作家、大藪春彦は、生前、その功罪が語られることが多かったが、そのうちの功のひとつで、なるほどと思ったことに、彼が現代に蛮人(バーバリアン)を復活させたことが素晴らしい、というのがあった。
彼の描く主人公のほとんどは、蛮人といって良いほどの肉体の持ち主で、拳ひとつで相手の胃を破裂させ背骨を叩き折った。
文字にすれば簡単だが、実際にこれを、SF(菊池氏や夢枕氏の作品等)、ジュブナイルやコミック・アニメのノベライズ以外の小説でそれをするのは難しい。
わたしも、それを冒険小説(といって良いのだろうな……)の範疇で成し遂げた点は充分評価できると思う。
ちゅうい
功罪の罪の方は「大藪の小説から、ガン(銃)とカー(車)とガール(女)を取ったら何が残るのだ?」というものだが、それに対する反論は、鏡明、森村誠一などが断言しているように、「男の人生からその三つをとったら何が残るのだ」という言葉で言い尽くせるだろう。
子でなく父でなく兄でなく、派閥の領袖でなくサル山のボスでない、孤独な男として生きる者にとって、それ以外のものは不必要だし、そんな男こそ大藪は描きたかったのだから。
北条司は「キャッツ・アイ」でメジャー・デビューした。実際は「俺は男だ(だったかな)」でデビューなのだが、それは読み切りなので脇に置いておく。
主題歌が甲子園の行進曲にまでなった作品だ。たいていの人は知っているだろうが、あえていえば、美人3姉妹が実は美術品泥棒で、次女の恋人がそれを追いかける刑事、という、まあステロタイプといえば、そのまんまな作品だ。
女性が主役のキャッツ・アイにも、男の泥棒が登場する。
ネズミと呼ばれる男だが(もちろん鼠小僧次郎吉からの連想)、これが結構バイプレイヤーとして重要な役回りをしていた。
作者からすると、真っ正直な刑事クンより、陰影のある犯罪者の方が、いろいろ使えるキャラクタだったのだろう。
だから、キャッツ・アイで、ずっと女の主人公を描き続けてきた北条司が、増刊号読み切りで、だらしない男じゃなくて粋な男の主人公にすえて……と考えた時に、ネズミを主人公にするのは自然なことだったのだろう。
その時の作品がベースになって「シティーハンター(以下CH)」は生まれた。
この作品も、曲に恵まれ(小室の「GET Wild」)、かなりの長期連載になった。
月日は流れ、そしてCHは大団円を迎える。
少しばかり意外だったのは、ラストが、きっちりとしたけじめのない、まだまだ続きますよ風ハッピー・エンドだったことだ。
キャッツ・アイの最終回で、ウイルス性疾患で次女の記憶を奪い、恋人の刑事に白紙の状態から恋を始めるようし向けた作者にしてはヌルい。
おそらくは、作者自身の心境の変化、あるいは編集側の意見、読者の希望、アニメの制作サイドの要望(思いついて続編を作ったりするからね)が混ざった結果だったのだろうが、何となく、良かったような釈然としないような気持ちになったことを思い出す。
そもそも、正統恋愛モノの「決定的にくっつかない、アブナイ恋人同士」は、作者として魅力的な設定であると同時に、「続けるとすぐにマンネリになるため長期化が難しい」という欠点を併せ持つものだ。
安易に、魅力的な設定に飛びつくと、長期化を望まれた時に苦しくなる。
本家CHが連載終了したのも、結局はマンネリになってしまったからだ。
キャッツ・アイでは刑事と次女は最初から恋人同士だったから、その点では問題なかったのだが。
そして月日は流れ、「エンジェル・ハート」が始まった。
始まって、いきなりパートナー槇村香は死んでいた。
最愛の者の死、その衝撃による心の陰影、ヒロイック・ストーリーには欠かせない設定だ。
本来、(おそらく)アン・ハッピーエンドの好きな作者が、本家CH最終回では為しえなかった悲恋モノに突入したのだ。
ちゅうい:
(エンジェル・ハートは、正統なCHの続編ではない。これは作者自身が、単行本一巻で書いているようにパラレルワールドなのだ。海坊主ことファルコンは、盲目で喫茶店キャッツアイのマスターだが恋人はいないし、語られるCHの成り立ちすら改竄されている。だが、いったいどんな読者がそれを鵜呑みにするのだろうか?実際、作者の公式サイトの掲示板は、エンジェル・ハート連載開始時に、槇村香の死に抗議する書き込みが殺到して、現在に至るも、登録者のみ書き込み可の状態が続いている)
さて、ここからが本題。
ここで、やっとこの項の最初の話につながるのだ。
原作を読めば分かるように、CHはスーパーマンだ。神に近い存在。
決して負けず、必ず弱い者を助け、登場するタイミングも方法も見誤らない。
凄すぎる。
そんな人物は、今までに創造されたことがないのではないか、と思ったら……
いたんですねぇ。
みなさんご存じのあの男が。
「ひとーつ、人の生き血をすすり……」でおなじみの彼の男。
そう「桃太郎侍」が。
のぉと
個人的に高橋英樹主演の作品としては、山本周五郎原作の「ぶらり新兵衛道場破り」の方が好きだ。それは桃太郎侍のストーリーに若干の悲劇性があるのに対して「ぶらり〜」が明るいからだ。
つまりCHの功罪の「功」は、現代に「桃太郎侍」を復活させたことにあるのだ。
だが、桃太郎侍と冴羽には決定的な違いがある。
それは、冴羽が、どうしようもない女好きという点だ。
もともとが、キャッツアイの「ネズミ」を原型にしたから仕方がないのだが、ヒーローがヒーローたり得るのは、女に関してリミッターが掛かっていてこそだ。
CHでは香の存在と、彼女の100トンハンマーがリミッターだった。
冴羽は、依頼人女性に迫ろうとしても、ある線以上は進めない。
だから彼はヒーローだった。
実際、CH時代の冴羽も、女性に人気があった。
物事がよくわかり、人格者で(表面上はともかくその本質において、だが)腕も立つ男は女性にモテる。これは事実だ。
それはCHでは良かった。
なぜなら、彼には、すでに自他共に認めるスティディな仲の香がいたからだ。
毎回変わる美人の依頼者に思いを寄せられても「あんな素敵な人が側にいるんだから、とても勝ち目がないわ」
なんて言わせて、ハイさようなら。それで良かったからだ。
だが、エンジェル・ハートでは、冴羽に陰を与え、CHのマンネリを打破するために香を殺さねばならなかった。
そんなことをすれば、香に遠慮して身を引いた女たちが、彼に殺到するのは目に見えているではないか。
狂言回しとして(わたしはグラス・ハートが本作の主人公だとは思わない)連れてこられた香の心臓を持つ娘は、冴羽の行動に対する「緩いリミッター」となるだろうが、本家香の存在と彼女の100トンハンマーには比するべくもない。
北条 司は、前作「F.COMPO」あたりから『家族愛』をテーマに作品を書いているので、エンジェル・ハートも、大筋それでいこうと考えているのだろうが、冴羽を主人公にして家族者を書くのは無理があるのだ。
時として作品は駻馬(かんば)になる。
乗り手がいかに手綱を引き締めても、暴れに暴れて手に負えなくなるのだ。
だいたい、血もつながっていない、しかも中途半端な年齢(15歳、現在18歳)の娘を連れてきて、モテモテ桃太郎侍のオモシにしようなんて虫が良すぎるのだ。
それならば、ファルコンが娘にしたストリート・チルドレンのような、思い切り幼い娘のほうが良かった。
が、タイトル名を冠した娘にも、女性スイーパーとして読者の人気を得たいという、どっちつかずの作者の願望が悪い方向に働いて、大人なのか子供なのかわからない、リミッターなのかアクセラレーターなのかわからない、居場所のない娘を無理矢理作品に押し込んだ形でストーリーを作らねばならなくなったのだ。
作品の流れとして、作者も止めようがなく、昔なじみの女性たち(彼女たちも順当に歳をとり、いっちゃ悪いが、ちょっと焦っているんだな)も冴羽にアタックをかけ始める。
こうなってしまったら、冴羽は二つしか道がない。
誰か一人を選ぶか、思い切り無責任にみんな斬ってしまうかだ。
だが、相手が若い娘なら「俺以外にもっとふさわしい男がいるぜ」なんて逃げを打てるのだが、なんせ相手ももう四十。
もう後がない(って私自身は全然そうは思わないのだが、まあ世間一般にね)。
そんな女性に向かって、のらりくらりは、隠れ人格者としての冴羽ができようはずはない。
だから、作中で「彼はすべての女性に優しいから、誰か特定の女性と親密にはなれない」みたいなニュアンスの逃げが語られてしまうのだ。
でも(ああー反語ばっかり)、そういった年増(わたしはそう思っていないよ)のオンナに限って、モノのよく分かった良い女に作りやすいんだなぁ。
実際、北条もそうしている。
侠気のあるサバけたイイオンナ(たち)だからこそ、冴羽も(作者も)その一途な気持ちを無視できなくなってくる。
エンジェル・ハートは、そのアンビヴァレンツな苦しみ(作者のね)を楽しむにはなかなか良い作品なのだ。
ともかく、物語世界の中で「第三者のジャッジメント」たる桃太郎侍は、決して自らは色恋沙汰に巻き込まれなかった。
冴えた脚本家たちは、そうしなければ、際限なく続くモモタロウ・ワールドを続けられないことを知っていたからだ。
恋愛モノ・ヒーローにはスティディな女はいらない。
そういった女が確定した時点で恋愛モノは終わりだから。
現代を生きる桃太郎侍が、自分に想いを寄せる(イイ)女たちに、どのような結論を出すか、が「エンジェル・ハート」の正しい見方なのではないかと思っている、今日この頃の晴れのち曇りなのであった。
p.s.
余談ながら、わたしは、アニメCHファーストシーズンのオープニングが大好きだ。
City Hunter 〜愛よ消えないで〜
作詞: 麻生圭子、作曲: 大内義昭、編曲: 戸塚修、歌: 小比類巻かほる
エンジェル・ハートのように、「この街(新宿)とこの街に住む人が好きだから、ここで生きていく」と声高にわめかずとも、こういったオープニング(デフォルメされた街で若くちょっと軟弱な冴羽が走り、香が踊る)を見れば、そんな気持ちは、すっと胸に入ってくるものだから。