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教科書でならった「信貴山縁起絵巻」って、どんなモノ?2

さて、信貴山縁起(しぎさんえんぎ)絵巻ですが、これは、いわゆる国宝ですね。

 平安時代末期に書かれた絵巻物の代表傑作だといわれています。

 タイトルからすると「どうやってこの寺ができたか」の記録のようですが、実際は聖徳太子は登場せず、信貴山中興の祖とされる僧、命蓮(みょうれん)の説話を、コマ割りのないマンガのように時系列にならべた絵巻物です。

 作者は不詳。

 この絵巻物を鳥獣戯画図同様「日本漫画の祖」と考える人もいるようです。

 巻物は三巻あり、

1.山崎長者の巻(飛倉の巻)

2.延喜加持の巻:

3.尼公(あまぎみ)の巻

 いずれも、命蓮を中心に話が進んでいきます。

 今年は12年に一度の寅年のため、冬、春、秋に、一巻ずつ実物を公開するということです。(毎回三巻とも公開されるが、うち、ひとつが実物で他は複製)

 今回は「山崎長者の巻」でした。

 副題に「飛倉」とあるように、倉が飛ぶはなしです。

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倉の下に小さな鉢が見えますね。

 梗概(こうがい)を記すと、

 京都の大山崎に、命蓮の教えを守って、長者となった男がいた。

 命蓮は、長者のもとへ神通力を使って托鉢用の鉢を飛ばし、そこに米俵を載せさせると信貴山に飛び戻らせていた。

 やがて長者は慢心し、信心を怠って、だらしない生活を送るようになり、ある日、飛んできた鉢を、そのまま倉になおしたまま忘れてしまう。

 すると、鉢は倉ごと空を飛び信貴山に帰ってしまった(飛倉の所以)。

 あわてて馬に乗り、それを追いかける長者一行。

 やがて、信貴山の命蓮の庵室にたどりついた長者は、おそるおそる命蓮に頼む。

「倉を返してくれませんか?中には米俵が百俵も積んであるのです」

 命蓮も、長者を諫(いさ)めるのはこれくらいでよかろうと、米を返すことにした。

「ただし、倉は置いておくように」

 あれほど大量の米俵を、奈良から大山崎まで、どうやって運べば良いのか?

 途方にくれる長者に命蓮が告げる。

「鉢に米俵を一つ載せなさい」

 いわれた通りにすると、飛び去る鉢に続いて、次から次へと米俵が倉から飛び出て、空を飛んで行った。

 長者は喜んで、

「こんなことなら、少しは信貴山に残しておけば良かった」

と、悔いたのだった。

 屋敷に帰ると、百俵の米俵は、倉の跡にきれいに積み上げられていました。

 めでたし、めでたし
 

と、ストーリー的には、かなり破綻した感じです。

 つまり、命蓮は倉が欲しかっただけ?何かに使うために?

 あるいは、慢心長者を懲らしめるために倉を取り上げて、米だけは全部返した?

 ひょっとして、倉を飛ばすのに、どえらい神通力を使ったから、もう俵の分しか余力が残ってなかった?

 まあ、神話同様、こういった昔話は整合がとれていない話が多いので、それはよいのですが……

 しかし、教科書で有名な「信貴山縁起絵巻」って、こんな話だったんですね。

 他愛ないといえば、他愛ない話です。

 個人的には、仙術の修行中に、裾をからげて洗濯する女性の足に目がくらんで、雲から落ちた久米の仙人の方が人間味があって好きです。

 もちろん、絵は、登場人物のすべてが表情豊かで生き生きと描かれています。
 さすがに遠近法は使われていませんが。

 ざっと、他の二作の話を、簡単に紹介しておくと、

2.延喜加持(えんぎかじ)の巻:
 病気の醍醐天皇に依頼され、命蓮が加持祈祷をすると、しばらくして「剣の護法(ごほう)」(童子)が転輪聖王の金輪を転がしつつ空から現れ、天皇の枕元に立つと病がすっかり良くなったという話。

3.尼公(あまぎみ)の巻
 命蓮の生国(しょうごく)である信濃の国から、姉(尼公と呼ばれる)が奈良にやって来る。
 彼女は、どこにいるかわからない弟の消息を知るために、奈良の大仏にお祈りをして居場所を知り信貴山にたどり着く。

 尼公は、その後修行を積み、徳の高い尼僧として一生を終えるという話。

 ここで描かれる大仏は、火事で焼け落ちる前の大仏で資料価値が高く、さらに「異時同図法」を用いた圧巻として知られるているそうです。

 巻物の終わりに、1で出てきた倉の朽ち果てた姿が描かれていますが、これは命蓮の死を暗示しているといわれるようです……

 今、信貴山で、マスコット「しぎとらくん」のマークの入った封筒便せんを買って、大寅(以前、写真で紹介)に腹部から投函しておくと、12年後に開封するという「簡易タイムカプセル」化が行われています↓。
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教科書でならった「信貴山縁起絵巻」って、どんなモノ?

昨日、昼間に空き時間があったので、信貴山朝護孫子寺の「信貴山縁起絵巻」公開に出かけてきました。

 前にも紹介した、大和国信貴山は、毘沙門天が最初に出現した霊地で、毘沙門天王の総本山です。

 いくつか写真も紹介します(スナップ用デジタルカメラでは限界がありますが)。

 寅年、しかも「縁起絵巻」公開も、あと二日ということで、混雑を予想していましたが、雨のためか、観光バスは何台か来ていたものの、寺内は空いていました。

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 入り口近くで、(おそらく)日本一の張り子の虎「大虎」が出迎えてくれます。

 機嫌の良いとき?は首を振っていますが、この日は静止していました。

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 横には、子虎が二匹。まん丸な口が、なぜか気になります。

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 こんなふうに、人は少ないのですね。

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 山岳寺は、お参りは大変ですが、起伏があって楽しいですね。

 山小屋みたいというか、秘密基地みたいというか……

 そうそう、聖徳太子↓が、物部氏との戦いに必勝を祈願した際、毘沙門天が「寅の年」、「寅の月」、「寅の日」、寅の時刻に現れ、そのご加護で敵を倒すことができたため、信ずべき貴ぶべき山として「信貴山」と名づけられ寺院(朝護孫子寺)を建立したのですが、

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 旧日本軍は、それにあやかって、真珠湾攻撃時の暗号を「トラトラトラ(意味はワレ奇襲ニ成功セリ)」にしたのでしたね。

 縁起絵巻については、次回書きます。

女性は読まないでね 依存症のはなし

 この話は、あまり書きたくはないのですが、ちょっと気になったので、小さい文字で書いておきます(ウソ)。

 いわゆる依存症のことです。

 アディクション。

 いろいろありますね。

 薬物依存症、アルコール依存症、読書中毒等々。

 しかし、特に最近、話題になっているのは、セックス依存症です。

 かつては、あのクリントン元大統領がそうであり、今も、XFileのモルダー捜査官役のD・ドゥカヴニーが入院加療中ですが、なにより、この病気を一躍有名にしたのは、かの紳士タイガー・ウッズですね。

 先日、何気なくCNNニュースをみていたら、この特集をやっていました。

 もちろん、決して興味本位のイヤラシイ切り口ではなく、そういう病気になってしまった人々の悲劇と苦悩、治療への取り組みを、分かりやすく報道していました。

 驚いたのは、アメリカでも、そういった病気の存在に懐疑的な人々いるということですね。

 もともと、そんな病気は存在しない。

 その人間の意思が弱いだけなのだ、と。

 もちろん、そんなことはありません。

 なぜなら、生殖は、本能のかなり根っこに位置する行為だからです。

 その行為の大部分を、特定の器官ではなく、脳幹ちかくに依存する。

 当然、個体差もあるし、その機能が、なんらかのホルモン・バランスの異常でおかしくなることもある。

 だいたい、何が正常かという判断も難しい。

 一般に我々が正常だと見なしているほとんどのことは、思いこみと風習、社会通念上の便宜に寄るところが大きいのですから。

 おそらく、そういった「精神論」でモノゴトを語ろうとする人々は、鬱病患者も認めようとはしないのでしょうね。

 オソロシイことです。

 いやいや、ここで、書きたいのは、実は、そんなまじめな話ではありません。

 その特集の中で、専門医が苦笑混じりに話していたことを、ぜひお伝えしたかったのです。

 専門医としての立場から、彼は、日々、様々な患者を診察します。

 そして、数十種類の特殊なテストを使って、本当に依存症なのかどうかを診断する。

 すると、どうなのか?

 彼はいいます。

『ほとんどの男性は、依存症ではありません。ちょっとHなだけの、普通の男性なのです』

 面白いのは、次の言葉です。

『そう告げると、ほとんどの男性は、ガッカリして帰っていくのです』

 どうです!

 余人は知らず、わたしは、こういうトコロに人生の深みを感じてしまうのですね。

 不幸にも、いや幸いにして、わたしは男なので彼らの気持ちがよく分かる。

 本当の自分は、こんなにイヤラシクはないのだ。

 どんなにスッキリときれいなミニスカートの足でも見たくなんかないし、女性の胸などに視線を動かしたくない。

 大衆雑誌のグラビアなんて、おぞましく汚らわしいし、芸能人水泳大会なんて、その存在すら知りたくないのだ(残念ながら、噂に聞くだけで、わたしはその番組を見たことがないのですが)。

 ああ、なのに、なぜか、そんなものが気になる。これはきっとわたしに悪魔が取り憑いているにちがいない。

 いや、そうじゃなくても、わたしはきっと病気なのだ。

 さあ、はやく診断してくれ。そして、病気だといってくれ。

 治療をしてくれ!

 などと、思いつめて病院にやってきたものの、

『あなたは、ちょっとHなだけの普通の男性ですよ』

 などといわれたら、二重の意味でガッカリしてしまいますね。

「ええッ、俺のレベルで普通!」

というのと、

「治療で治すことはできないのか。ということは、自分の理想とする清廉な男には、死ぬまでなれないッ(荒木飛呂彦風)」

ですね。

 いや、ジッサイ、世の女性がたは、お分かりにならないでしょうが、日々、男ドモは、そういった内なる闘争に身を焦がしているものですよ。

 そうでなければ、どうして身分も地位もある立派な紳士、大学教授、警察官、裁判官、政治家が、靴の上に鏡をつけてスカートの中をのぞいたり、街宣車で女性の体に触ったりするというのでしょう。

 まったくしようがネェイキモノですよ、男は。

 男に生まれたる、喜びと不安、共に我にあり~

ですかぁ……トホホ。

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