわかるように、二人の掛け合いで作られる、良いコメディは、抜き身の刀をつばぜり合いしつつ鎬(しのぎ)を削る真剣勝負です。

 森田 新の脚本も良い。

 オープニング・テーマを歌う、若き日の北島三郎の伸びのある高音もすばらしい。

 時代劇専門チャンネルを視聴できる方は、ぜひ、ご覧になってください。

 確かにレトロで、ステレオタイプで、パターンで予定調和的ではあるのもの、ある意味「完成された時代劇」がここには存在していますから。

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