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北海道発江戸情緒 〜幻の声〜

 この秋、スカパーの「時代劇専門チャンネル」で、かねてより気になっていた「髪結い伊三次」の一挙放映があった。

 なかなか書けずにいたのだが、この機会に、テレビドラマ版「髪結い伊三次」について書いておこうと思う。

 中村橋之助、涼風真世、村上弘明と、キャストはまずまずだし、何より宇江座真理の代表作の初めての実写作品ということで、少しだけ期待して観たのだった。
(このところ、原作付きの作品の実写化でろくなものがなかったのでね。コトーとか)

 本当のところ、わたしはこの作品についてほとんど何も知らなかった。(十数年も地上波を観ずに過ごしていると、こういう弊害が起こる)

 ただ、原作のハードカバー版「幻の声」の帯に、テレビ放映の写真が載っていたのと(古本だから放映はとうに終わっていたのだが)、文庫版の髪結い伊三次シリーズ第二弾「紫紺の燕」のあとがきに橋之助自身が撮影余話を書いていたので、番組の存在は知っていた。

 制作年度は1999年。
 九話作られただけで、今に至るも続編はなし、ということから、あまり人気が出ず話題にもならなかったのだろうと考え、今回の放映があるまで、気にはなっていたが、ぜひ観てみたいとは思っていなかったのだ。

 で、その出来具合といえば……

 そのまえに、まず「髪結い伊三次」についてひとこと。
 別項でも述べたが、原作者の宇江座真理は、廻り髪結いの伊三次を主人公にした「幻の声」でオール読み物新人賞を受賞、デビューを果たし、現在もなおこのシリーズを書き続けている。

 つまりこの作品は、作家、宇江座真理と共に歩んでいる作品で、作者のリアルタイムな足跡でもあるのだ。

 宇江座真理は、世間的には人情話の作家ということになっている。
 だが、作品を読むにつれて、本当にそういった評価で良いのか、と疑問を持ってしまう。
 確かに、ほろりとさせる良い話も書くが、その反面、シリーズ物の重要な人物にさえ、人を裏切り、安心できない面を見せさせてしまう厳しさも持っている作家だ。
 おそらく、そのデビューが比較的遅く、それまでかなり(金銭的な苦労を)していた(本人談)ため、人生を塩っ辛く捉えたがるのだろう。

 ご本人も、確かに人情話は好きなのだろうが、そういった表層のヴェールをはぎ取っていくと、その根底にあるのは、やはり人は裏切るという諦観なのだ、そういう気がする。

 わたしなどのように、甘っちょろい人情ものが好きなヤカラには、今までさんざん信頼し、世話になっていながら、とつぜん掌を返したように主人公を見捨てたりする人間関係を示されると、ザラついた違和感を感じて心底好きにはなれないところもある。

 本人が後書きで「宇江座は人情は書けるが物語は書けないという批評がある」などと言っているのをみると「逆じゃねぇの?」などとつっこみを入れたくなるほどだ。

 それゆえ、テレビドラマになった時に、そういった冷たさが、わたしと同じ甘っちょろい人情ものを好きな一般人に受けなくて、全九話、続編なしになったのではないかと考えていたのだが……

 結論からいうと、このTVドラマは非常に良かった。

 随所に、テレビ特有の詰めの甘さは散見されるものの、原作で「それはないじゃないの」という、顔は笑っているが目が笑っていない体の、宇江座真理式展開が、上手に払拭されている、というか、素直な人情ものに置換されているのだ。それがたいへん心地よい。

 思い返して文庫本の、橋之助の解説を読み直すと、なかなかに原作の深いところまで読み込んで登場人物を理解していることがうかがい知れるし(もともと宇江座氏は、彼の兄の勘九郎「現、勘三郎」の廻り髪結い姿を見て本作を思い立ったらしい)、橋之助自身もこの役には思い入れがあって、大のお気に入りだったと述懐している。

 そういった心情理解に加えて、歌舞伎役者であるがゆえに、着物の着こなし、足の運びは言うことなく、ふとした仕草に見える指先の動きにも細心の心配りがあって、所作すべてが美しくすばらしいのだ。

 もとアクション俳優(スカイライダー!)の村上弘明の殺陣(たて)も、二枚目だけが取り柄の榎木某や、コイツこんなに運動神経なかったの?と驚く仲代某などのようなへっぴり腰ではなく迫力がある。

 わたしにとっては、るろうに剣心の声優というイメージしかなかった涼風にしても、さすがにヅカ出身だけあって、啖呵と気っ風が江戸の華といわれた活きの良い辰巳芸者をみごとに好演していた。

 さすがに言葉遣いは現代風、武家の妻も眉を落としてはいなかったが、それ以外は、かなり江戸時代の風俗にこだわった作りであるのも良かった。

 メインテーマが葉加瀬太郎のヴァイオリンによる「Brazil」(あの未来世紀ブラジルでも使われていた)だというのは、当初、違和感があったが途中から気にならなくなった。

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 ここで、余談ながら、作者についてひと言。
 宇江座真理氏の経歴については、北海道の大学出身で現在住ということしか知らないのではっきりとしたことは言えないのだが、どうも彼女は「江戸の人情」について、多少の勘違いをしているような気がしてならない。

 彼女の作品を読んでいると、仕事の都合上、北海道(過疎地域)に移り住んでいる友人が言っていた言葉を思い出す。

「こっちは、近所づきあいが濃密で、それが個人の詮索に近いものになってしまっている。引っ越しの手伝いは、みんな気さくに来てくれるけれど、荷物を運びながら中身をのぞき込んで品定めをしているような感じがする」

 もちろん、若い女性のひとり暮らしということで、多分に彼女の被害妄想もあるとは思うのだが、そこに多少の真実が混じっているとするなら、こうも考えられるのではないだろうか。

 北方(特に地方都市)は自然が厳しい、明治以前から続く開拓の歴史を通して、人々は助け合い団結しなければやっていけなかった。

 ゆえに大都会とは違い人間関係が濃密になる。
 家同士の行き来が多くなり、干渉することも多くなろう。

 だが、東京、大阪など、古くから(東京は、ほんの350年ほどだが)の大都市では、生活の機能が都市に委託されている。
 つまり、家風呂でなく銭湯、台所には包丁がなく外食が多く、家でなく外で酒を飲む。女が欲しくなれば妻ではなく遊郭に向かうのだ。

 これは、江戸の男女別人口比が、極端な男多女少であったためだ(もともと江戸に住むことが許された町人は、ただ江戸城を維持するための職人として集められた、という経緯がある)。

 ゆえに、江戸の男の多くは生涯独身だった。

 そういった男たちが長屋に住み、日々やっさもっさと押し合いながら暮らしていたのが、都会の、いや現実の江戸の姿なのだ。

 何がいいたいかというと、現代同様、こういった家庭の機能が都市に委託された環境では、人間環境は希薄になっていくはずだ、ということだ。

 自分自身の稼ぎがあれば生活していける。

 他人とは関わらなくても大丈夫。

 だが、実のところ人はそれだけでは生きてはいけない。

 (北国と違い)自然が優しいが故に、また生物的、物理的に生きていけるが故に、かえって他者との関わりを積極的に求めようしてしまう。

 いわゆる、お節介心が芽生えてしまうのだ。

 団結しなければ生きていけない北の国とは、この点が違うのではないかとわたしは思う。

「関わりあわねば生きていけない過酷な環境のお節介」と「しなくても良いが、ついしてしまうお節介」この違いが、北の国と江戸との違いではないかと思うのだ。

 それこそが、江戸、大坂の人情噺の根幹ではないかと。

 利害関係で培われたお節介なら、自分に不利益になればすぐに切り捨ててしまえる。

 だが、そんな厳しい心持ちでは、「どうしようもない人」を、捨てきれずに構ってしまう人情に決して辿り付ないのではないだろうか。

 この点を、宇江座氏は少し勘違いしているのではないか。

 北国的なお節介(というのは心苦しいが)を人情と思って物語を組み立てていると、一見、深い親交があるように見えながら、不利益を感じるとあっさりと斬ってしまえる、そんな薄情な人情噺になってしまうのではないか?

 失礼を承知で言わせてもらえれば、私には、なんだか彼女が、江戸にあこがれて江戸を模倣、制作しようとするものの、根底のところでそれを果たせていないように思えるのだ。

 そうした点が、もうすぐDVD発売がなされる、この夏人気だった「結婚できない男」や
「じゃりン子チエ」との大きな違いなのだと思う。

 まあ、これは別項に譲ろう。

 だが、そういった欠点を、脚本のちからで修復されたのが、テレビドラマ「髪結い伊三次」だ。
 観て損はありませんぜ。

血を流すヘラクレス 〜007 カジノロワイヤル〜

公開日が映画の日に重なったので、「007カジノロワイヤル」を観てきた。

 平日ながら、映画の日と重なったために、かなりの人出を覚悟して、インターネット予約をして出かけた。

 映画のエントランスに入ると、予想通りにえらい混雑。

 やはりシート予約をしてきてよかったと思いながら、エレベーターで三階大劇場に上がると……まったく人影がない。
 大きな劇場に、パラパラとまでいかない人影があるだけだった。
 予約した劇場のド真ん中通路寄りに座ると、横一列にはほとんど誰も座っていない。

 じゃあ、あの人混みはいったいなんだったんだと思っている内に、場内が暗くなり、予告編が始まった。
 来年5月の「スパイダーマン3」やイーストウッドの「硫黄島」のあと、画面が16:9に広がり本編が始まる。

 その前に、「カジノ・ロワイヤル」について一言。

 この映画はリメイクである。
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 最初の映画は、1967年に制作された。
 しかも、エスピオナージュ(スパイモノ)のパロディとして。
 監督はあのジョン・ヒューストン監督!
 出演者も、訳が分からないほど豪華。

 デイビット・ニーヴン、ピーター・セラーズ、オーソン・ウェルズ!そして、ウディ・アレンなど。

 音楽制作は、おそらく同じパロディのオースティン・パワーズはこれを本歌取りにしたであろうバート・バカラック。(個人的には「カジノ・ロワイヤル」は映画史上の名曲のひとつだと思う)バカラック特有の都会的で洒脱なメロディが最高にイカしていた!
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 という、ハリウッド映画史の中でも特異な位置を占める作品を、真っ向から大まじめにリメイクしたのが今回のカジノ・ロワイヤルなのだ。

 この映画、公開前から酷評をうけていたのがボンド役のダニエル・クレイグだ。
 スピルバーグの「ミュンヘン」で傭兵役だったクレイグは、金髪碧眼、マッチョタイプのどちらかというとハンプティダンプティ、ずんぐりむっくりな印象の男だった。

 イアン・フレミングの原作はともかく、初代ボンドのショーン・コネリーの印象が強すぎて、大部分の人は、ボンドといえば大男だがスマートで髪は黒、みたいなところがあるから反発するのも無理はないだろう。(もっとも、長くボンド俳優を続けたロジャー・ムーアはスマートな大男であったが、やはり金髪碧眼であったのだが)

 なんせ、二十代の頃から出演依頼があったものの、いくらなんでも若すぎるということで、歳をとるのを待って再度オファーされたという伝説のあるピアース・ブロスナンの後任だ。文句を言われても仕方がないのかもしれない。

 しかし、個人的には、こういったマッチョ・タイプの男が主演の映画というのは嫌いではないから、期待してオープニングを迎えたのだった。

 で、観終わってどうだったか?

 まあ、面白いのではないか、というのが正直な感想だ。

 特筆すべきなのは、本作で、監督はボンドを「血を流すヘラクレス」として描いている点だ。

 殴られて血を流し、うめき声をあげ、斬られて血を流し、叫び、毒を盛られて死にかける。

 あまつさえ、素っ裸にされて、股間を巨大なロープで殴りまくられるというおまけつき。

 こう書いてしまえば、ダブルオーというより、MI(ミッション・インポシブル)という感じもするな。
 ちっこいトムより、大きなクレイグにMI4の主役をしてもらいたい。

 とにかく、今までの、殴られてもクール、殴ってもクール、どつかれると唇を拭うが決して血は見せないボンドとは違って、今回のボンドは高価なドレスシャツが血まみれになるほど血を流し続けるのだ。

 アクションの戦闘神ボンドではなく、血を流し呻く肉体派、人間ボンドだ。

 肉体派で思い出したが、コネリーボンドの髪が薄くなるのに従って、人気が陰り始めたのをきっかけに(特に、海が舞台のサンダーボール作戦で、水から上がったコネリーの髪がバーコード状態になったのがイタかった)、主演役者が切り替えられた際に、一作だけ主役を張ったジョージ・レーゼンビィの「女王陛下の007」も、ロケットやヘリコプターなどの奇天烈なマシンを出さずに、スポーツマンボンドの溌剌とした肉体を主に描いた作品だった。

 この作品で、生涯ただ一度の結婚をしたボンドは、その直後に妻を射殺される。
 個人的には好きな作品で、LDも持っていました。

 余談ながら、十年近く前、深夜テレビ「エマニエル婦人」で登場する白髪の紳士がレーゼンビィであることを知ってショックを受けたのだった。彼は老いてエロ俳優と化していたのだ。

 その「女王陛下〜」以来の肉体派ボンドが主演のこの映画、ボンドが007になる前の話、などと思わせぶりな言葉が予告にある、がそんなことはない。

 彼は、登場した時からダブルオーだった。
 ただのスポーツ野郎が組織に目をつけられてスカウトされる「トリプルエックス」のようなことは断じてない。

 内容については、取り立てていうべきことはないが、毒を盛られた時の対応などに、悪しきドタバタ感があって、ちょっと興ざめすることが残念といえば残念な点だ。

 主なお客様であるアメリカ国民の、平均知的レベル14歳にあわせてあるのだろうが、そんなことをする必要はないのに、というのが正直な感想だった。

 ちなみに、公式サイトは、ここ http://www.sonypictures.jp/movies/casinoroyale/ 予告編もここで観ることができるはず。アクションはさすがに凄いよ。

 そうそう、映画が混んでいたのは、同時公開のキムタク主演「武士の一分」に、妙齢のご婦人方が殺到したためだということが、その後の調査で判明しました。(この「武士の一分」は藤沢周平の短編「盲目剣谺(こだま)返し」の映画化だ、これについても書きたいことはあるのだが、他項に譲ることにする)

P.S.
 恥ずかしながら、この映画を見終わって強く思い出したのは大藪晴彦の主人公、特に伊達邦彦だった。 
 ボンドの、公称、身長180センチ胸囲120センチ、体重90キロという肉体的スペックや、急所を攻撃される拷問、そしてタクシードを着こなして上流階級の巣窟へ入り込む野獣といったイメージなど、マーティン・キャンベル監督はDK(DATE KUNIHIKO)のファンなのではないかと思ってしまうほど「諜報局破壊班員」に似ているのだ。

P.P.S.
 ハゲを露呈し、ヒーローとしては致命的ダメージを被ったショーン・コネリーは、念願の007降板を手にして以降、演技派の道を歩むことになるが、後に、件(くだん)のサンダーボール作戦のリメイクに、自ら出演することになる。
 プロダクションを異にするために007の名を公に付けることはできなかったこの作品は、「もうやらないなんて言わないで」(Never Say  Never Again)と名付けられ1983年に公開された。真偽のほどは定かではないが、この「NeverSay〜」は、「もうボンドはやらん」とゴネるコネリーに対して彼の妻が言った言葉とされている。
 んで、この「ネバー〜」は、わたしがダブルオー作品の中で一番好きな映画なんだなぁ。

 特にオープニングで、ミッシェル・ルグラン(男と女)の甘くヒロイックな曲をバックに、髪に白いものが混じり、顔に皺の刻まれたコネリーが戦闘服に身を固めてジャングルを失踪する姿は、鮮やかで美しくすらある。

 彼の上司であるMは、きちんと男であるし(しかもエドワード・フォックスがやっている!シブイ)、Qはちゃんとワケの分からない秘密兵器をボンドに渡して迷惑をかけている。

 中盤で、衆目の中、コネリーとヒロインのキム・ベイシンガーが踊るタンゴは、ちょっと下手っぽいけどカッコいい。

 そして、敵とのバーチャル・ゲームマシン勝負で、打ち負かした敵から
「負けた時、君はわたしほど潔いのかな」
と尋ねられ、
「さあ、負けたことがないからわからないね」
と言い返すボンドのカッコよさ。うーん。また観返そう。
 (勢いあまって、USA版と日本版のDVD二枚持っています)

P.P.P.S.
 いくらでも追伸が続くが、もう一言。

 この映画で、わたしは、水都ヴェネツィアの問題を改めて知った。

 映画のラスト、ヴェネツィア(アメリカ人は発音できないからベニスと呼ぶが)で、恋人とヴァカンスを楽しむボンドは、いきなり最後の戦いに突入する。
 彼の最終決戦場は水都ベネツィアのとある家屋になるのだが、ここで、階上からマシンガンに狙われたボンドは、一階に置かれた黄色いタンクのようなものを狙撃する。
 するとそのタンクは妙な爆発を起こし、その衝撃で階上の敵はふっとばされるのだった。

 オープニングでも、多数の兵士に取り囲まれたボンドは、ガスボンベを狙撃して爆発させ、脱出しているが、そんな火を伴う爆発ではないし、それほど威力もない。

 んが、その途端、建物自体が斜めになり、水中に沈み始めたので、ハタと膝を打ったのだった。

 こいつは、工事用のガスボンベなどではなく、「浮き」なのだと。
 水没化激しい水の都では、このように多くの建物にウキがつけられているのだ。

 ただ、問題でもあり、ショックでもあったのは、映画の中で、何の説明もなく(普通は登場人物の誰かに、説明的独り言を言わせるはずだ)、ごく当たり前に浮きを撃ち、爆発させたことだ。

 それは、説明不要なほどに、ベネツィアの水没化は深刻だということを意味する。
 地盤沈下著しい(一説によると年2センチとか)この都が、すべてフローターの上に浮かぶようになるのもそう遠い未来では無いのかもしれない。

 だが、それは困る。ベネツィアへはまだ行ったことが無いのだ。

 わたしが、愛する女性と二人でゴンドラに乗って、船頭にカンツォーネを歌わせるまではどうか沈まないで欲しい。

 おいアメリカ、こんな映画作ってる暇ないぞ! 早く例の条約に批准しろ。

さらば大きなものよ 〜MS IGLOO ー大蛇はルウムに消えたー〜

 昨日、以前から気になっていた「MS IGLOO  〜大蛇はルウムに消えた〜」(2003年:30分)を観た。

 これは、ファイナル・ファンタジー、NEWキャプテン・スカーレットと同様、フル3DCG作品だ。

 「ガンダム」、である。

 だが、モビルスーツの話ではない。

 時は、ガンダム・ファーストシリーズ、初代ガンダム時代である。

 ご存じのように、ガンダム・シリーズは、金になるためか、もう嫌になるほどたくさん作られ過ぎていて、ほとんどスター・ウオーズなみのサガ状態になっている。

 わたし自身は、実のところ、この第一弾しか観ていない。

 しかし、後のガンダム譚の風評から鑑みても、第一弾は、後続シリーズと比べて、何ら遜色はないはずだ。

 その理由の一つは、短いスパンで「兵器」と「人的能力」の劇的な進化が描かれてるからではないかと思う。

 人に関しては、ご存じの通り、いわゆるニュータイプの覚醒がそれであるし、兵器に関しては、モビルスーツの進化が代表的なものだ。

 ニュータイプに関しては、まあ他の項に譲るとして、技術屋崩れとしては、兵器の進化により興味がわく。

 そして、この「MS IGLOO」は、技術開発における『栄光なき天才たち』を描くシリーズなのだ(悲運に終わる点も似ている)。

 戦争においては、

 「戦略(Strategy)の失策は戦術(Tactics)では補えない」

 「戦局の帰趨(きすう)は、兵器の優劣によって決まる」

 という動かせない事実がある。

 もっとも、前者に関する限り、先の日本が行ったイラク派兵は、中央部の愚挙、強制派兵という戦略的失態を、堀を作って閉じこもり、外に出るときには表向きは無防備ながら裏で完全武装、住民にはキコ・スマイル(って覚えてっかぁ?)で手を振る、という戦術レベルでの危機回避を成し遂げた、希有の作戦行動ではあったが。

 それはさておき、後者に関しては誰もが納得することだろう。

 かつてのナチス・ドイツや日本軍もそうであったように、戦争中に優秀な兵器の開発に鎬(しのぎ)を削るのは当然だが、開発ラインは一本ではない。

 安全策をとって、たいていの場合、いくつかの開発を複走させるがゆえに、ライン同士の競争が生じる。

 それがまた、多くのドラマを生むことになる。

 さて、前置きが長くなった。

 「MS IGLOO  〜大蛇はルウムに消えた〜」

 これはモビルスーツ開発ではなく、巨大砲開発ラインに乗った技術屋たちの話である。

 なぜ、この作品を観ようと思ったかというと、ネットで観た予告編で「あれはモビルスーツ!だが首と足があります」という言葉を聞いたからだ。

 負ける(開発レースで、という意味だが)側から観たモビルスーツの進化、なんと蠱惑(こわく)的な発想なのだろう。

 これは観ねば!

 しかし……

 観始めて、三十秒で後悔しました。

 それは、CGの技術レベル(画的なものではなく演出)が、あまりに稚拙だったからだ。

 2003年の作品であるということを考慮しても、これは酷すぎる。

 ヌメヌメとしたCG特有の動き、そして緩急はつけているものの、そのリズム感のなさが致命的だ。

 歩いても走っても、あるいは話しても、画面に映っているのは、人でも、人を模した画像でもなくバケモノじみた何かだ。

 画面を観ながら考えた。

 なんと不思議なことなのだろう。

 かつて観た紙芝居(ってトシがばれるね。わたしたちは、ほんとに幼かった頃に、紙芝居を実際に観た最後の世代カモ)は、本当に静的だった。
 画は平面的で稚拙、しかも動かず、男の語りだけが動的なものだった。

 だが、自転車の荷台にくくりつけられた紙芝居のセットに見入る我々の目には、確かに登場人物は動いて見えた。

 なぜならば、コミックやアニメは、人の心の中で、動きが補間されるからこそアニメートされた(生き生きとした)動きになるのだ。

 しかるに、このCGはひどい。

 画面は確かに動いているのに、心の中で、その人物が動かない。

 というか、なまじ画像が動いているだけに、そしてその動きが、私たちが長年かけて蓄積してきた「動きの文法」と完全にズレているがために、観ていて気持ちが悪くなるのだ。

 良いアニメの動きは、現実の動きのリズムを巧妙に取りだして、それを絶妙に、あるいはちょっと無理に拡張して為されるものだ。だから観ていて気持ちが良いのだ。

 と、文句を言いつつ(独り言で)最後まで観ました。

 するとどうでしょう。

 評価逆転、とまではいかないが、評価が好転しました。

 つまり、自衛隊が行った奇跡ほどではないが、画像レベルの失策を、脚本レベル
で補ってしまったのだ(妙な表現だが)。

 「MS IGLOO  〜大蛇はルウムに消えた〜」

 これは、宇宙空間に於ける大艦巨砲時代の終焉を告げる物語だったのだ。

 大蛇に例えられる「巨大砲」が、艦載機にイメージが重なる「モビルスーツ」の大群に取って代わられる瞬間を描いた作品だ。

 かつて、太平洋戦争で、日本が建造した巨大な戦艦群が、モスキートのような艦載機の大群によって轟沈せしめられたように。

 その意味で、物語のラスト、戦いの帰趨が決した後で、最後の一発を敵艦に撃ち込んで息絶える一徹者の砲術長は、さきの戦争で沈んでいった日本軍の砲兵を表しているのかもしれない。

「MS IGLOO  〜大蛇はルウムに消えた〜」

 画像にガマンしても最後までみるべし。

サイトはこちら。
    http://www.msigloo.net/

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