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孤独な超人 ~ハンコック~

 チャールトン・ヘストン主演、エリナ・パーカーヒロインの映画に「Naked Jungle」:邦題「黒い絨毯」という作品がある。

 ブラジルの奥地で、数十年に一度、すべてを覆い尽くし喰らいつくす蟻の大集団(マラブンタ)と闘う男の話で、わたしの大好きな作品だ。

 まあ、一種のパニックものであるが、この映画のアクション部分が好きなわけではない。

 時代は二十世紀の初頭、赤貧の中から単身南米に渡り、命をかけて大プランテーションを作り上げた男が、アメリカから花嫁を迎えるところから始まる。

 物語は、男に一度も会うことのないまま花嫁(エリナ・パーカー)となったヒロインの視点で描かれる。

 美しく教養もあり、男勝りなヒロイン(といったって、イマふうののガサツ女には描かれてはいないよ、凛とした芯の強さね)の目に映る男は、一見、精悍で傍若無人、超のつく自信家で乱暴者であるが、それは繊細で純情、夢想家の内面を隠すための仮面であることを、聡明な(そして若すぎない)彼女は、すぐに見抜いたのだった。

 ジャングルのまっただ中に建つ豪邸の、膨大な蔵書数を誇る書斎で彼女は尋ねる。
「誰の作品がお好き?」
「知らない。読んだことがないんだ。アメリカに金を送って、本を五百キロ送るように頼んだだけだ」
「それは嘘。本に細かい書き込みがいっぱいしてあるもの」
「……その通りだ。全部読んでいる。だが、この土地では、本が好きというだけでナメられる。ナメられたら命が危ないんだ」

 一目でヒロインに惹かれる男。
 だが男はヒロインが寡婦(つまり再婚)であったことを知って彼女を拒絶する。

「この家は新築だ。来るべき花嫁のために建てた。ベッドもカーテンも新品。このグランドピアノも新品だ。誰も弾いたことがない。それに……他の男は土地の女を買っていたが俺は嫌だった。そんなことはしたくはなかったんだ。周りの者は俺をバカだと思っていただろう。だが、俺は、俺の周りをまっさらなもので満たしたかった。だから、そうした。全てが新品。ただ、花嫁以外は」
 裏切られた思いに顔を歪める男に、ヒロインは決然と言い放つ。
「音楽をする人なら必ず知っています。ピアノは弾くほどに良い音を出すことを。このピアノは良いピアノとは言えません」
「とにかく、次の船でアメリカへ帰ってくれ」
 そこでエリナ・パーカーは、哀れみの目で男に言う。
「可愛そうに。なんて孤独な人……」

 そう、これは孤独な男の話なのだ。
 そして、どうやら、わたしは孤独な男の話が好きなようだ。

 もうひとつ。
 コナン・ドイルの(ホームズものでない)短編に、力も金も権力もある田舎貴族の暴君の話がある。

 大男で乱暴者で誰からも恐れられていた貴族は、ある女性に恋をして変わった。

 それまでの乱暴さが影を潜め、荒ぶる魂を抑えるようになったのだ。

 やがて、女性は病気で死ぬ。
 死ぬ直前まで、彼女は、夫の行く末を案じていた。
 彼女は、自分が彼の外部良心、ピノキオに例えればコオロギのジェミニィ・クリケットであることを知っていたのだ。だから自分の死後、夫が元通りの乱暴者になることを恐れた。
 周りの者もそれを恐れた。

 しかしながら、妻の死後も、人々の危惧した変化は起こらず、彼は静かなままだった。

 ただ、以前より無口になり、一日に数時間、妻が暮らしていた塔で過ごすようになっただけだ。

 ある時、青年が屋敷を訪れる。
 彼は屋敷内を歩き回るうち、塔から女性の声が聞こえるのを耳にした。
 暴君に尋ねても要領を得ぬ解答しか得られない彼は、やがて声の女性が閉じこめられていると判断し、塔に忍び込むのだが、事実は……という話だ。

 わたしは、この男の孤独さに胸を打たれる。
 孤独ゆえに暴君となり、それを自覚することを否定して絶望し、さらに孤独となる悪循環。

 余談になるが、わたし個人としては、外部に自分を律する規律を持つべきではないと考えている。

 願わくば、行動の基本ルールは自分の中に持っていたいものだ。

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 さて「ハンコック」

 この映画も孤独な男の話だ。

 例えて言えば、ロイス・レーンのいないスーパーマン。
 J.Jをなくしたスパイダーマン。

 孤独でガサツで乱暴者で、アル中のスーパーヒーロー。

 だが、魅力的だ。

 なにより、この男の孤独ぶりがいい。

 良心と善意で行う行為が、人々に認められず、年を取らない肉体と相まって孤独感を強め、荒れ続けている男。

 ちょっと悪人を懲らしめる行為が乱暴過ぎる点に制作者のあざとさを感じてしまうが、それはまあいい。

 自暴自棄になるほどに孤独なのだ、と納得することもできる。

 そう、結論から言わせてもらうと「ハンコック」はいい。

 ただし、前半だけは。

 後半になって、ハンコックが実際は独りではなく、彼より強い(いかにもイマドキ流行の、まるでターミネーター3やMR&MRSスミスに出てくるように乱暴者の、あんなのを見ていると、最近の女性は、オトコになりたがっているに違いない、と思ってしまう)スーパーガールが現れた時点で興味は失せた。

 それが、この映画の意外性だというなら、そんなものはいらない。

 男なら男、女なら女で、徹頭徹尾ただ独りの孤独なヒーローを創って欲しかった。

 どうも、W・スミス、あるいは彼のエージェントは、そういった孤独癖のある主人公が好きらしい。

 ただ、それも行きすぎると、「I am Regend」のような、観終わって「なんかスッキリせんな」という作品になってしまうのだろうな。

 そうそう、この作品の中で、印象に残った言葉は、ヒロインがハンコックに言う台詞だ。

「あなたは、神が地球のために残した最後の保険なのよ」

 あるいは、ハンコックの異常なまでの力は、地球そのものから得ている力なのかも知れない。

 そう考えるうち、ふと、関口シュンのコミック「地球力者ジーマ」を思い出してしまった。
 (地球力者というコトバを創り出した時点で、わたしはこの作者を尊敬しているのだ) 

 彼は、ガイア理論のいう、生命としての地球が渡すエネルギーで不老不死・不死身な男、なのかも。
 (スーパーマンは太陽系の黄色い太陽エネルギーのおかげで不死身なのだった)

 いずれにせよ、ハンコックはスーパーマンから生まれたヒーローであることに違いはない。
 (サイトで観ても、今はやりのマーベルものではなさそうだし、オリジナルなんだな)

 スーパーマンにとって、彼の力どころか命さえ奪う故郷のカケラ:クリプトナイトが、ハンコックにとってはアレだったのだな。(観た人はお分かりでしょう)

 しかし、今回のは敵が一般人で、弱すぎたな。

 かといって、銀河からやってきた悪の尖兵(ファンタスティック・フォー2)っていうのじゃ、ステロタイプ過ぎるしね。

 続編があるなら、敵作りが難しいだろうね(作らないかもしれないけど)。

帰ってきたGO! ~スピードレーサー~

 いよいよ、あのマッハGO!GO!GO!実写版が劇場版「スピードレーサー」として日本に帰ってくる。

 英語公式サイト

 しかも、三船オヤジ=ジョン・グッドマン、お母さん=ス-ザン・サランドン、ミッチ(向こうではトリクシー)=クリスティーナ・リッチという、ワケの分からない豪華俳優陣で。

 しかしジョン・グッドマンってアニメ顔なのかね。
 ヤバダバドゥーのフリント・ストーンもそっくりだったが、今回の三船オヤジも、もうやめてっていうくらい似てる……、というか、実写であんな顔の人存在するんだなぁ。

 予告で観る限り、クリオ(弟)とサンペイ(サル)が、マッハ号のトランクに隠れているところを見つかるという、お約束のシーンも正確に再現されている。

 愛川欣也が二枚目の声を演じていた覆面レーサー(最近、再放送を観るまで気がつかなかった。覆面レーサーがニャンコ先生だよあんた)も、あのマスクそのままにきっちり出演しているのだ。

 確か、スピードレーサーの主題歌も曲は日本と同じで、歌詞だけ英語に代わっていたはずだが、今回の映画では新しい曲になるようだ。
 あるいは、スパイダーマンやバットマンのように、エンディングの途中でちょっとだけオリジナルが流れるのかもしれない。

 残念ながら、 トレーラーを観てもらえばわかるように、画は、CGっぽく作りすぎた、悪しきコミック実写融合ムービー(たとえばロジャー・ラビットのような)的粗悪なものになっている。

 車の走りもつるつる滑る感じの嘘っぽい映像なので、最初は、ヘルメットを被ってバーチャルレース場でレースをする設定なのかと思ったほどだ。

 ミフネのオヤジが、ニンジャに襲われて、テキを頭上でくるくるまわすところなど、原作に忠実なのは良いが、ジッサイに実写で、それをされるとチトきつい。

 アニメ版は、原作の吉田竜夫や総監督の笹川ひろしといったスタッフが運転免許を持っていなかった(時代だねぇ)ため、自動車やレースについて知識もなく、ために荒唐無稽なハナシを生み出したといわれているが、21世紀になって、それをマンマ映像化するのもいかがなものか……。

 監督が、嘘くさい映像が得意の、ワシャワシャ兄弟(マトリクス三部作の)だから仕方がないような気もするけど。

 まあ、来たら観に行きますけどね。

 ところで、「銃夢」って今どうなってました?
 たしかJ・キャメロンが映画化するんでしたよね。

いらっしゃいませ、そして永遠にさようなら スウィニー・トッド~フリート街の悪魔の理髪師~

もともとは、英国で150年以上も前に書かれ、これまで何度も小説、舞台やミュージカル、映画などの題材になっている殺人鬼の物語を映画化した作品だ。

 監督は、ティム・バートン、主演はジョニー・デップ、ヒロインは監督の妻ヘレナ・ボナム=カーター。

 まあ、バートン監督は「スリーピィ・ホロゥ」などの怪奇モノが好きだし、この作品が以前に映画化されたときも(1997年:ベン・キングスレー主演)、ぜひやりたいと言っていたそうだ。(その時は、不幸にもスケジュールが合わなかったらしい)

 喧噪の大都会に潜む殺人鬼、そして殺した者の肉を客に食べさせるカニバリズム。
 大衆の下世話な欲望を心地よく刺激する内容だけに、多くのクリエイターが、これを自分なりに表現しようとしてきた。

 演劇、映画、舞台……そして、その度に制作者は新しい解釈を試みる。
 まあ一種のクラシックですね。スジは決まっているけど、ちょっと変えてみる。

 オペラなんぞでも、そういった解釈違いで新作ってのはままある。

 いわば「雑巾を絞って大海を生みだす」というやつです。

(この間、プッチーニの悲劇「ラ・ボエーム」を第二次大戦下のドイツという設定でやっているのを観たが、あれはひどかった。なんか、とにかく新しくしたいから、とりあえずやってみました感がアリアリby takanotume)

 さて、この映画、結論から言いますと……わたしは好きです。

 名作、とは言えないまでも、観て損は……しない多分。

 原作では、ただ意味もなくヒゲを剃るフリをして無差別に首を切り裂く殺人者だったスウィニー・トッドが、この映画では、権力者に妻を奪われ娘をとられた復讐者として殺人を犯す。

 そのため視聴者は殺人者に感情移入することができる。

 最近の舞台等のリメイクでは、時代(産業革命下の英国、人間の労働力化、個人の否定等)に押しつぶされた故の殺人者として扱われることが多いそうだが、この映画ではそんなことはない。

 彼は復讐者なのだ。

 ああ、それより、先に言っておかないと。この映画はミュージカルです。
 わたしは知らずに見て驚いた。
 後で調べてみたら、ブロードウェイの舞台でも人気を博している作品で、日本でも宮本亜門あたりが演出しているらしい。

 冒頭、若き船乗りが、煙にけむる(「霧にけむる」じゃない。19世紀のロンドンは霧でなく暖炉の煙でケムっていたのだ)退廃したロンドンを見て、イキナリ歌を歌い出してびっくり。

 「この街は驚くことばかり~」

 すぐに背後から、眼に隈をつくり、メッシュに白髪化したデップが歌を重ねる。
 「若い君は知らない。この街の腐敗を~」

 話す声と歌声が同じに聞こえたから、吹き替えじゃないと思うけど、ジッサイはどうなんだろう。多分歌っているんだろうな、本人が。

 歌詞は不吉なものの、曲は甘く美しい……。まるで、「マイフェアレディ」の「君住む街」のような。

 ロンドンの街に降り立ったデップは、船乗りと別れ、もともとの住まいであったフリート街に行き……、一階の、ゴキブリだらけの店でパイを作るラベット婦人(ヘレナ・ボナム=カーター)に出会う。

 後に人肉でミートパイをつくるラベット婦人をヘレナ・ボナム=カーターが好演している。目に隈をつくって、ナイトメア・ビフォア・クリスマスのサリーそっくり。

 まあ、この人は、かのフランケンシュタイン(ロバート・デニーロのやつ)で、無理矢理生き返らせられた人造人間の役を熱演した女優だから、いかにもティム・バートン好みなんだろうな。ふたりは結婚もしているし。

 いや、ジッサイ、この冷酷でホットで、冷たくて人情家で、そして非道徳的で情熱家な女性が良い。

 この映画の魅力は、彼女がすべてだと言って良いほどだ。

 床屋の美しい妻に横恋慕した判事(アラン・リックマン!ダイハードマンの最初にして最大の敵:好きです)に無実の罪で投獄され、妻を奪われ(のち服毒自殺)娘をとられ、何もかも失って帰って来た男……彼女はずっと前から、ハンサムな彼のことが大好きだったのだ。

 最初の殺人を犯したデップに「なぜ殺したの」と詰め寄りながら、「俺をゆすったのだ」と彼が答えた途端「じゃ、殺されて当然ね」

 こういった、ちょっと舞台くさい演出も、役者の力量もあって気にならない。

「死体をどうしようかしら。肉がもったいないわ~」
「**婦人の店はミートパイが人気。でも、店の近くのネコがどんどんいなくなっている。ネコは身が少ないから一匹でパイ4,5個。でもこの肉なら~無駄にするのはもったいないわ~」

 もちろん歌ってます。しかも、明るく、美しい曲にのせて……

 原作で、通りの向かいにあった肉入りパイの店は、床屋の一階に移された。
 そのおかげで、二階で殺してすぐに、新鮮な肉が秘密の装置を使って地下の厨房に逆さ落としにされる演出が可能になった。
 この装置が、あのバットマン(ティム・バートン監督)の出撃マシンによく似ていて笑わせる。

 この映画の一番の収穫は、中盤、偶然からヒゲをそりにやってきて、特製殺人椅子に腰掛けたアラン・リックマンの喉に鋭い刃物を当てながら、白い喉を掻き斬る瞬間を楽しみつつデップが歌い、リックマンはリックマンで、育ての娘(床屋の娘)と結婚する夢を見つつ歌って、やがてデップとリックマンがハモりながら(違う歌詞を)美しく歌う場面だ。

 だって、ジョニー・デップとアラン・リックマンが地声で歌ってハモってるんですぜ、ダンナ。

 なんだか涙出そうになりましたわ。

 これほどきっちりと同床異夢を映像化したシーンって、かつて無いのではないかな?

 やがて……

 途中、それとは知らずにデップの娘と恋に落ちた船乗りを巻き込んで、止めようもなく話は進み……唐突におわる。

 そう終わらないと、しようがない終わり方で。

 復讐は果たされ、殺人者には死が。

 少し、、ザンコクなシーンはあります。が、観て損はしないような気がちょっとはすると思うと言い切れればいいな、と思うこのごろであります。

 ときたま眼を覆いながら観れば大丈夫。機会があれば、観てください。

●もうひとつ、好きなシーンをご紹介。

 人肉入りパイが大評判になって金がどんどん儲かり出すと、ラベット婦人は、デップと下働きの小僧をつれてピクニックに出ます。(不健康で、顔は黒く眼には隈のある二人、これほど日光が似合わないカップルも珍しいのに)

 そこで、彼女は、将来の夢を語り歌を歌います。

 その想像の中の映像がいい。

 明るく爽やかで、でもちょっと現実味が薄い。なぜなら明る過ぎ、美し過ぎる映像だから。どこかで見た画だな、と思ったら、同じくバートン監督の男のおとぎ話「ビッグフィッシュ」の映像そっくりだった。彼の、イマジナリィ・ワールドはあんな非現実感のある色彩なんだろうなぁ。

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