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あー終わった良かったオリムピック

 終わりましたねぇ。やっと終わりました。

 オリムピックが。

 実際、アレの開催中は、某放送協会の週間番組が突然無くなるので困るのです。

 差し障りがあれば、あらかじ謝罪しておきますが、個人的に、昔からこのテのイベント、体を異常変形させたアスリートと呼ばれる人たちのカケっこ(今回はスベリっこ)やトビッこなどにはあまり興味がありません。

 身体的にできない方もおられるでしょうから一概にはいえませんが、スポーツは自分でやってこそ楽しく意味がある。

 だいたい、大げさ過ぎるんですね。

 選手団の映像を見つめる、作り笑い(にしかみえない)アナウンサーや批評芸人(コメンテーターとも)の目を細めた激励顔も不愉快だし、番組編成が変わるのも迷惑なだけです。

 そもそも、公共放送のニュースのヘッドラインが、競技結果というのがわからない。
 アメリカ万歳テキ発言はしたくないのですが、CNNなんかだと絶対そんなことないんですね。

 オリンピックのメダルは「ニュース」ではない、という扱いです。

 本来、それが正しいと思うのですが、日本は違いますね。

 どうも、ニッポンは、明治以来、戦後の復興期を含めて、外国に対する劣等感をメダルの数で払拭するのに躍起となっているようです。

 男としての自信のなさを女の数で示そうとしているドンファンのようですね。

 大衆の顔色を見て迎合する、マスコミのあおりもよくない。

 氷上ビーダマのカーリングセンシュダンにつけられた、クリスタルだかクリステルだかのネーミングも浅薄でよくわからんし……

 冬の場合は、スキー板などの道具を使ってやる競技が多いので、まだ観ていて納得できるものもありますが、100m走や水泳なんてのは、いかにヒトが頑張っても、走ることや泳ぐことに特化されたチーターやトビウオにかなうわけもない。

 オリピアードで意味があるのは、現実の政治や戦争やテロリズムと違って、さまざまな人種国籍のヒト科のイキモノが「条件を同じにして」競える場所を作り出せたことだけだと思います。

 そのわりに、バレーボールやバスケットなど、明らかに体格による階級制にすべきスポーツが、相変わらず、並外れて巨大な男と女有利の、不平等な条件下で行われているのは奇妙ではありますが……

 あと、しばらく前から疑問に思っているのですが、どうしてメダルをカジルんでしょうね。

 いつからカジるようになったのかな?

 行儀悪く、頭悪く、バカっぽく見えるから辞めた方が良いと思うがなぁ。

 それで思い出した。

 今回のオリンピックで面白かったことが2つあります。

 一つは、リュージュ男子一人乗りで銀メダルを取ったドイツの選手(ダビッド・メラー)が、「カメラマンの要望に応えて」メダルをカジったところ、歯が欠けたという記事です↓(毎日新聞より)。

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 あれってマスコミが、指示してさせてるんだなぁ。

 もうひとつは、終わってから知った「スノーボード選手の服装問題?」です。

 あれは面白い問題を含んでますね。

 そもそも、ボード関係のプレイヤーは、同時にサブカルチャー、いやカウンターカルチャーの体現者でもあります。

 いわゆる常識をくつがえした行動をとりたがる文化を持っている。

 だから、服装もダラシないし態度も悪い(ようにみえる)。

 写真を撮る時は、わざと顔をしかめ中指を突き立てる(とまで書くと偏見かな)。

 だいたい、問題となったカレ(名前は忘れましたが)は、プロフェッショナル・プレイヤーで、そういったファッション・態度をひっくるめて、ファンがあこがれ、それで金を稼いでいるわけです。

 ここで、ぜひ、一人の男の話をしておかねばなりません。

 トニー谷という芸人をご存じでしょうか?

 1950年代に、一世を風靡したボードビリアンです↓(村松友視著「トニー谷、ざんす」より)。

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 ご覧のように、キザなロイド眼鏡にキザな服装、そろばんをシャカシャカ振りながら「さいざんす」や「家庭の事情」などのキメ言葉を連発し、徹底した「嫌われ人気」で150本もの映画出演を果たした彼の人気が失墜した原因を知っていますか(飽きられたということは別にして)?

 それは、スチャラカお調子者的イイカゲン人間として人気絶頂だった彼が、愛息が誘拐された時に見せた、親としての真摯な態度、苦悩する姿だったのです。

 報道されたその姿を見て、「なんだ、トニーって、フツーのまじめなヤツジャン」と、大衆のトニー熱は一気に冷め、子供は無事に戻ったものの、以後、彼の人気は二度と当時の勢いを取り戻すことはなかった。

 つまり、プロである限り、スノーボーダーとしての技量とともに、イメージも大切だということです。

 あのルーズさがカッコイイ!と思っているファンの幻想を、オリンピックの選手になったからといって、安易に裏切ることはできない。

 それを、オリンピアードの競技になったから、また、代表選手に選ばれたから、シャツをズボンに押し込みなさいってのはどうなんでしょうねぇ。

 そりゃ、選手団に税金は使われてますよ。

 学校のように、勉強とともに集団生活の練習をする場所なら、決められたルールは守られるべきだし、それを「個性」だといって自由にさせるのは、間違っているかどうかは分かりませんが、わたしは嫌いです。

 小学生の子供の髪を金髪に染めさせている親が近所に住んでいますが、おそらく、あれはバカでしょう。

 しかし、カレは、その身体能力を買われ、請われて選手団に入っているわけですから、だらしなくない服装を、強要するのはどうかと思います。

 もちろん、彼も入団?することを了承したのですから、選手団としてのルールは守るべきという意見もあるでしょう。

 難しい問題です。

 個人的には、カレはあのままにしておいて、最近のテレビジョンが大好きで、そのわりによく間違って番組終了時にアナウンサーが頭を下げることの多い「テロップ」を使って、彼の映像の下に「このヒトはこういう文化を体現するスポーツ選手なので、こんな服装をしていますが、よゐこは真似をしないように」とでも書いておけばよいのではないかと思います。

 長くなってしまいました。

 本当は、特に最近問題となってきている「子供の性同一障害」を、オリンピアードのたびに問題となる選手の性判定(セックスチェック)と共に書こうと思っていたのですが、それは、また別項にゆずることにします。

因幡ならぬ板の上の皮膚兎(ヒフウサギ)

 何日か前に、高知工科大と東大の研究チームが、通常は、つながった?皮膚の上で起こるとされてきた「皮膚兎(ヒフウサギ)」現象が、手にした板の上でも生じることを発見した、との報道がありました。

 でも、これじゃ何のことがサッパリわからない。

 そもそもヒフウサギってナニ?

 あの「因幡(イナバ)の白兎」同様、ワニ(=サメ)をダマして向こう岸に行こうとして失敗し、皮をむかれた兎のこと?

 あとで大黒様に助けてもらう。

 いえいえ。

 人間の皮膚で、10センチほど離れたA点とB点を「あるタイミング」で刺激すると、ナニもないはずのその間に、まるで兎が走っていくような刺激を感じるという現象です。

 皮膚まるだしの、裸ん坊の兎のことじゃなかったんですね。

 まあ、こういった現象なら何となくわかります。

 皮膚の離れた場所に電気刺激などで刺激を与える、つまりA点を二回刺激(0.8秒間隔)した直後にB点を一回刺激すると、A→Bへ「存在しない」刺激が走る、それは脳が錯覚するからなのでしょう。

 実際、その際の脳内の神経活動は、すでに解明されているそうです。

 でも、それだけじゃあ、ここで紹介する意味がありません。

 だいたい、ヒトの体の感覚器ってのは、ひどく面白いものなんですから。

 爪楊枝で皮膚を軽くついた時、痛く感じる時と、冷たく(熱く)感じる時があるのはご存じでしょう。

 皮膚の上にバラまかれたセンサーのうち、痛点をつけば痛みを感じ、圧点を押せば、圧力を、温点をつけば暖かく、冷点をつけば冷たく感じる。

 これも考えてみれば、当たり前のようですが、不思議なことです。

 今、話題の3D映画も、ヒトの最大の感覚器、目の錯覚を利用して立体感を感じさせるものですし、マネキン頭部の耳の部分にマイクを仕込んで、立体音を録音する「バイノーラル録音技術」も聴覚の錯覚を利用していますしね。

 今回、このヒフウサギを紹介したのは、上でも書いたように「手にしたモノの上を兎が走る」からです。

 具体的にいえば、両手の人差し指を前に突き出し、その上に薄い板をのせて、上と同様の刺激を左右の人差し指に与えると、まるで「板の上を兎が走る」ように感じるというのです。

 なんだかスゴイ話ですね。

 一見、足や腕を切断した時に感じる「幻肢」に似ている気もしますが、今まであったものがなくなった後もその存在を感じているのではなく、もともとないトコロ(しかも無機物)に刺激を感じているのですから、その意味は根本的に違います。

 研究チームの教授は、
「ヒトの脳は道具を体の延長のように認識するという従来の学説の直接的な証拠となる」
といい、仕組みを解明すれば、体になじみやすい義手などの福祉装具や、ロボット遠隔操作の技術に貢献できると期待しているそうです。

 実験結果で、特に面白いのは、左右の人差し指に「板をのせず」刺激だけ与えても兎は走らないということです。

 人間の脳が、「今、ワタシの左右の人差し指は板でつながっているのだ」と認識していないと、ウサちゃんは走ってくれないのですね。

 どことなく、精神分析でいう「拡張自我」に似ているような気がします。

 よく、スポーツ選手が、バットやラケットの先まで神経が通っているような気がする、ということがありますが、それはこういった現象と関係しているのかもしれません。

 個人的には、もともとヒトは、感覚を体の外へのばすことができるイキモノだと思っているので、あまり驚きませんが。

 その事については、後に書かせていただきます。

単一でない強み トヨタリコール問題に思う

 先日、PS2本体が手に入ったので、前からやってみろといわれていたゲームを連続でクリアしている間に、あっという間に一週間が経ってしまいました。

 バイオハザード4が、案外面白かったのに驚いています。
 今さらながら、メタルギアソリッド3「スネークイーター」のドラマ性には脱帽しました。

 それはともかく、今回の本題にはいります。

 万古焼きの「炊飯土鍋」を買いました。

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 普段は、圧力鍋に素焼きの内釜をいれて50分加熱した、0分づき玄米を食べているのですが、忙しかったりすると手抜きで白米を食べることがあります。

 数年前に、大枚はたいて買ったガスレンジは、左がエコバーナーで、右がセンサー付き自動炊飯可能なものだったのですが、普段使っているル・クルーゼで、ご飯を炊くと、側についていないと激しく吹きこぼれてしまうのです。

 専用のステンレス製のものが売られているのですが、やたらと値段が高い。

 玄米食にする前は、アウトドア用のコンロ数台を使い回して白飯を炊いていたので、側について、火加減をみたり、蓋を開けたりすること自体は、どうということはないのですが、せっかくの自動ガス炊飯機能がもったいない気がします。

 そこで、安い土鍋製の炊飯釜を買おうと思ったのですが、安いものは、ほとんどが中国製です。

 偏見はないつもりですが、中国製のものには、多少の不安があるので(特に食器関係は)手を出せずにいたのですが、先日、近くのスーパーの閉店セールに出かけた際に、四日市万古焼きの炊飯釜(100%日本製)を見つけけたので買ったのです。

 これで、月に数回の贅沢である、白飯日に銀シャリを炊いたところ、もう完璧。

 すばらしくタッテましたよ、米が。

 というわけで、これからが第二の本題です。

 前から、何度か書いていますが、うちには電子レンジがありません。電磁波を出すのは、家で10台近く稼働しているコンピュータだけで十分だと思うからです。

 IH調理器は10年ほど前に興味があって買いましたが、2回ほど使っただけでした。
 一応捨てずに、持っているのは、ライフラインの一つが切れた時の、フェイルセーフ用です。

 オール電化というのは、どうも気に入らない。
「電気が切れたらお手上げ」というのには抵抗があります。

 で、数えてみると、結果として我が家には、

 ガソリンコンロ
 アルコールバーナー
 ケロシン(灯油)コンロ
 カセットガスコンロ
 ガスコンロ、
 IH加熱器
 ついでに書いておくと、小さい薪ストーブとサイフォン・コーヒー用のアルコールランプ、備長炭用折りたたみ台

の、9種類の熱源があることになります。

 たったひとつのエネルギーに頼っていない、という点で安心感がある。

 「ウチは電気!、これだけ」というのは、響きは良いのですが危険です(むかし「これだけ手帳」なんてのもありました)。

 生き物も同様。

 ある生き物が「種として長生き」していくために必要なものは「多様性」です。

 多くの生き物が性別を持ち、遺伝子を混ぜ合わせつつ、子孫を残す。

 あるいは、一個の生命が延々と生き続けるのではなく、限られた寿命を生きつつ、数年~数十年スパンで個体が死ぬことで知識をリセットし、子孫に「遺伝情報のみ」を託すのも、多様性を維持するために行っていることです(文字が発明されてからは、知識も残されるようになりましたが……)。

 なぜ、それほどまでに、つまり、ある程度智恵のある、どんな生き物でも持つであろう、「生きている限りはずっと生き続けたい」という欲望を断ち切ってまで、多様性を持ちたがるのか?

 それは、1個の生命としてではなく、「種として」より長く生き残りたいからです。

 もし、たった一つの遺伝子「生命の設計図」で、全ての犬が作られていたなら、たった一回のウイルス感染で、その種が全滅することがある。

 何の話をしていると思いますか?

 じつは、近頃問題になっている、トヨタ自動車のリコール問題の話なんです。

 CNNなどを見ていると、今、アメリカを席捲しているのは、アフガン問題でも国民皆保険問題でも、ましてや日本の基地問題ではなく、トヨタのリコール問題です。

 GMやフォードといった(アメリカの)国産会社を後押ししたいという、地元選出議員の思惑もあるでしょうが、マスコミを含めたトヨタバッシングはすさまじいものがあります。実際、トヨタの対応もあまり良くなかった。

 しかし、いま、わたしが問題にしたいのは、トヨタが、外観と値段はそれぞれに違っても、コストダウンを求めるあまり、ほとんどの車に共通部品を使っていたということです。

 そんな事をすれば、ひとつの部品に欠陥が生じれば、ほとんどの車にリコールが発生してしまうということぐらい、見当がつくだろうに。

 それは心配ない。間違いのない「精度の高い製品をつくれば良いのだ」という理想論は、外国工場による外国部品の多用では、望むべくもないことです(たとえ、それが貿易摩擦を減らすためだったとしても)。

「多様性を犠牲にしてコスト削減をはかる」、大トヨタのオエライ人々をして、そういった間違いをおかさせたのは、市場競争の急激な国際化に慌てすぎ、低価格競争に走りすぎたからでしょう。

 そして、大切な信用を失った。

 信用は金では買えないのに。

 まあ、考えてみれば、トヨタという会社自体、そういった間違いを、するべくして発展してきた会社のような気がします。

 個人的にトヨタは好きではないので、トヨタ車を一度も所有したことはありませんが、だいたい在庫を持ないという、倉庫業を圧迫し下請けを泣かせる「トヨタシステム」を考え出した時点で、行き着く先は見えていました。

 あげく、部品の多様性を犠牲にして、低コスト化に走り、結果、大リコールというのはいただけませんね。

 ボンボン社長っぽい、豊田氏の対応の遅さもイタかった。

 持ち主も、自分の高級車と大衆車が「同じ部品」を使っていたなんて知らなかったのでしょうね。

 ともかく、人件費の安いアジア諸国の製品と価格競争するより、より良い製品をつくることで、一刻も早く信用の回復をはかることが、トヨタに課せられた急務でしょう。

 まずは、直近の、トヨタ社長の公聴会発言が、その第一歩となるのでしょうが、大丈夫かなぁ。カレ、失言はしないだろうなぁ。

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