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自分は最強の生物なのだ 〜キングコング〜

 デビュー当時の荒木飛呂彦が好きだった。
 武装ポーカーや魔少年BT(寺沢武一の説あり)、ゴージャスアイリンなんかもいい。
 でも、やはり一番好きだったのは「バオー来訪者」だ。

 今、読み返してもおもしろい。

 内容的には、ありがちな寄生生物モノなのだが、実際はその腰の位置が違う。

 1950年代の「20億の針」、それにインスパイアされた石森章太郎(当時)の「アンドロイドV」。
 よりブラッシュアップされた「寄生獣」、あるいは「ヒカルの碁」(あれは憑依モノか?)など、有史以来、寄生生物モノは数多く書かれてきた。

 だが、荒木が他の凡百な作家(言い過ぎか?)と一線を画しているのは、寄生生物に、「自分こそが地上最強の生物なのだ」という遺伝子レベルの自覚を与えたところにある。
 加えて、その矜恃(プライド)と、かけ離れた本体の姿、ゼリー生物でもエネルギー体でもない、ただの数ミリの小枝のような体をしているのがいい。

 自分自身は、数グラムの小石すら持てないちっぽけな生き物でありながら、そのプライドは地球より大きく重い生き物。

 おそらく彼は、いや、作中で近々増殖すると描かれていたから彼女か?あるいは雌雄同体か?

 まあいずれにせよ、「それ」は、死が間近に迫った瞬間でも、昂然と頭をあげて敵を睨みつけたまま逝くことだろう。

 キングコング(2005年:ナオミ・ワッツ版)を観た。

 当初、えー、キングコングって、あの「うっほ うほうほ うっほほー 大きな山をひとまたぎ……」だろう、後にグレイト・アクトレスになったジェシカ・ラング主演の国際貿易センターに登ったリメイク2はタコだったし……。

 その上、ナオミ・ワッツは「マルホランド・ドライブ」は観たが、続く「リング」「21グラム」などで、すっかり絶叫女優(懐かしい表現だ)化してしまっているから魅力薄だし……

 と、まるで観る気など無かったのだった。

 だが、キャストに、ジャック・ブラックの名を見つけて気が変わった。
 JBは好きな役者(ミュージシャン)なのだ。(イニシアルも良い)
 「スクール オブ ロック」でのコミックぶりはなかなかだったし、若き日のジャック・ニコルソンを太らせたような、魁偉な容貌もいい。

 目がつり上がっているのに太っているのも面白い。

 さらに、ヒーロー役として、エイドリアン・ブロディがクレジットされているのも気になった。
 だって、「戦場のピアニスト」の主役ですぜ旦那。あの虚弱体質っぽい、線の細い男が、キングコングでどんな役をするっていうんだ?

 まあ、ちょっくら観てやるか、と、観始めた途端……気がつくとエンドクレジットが流れていました。

 経過時間2時間58分(長い映画なんだこれが)。

 まったくもって一気に観てしまいました。

 結論から言えば、面白かった。

 ひょっとして今年最高の(自分が観た)映画かも。

 まず映像が良かった。スピルバーグがおそらくジュラ2で描きたかったのはこれだ、というような映像が目白押しだ。

 そのために、コングの生息する髑髏(ドクロ)島を、ロストワールドっぽい、徹底した古生物だらけの島に設定したもよかった(これは元からの設定でもあるけれど)。

 巨大恐竜の組んずほぐれつの争いも秀逸。

 ひと粒で二度おいしいとはこのことだ(焦点がぼやけるという言い方もできる)。

 だが、本作で目立つのは設定だ。なにより設定がうまいのだ。

 これまでのキングコングには、「うっほ、うほうほ」のアニメ版以外のものに、靴の中に入った小石のような違和感を常に感じていたのだ。

 それは……

「なぜ巨大なゴリラであるコング(今回の映画ではキングコングという呼称は使われていない)が、異生物である、パツキン美人にコイしてしまうのか」ということだ。

 もちろん、ある男が美しい野生のチーターに恋してしまうことはあるだろう。あるいは女が野生のゴリラに恋することも。

 だがそれは一般的ではない。

 数多いノーマルな中の、ごく少数の特殊な人々だ。

 地球上で、最後の一匹になった巨大ゴリラのコング(映画にはそういった表現がされている)が、よりによって異生物愛好者だ、なんてことがあるのだろうか。

 また、コングは、原住民によって、これまでに何度も生け贄を捧げられてきたのだ。

 原住民の女性(だろうおそらく)はダメで、金髪ビジンだけが、お眼鏡にかなうというのはいかがなものか。人種サベツか?

 長らくそう思っていたのだが……

 今回の作品では、見事にその答えが出されていた。
 そしてその伏線は、上映開始後一分で始まっている。

 すばらしい。

 勿体をつけずに言ってしまうと、ヒロイン、ナオミ・ワッツは、ブロードウェイ(もちろんオフのほう、場末のコヤ)のボードビリアンで、コメディエンヌなのだ。

 つまり、舞台でコミカルな動きをするアクロバット芸人。
 本人はブローデウェイの役者志望なのだが、大恐慌下のニューヨークでは理想では食っていけないから、口に糊するために仕方なくやっている。

 しかし、結局、この芸が彼女を救うことになる。

 正に芸は身を助ける、だ。

 生け贄にされ、誘拐されてコングの巣に連れてこられた彼女は、意を決して、コングの前でコミカル・アクロバットを演じる。

 すると、孤独な島の王者は、その「おかしな」動きをする小動物がすっかり気に入ってしまうのだ。

 先ほど、コングの巣、と書いたが、そこは島でも一番高い山にある、心地よい風が吹く景色の良い台だ。

 しばらくして、ここで、心を通わせた二種類の生き物が並んで腰掛け、沈む夕日を眺めるシーンがいい。

 化け物揃いの孤島で、王者として君臨する最強の生物の孤独がはっきりと伝わってくる。

 この風景を、もう一度、異郷で見たいがために、コングは、遙かに高い場所、エンパイア・ステートビルに登るのだ、という素晴らしい伏線になっている。

 アクションについも、コングが戦闘で足をうまく使って闘うところがいい。

 恐竜と闘いながら、ナオミを守り、かつ逃がさないために、彼女を手で掴んで恐竜を蹴り、放り投げて足で掴んでは恐竜を殴る。

 まさに、サルのような反射神経だ。

 コングの身長が7メートルほどというのもいい。
 「登ってみて、人間がもっとも恐ろしさを感じるといわれている高さ」を身長として持つコングが、ヒロインを手で掴むと、ちょうど大魔神が悪党を手で握りつぶす時と同じ画になる。

 大きすぎず、小さすぎず、ちょうど恐ろしい大きさだ。

 ナオミが、激しいアクションで首がガクガクになりながらも、そこはスタンダップ・アクションの芸人だから大丈夫だ、と納得できるのも良いところだ。

 あと、虚弱野郎ブロディが思ったより筋肉質で、あのこけた頬からは想像できないアクションをするのも、意外性があって面白かった。

 スポンサーから詐欺まがいに資金を調達したため、なんとしても映画を完成させないと破滅するが故に、どんな苦境になっても手回しカメラを回し続けるJBも良い味を出している。

 だから、後にカメラが壊れてフイルムがダメになってしまった彼が、コングの捕獲に乗り出すというのも、ストーリー的には無理が無いのだ。

 なんとしても、金になるものを持ち帰らないと身の破滅なのだから。

 だが、映画の構成から考えて、コングはNYに連れてくるべきではなかった。

 コングは、あの島にいてこその孤独な王だったのだ。

 第一作の眼目が「都会で暴れる巨獣」だったから、仕方がないのだろうが、今回は、無理にNYに連れてくる必要はなかったような気もする。

 島での、巨大獣同士の戦闘に迫力がありすぎて、都会で人間がパチパチ撃ってくる機関砲による戦闘など、致命的かもしれないが、おもしろくも何ともないからだ。

 まあ、とにももかくにも、キングコング。

 機会があれば(ぜひ)観てください。

じめついた南洋 〜Dr.コトー診療所〜

 10月の続編放送に先立って、フジテレビ721で、Dr.コトーの一挙放映があり、それを観る機会を得た。

 原作コミックは読んでいたものの、ドラマの方は観たことがなかったので、かなり期待してみたのだが……。

 以下、かなりショックを受けたので語調が荒くなる。

 テレビ版が好きな人は、お読みにならないほうが良いでしょう。

 原作を知っていて、テレビのほうは、なんだかな、と思った方のみお読みください。

 ううむ。原作がもったいない。

 コミック原作を実写にすると酷いものになることが多いが、実際、これほどまでとは思わなかった。

 思いつくままに、気になった点を列挙すると、

(壱)
 原作にない無駄な登場人物が多すぎる。
 ex.看護婦の父、バァの女、病院の事務員など

 不断の連載ものを、一時間番組用に切り取ると内容が薄くなる、だから、そのための時間稼ぎにサイドストーリーが必要なのはわかる。

 だが、そのための登場人物が、バァの姉ちゃんである必要はないだろう。そんなことをするから、後に述べる、物語のテーマである「本来あり得ない、孤島における天才による最先端医療」から「お涙ちょうだい都会人による人情田舎暮らし奮闘記」化してしまうのだ。

 バァの女は、もともと医療に関係していた、あるいは医療がらみの問題で島に流れ着いた女、あるいは、せめて医者に騙されて恨んでいる女といった設定にしなければ……

(弐)
 主要キャラクターの看護婦が屈折しすぎている。
 それも、苦労したあげくの屈折という感じではなくて、まるで両親に恵まれ、苦労知らず、わがままいっぱいに育った自己主張ばっかりのバカ娘みたいな……あれ、なんだ、テレビ版では両親がそろってたんだな。

 原作のように、父が愛人と家出し、看護婦だった母を亡くした苦労人という設定ではないのだ。

 ダメだこりゃ。

 役者もマズイかなぁ。
 柴咲某(ナニガシ)とかでは、原作の清楚で凛とした感じが出ない。ギスギスしているし、まるで水商売の女だな、あれでは。

(参)登場人物のすべてが、本来、男らしさを売る海の男、しかも南洋の漁師らしくなく、陰湿かつ内向的すぎる。

 特に時任三郎が悪い。

 原作では一度信じた五島医師のことを最後まで信じている。

 テレビのように、十分に馴れ合っていながら、唐突に「まだ信じてはいない」などといいだしたりはしない。
 まるで気まぐれな女性のような性格に感じるなぁ。
 ま、少なくとも荒くれ漁師ではないな。

 無論、田舎の人々が閉鎖的で陰湿なところがあるのは、わたしも田舎育ちなのでわかっているし、原作でも島民は多分に閉鎖的ではあるが、原作以上の陰湿さが気にかかるのだ。

 たとえて言うと……まるで、岡ひろみに対する音羽のような、ってわからんかな。
 つまり、女子ばっかりの運動部での、目立つ新人イビリみたいな感じがする。

 ことほどさように、シリーズ全体的に男らしさを感じられない。
 というか、女々しさばかり鼻についてしまう。
 全島総女性化というか、なんというか……

 もちろん、それは脚本がすべて女性ということも関係しているだろうし、ターゲットを原作の青年誌読者ではなく、女性にしていることもあるだろう、だが、あまりに骨のない内容、演出にするのはいかがなものか(というのも、原作が男性によるもので、しかも結構ヒロイックな演出が多いからだ)。

(四)そして、離島における医者の意義について、制作者は勘違いしているように思える。
 これは先の閉鎖的で排他的、ということにも関連するが、無医島にやってきてくれた医者で、しかも内科医でなく、手術さえしてくれる外科医であれば、島民は多少のキズには目を瞑るのではないかということだ。

 戦後、無医村の村に多くのモグリ(無免許)の医者が潜んでいたが、人々はそれを知りながらも糾弾したりはしなかった。

 モノのない土地では、それが何であれ、存在すること自体が重要なのだ。

 盲腸で、風邪で倒れて肺炎であっさり死んでいくくらいなら、モグリ医者でもいたほうがはるかに良い。

 まして、ホンモノの(しかも働き者の)外科医の経歴を云々して、すぐに私設裁判まがいのつるし上げなどするわけがない。

 まったくの荒唐無稽だ。

 実際、原作では、そんなことをしていない。

 それは、充分に医者が存在する都会に住む者の感覚だ。

 マンションの自治会が、廊下やエントランスの清掃を委託している業者の経歴を云々うするような感覚、とでもいうのだろうか。

 それとも、脚本家たちは、単にそういったつるし上げが好きなのだろうか?

 「つるし上げられている吉岡クンが素敵」とかね?

 冗談じゃないな。

(伍)
 登場人物が安易に「裏切られた」という言葉を使いすぎる。しかも海の男たちが、だ。
 わたしの知る限り、フツーの男は、決定的な裏切りにあわない限り「裏切られた」などとは言わないものだ。

 そういった言葉を多用するのは女性に多いような気がする(が、こういった言動は非難を受けることも多いからひかえるようにせねば)。

(六)
 最後にテレビ版の最大の欠点は、先にも述べた、原作におけるテーマであり、原作コミックの要約にもはっきりと記載されている、

「孤島に降り立った天才外科医」

 の姿を、まったくといってよいほど描いていない点だ。

 Dr.コトーは天孫降臨に倣った話だとさえいってよい。
 本来、このような土地には居るはずのない神が地上に降り立つ話だと言い換えてもいいのだ。

 少なくとも原作ではそういった内容だった。

 なにせ、かつて、神に愛された少年芸術家を描いたマシュー等「芸術三部作」を生み出した作者なのだから。

 だが、

 テレビ番組を観る限りでは、

 ただの凡庸な医師が、閉鎖的なドイナカ孤島民たちの中で、孤軍奮闘して人間関係を築いていき、その合間に、本来のストーリーには何の関係もないバアの姉ちゃんと子供のカクシツ(好きだねぇ)などを描いている作品、

 にすぎない。

 観ているうちに、そのべっとりとしめったような濡れ落ち葉脚本、演出に鳥肌がたってきてしまった。

 子供と動物、それに老人を使えば、泣けるハナシにできるのはハリウッド映画でも常識だ(パーフェクト・ワールドやハリーとトントとかね)。

 だが、それだけでは物語として新しく制作する意味がない。

 制作者は、そんな安易なお涙頂戴にのっかると思うほど、視聴者をバカにしているのだろうか。

 まあ、のっかるヒトが多いのだろうけど。

 おそらく、テレビ版を好む人たちと私とは「感動を覚えるベクトル」が違っているのだろう。

 わたしが感動する点はふたつ、
 激しい恐怖、圧迫にあっても両足を踏ん張って目をそらさず、それらと向きあう姿と、健気な態度だ。

 ベクトルが、この向きであれば、力の大きさがいかに小さくとも大感動してしまう。

 たとえれば、別項でも述べたが、ハックルベリィ・フィンが、脱走した奴隷を「神の意志に従った」「正しいこと」として役人に突き出す手紙を書こうとし、「ああ、これでオレは天国に行ける」と晴れ晴れとした気持ちになりながらも、やがて心の奥深い気持ちに突き動かされて手紙を引き裂き、「よし、それでは僕は地獄に行こう」と自らに断言する、そんな態度だ。

 テレビ版、Dr.コトーに、そんなヒロイックな決意、態度はあるのか?

 子供を使った健気さの表現は、安易すぎて感動できない。(その点は「三丁目の夕日」も同様だ)

 しかし、10月から始まる続編は、いったいどうするのだろう。

 原作にある、自らのトラウマから、患者の手足を片っ端から切断する医師の登場を、番組はどう扱うのだろうか?

 まあ、きっとそのエピソードは回避するのだろうな。

 甘ちゃん脚本、演出は、「息子ともうひとの患者のどちらを先に治療するかでピィピィわめく親」程度の緊張感しか扱えないだろうから。

 原作を読みたい方はこちらで
  http://www.ongakukoubou.com/k_blog/k_fvrt.html

地に足つかぬヌカ喜び 〜有頂天ホテル〜

 有頂天ホテルを観た。

 実のところ、わたしは三谷幸喜の作品をほとんど観たことがない。

 「古畑任三郎」を何回か観ただけだ。それも斜め観で。
 だから、彼のギャグのセンスというのがどの程度なのか分かっていなかった。
 ただ、人気があるのは知っていたので、興味があって本作を観たのだった。

 また、劇場で観た予告では、

「最悪の大晦日は、最高の奇跡の始まりだった」

とあったので、数々起こるであろうイベントが最後にどのように収束し、奇跡となるのかも観たかったのだ。

 それを実現するためには様々な伏線を張り巡らせて、最後に一息にそれを引き絞る、計算と力業がともに必要だし、わたしはそんな話が大好きだから。

 さて、観終わった感想だが……

以下ネタバレ含、未見者注意(って、随分まえの作品だから皆観てるだろうけど)。

 「有頂天ホテル」は、G・ガルボ、J・バリモア出演の往年の名画「グランドホテル」にインスパイアされた作品で、いわゆる「グランドホテル方式」(*)に話はすすんでいく。

(*)豪華なスターを多数使った人間模様を描く群像劇。一日や数時間など、短い期間に限定した設定が多い。

 撮影手法において、三谷氏は、かなりの長回しを採用している。

 これほどワンシーンを長く撮り続けた邦画監督は、最近では伊丹十三以来ではないだろうか。
(そういえば、アメリカ配給もされた「タンポポ」には、若き日の役所広司が出ていたなぁ。渡辺謙も)

 大晦日の夜、東京での生活に見切りをつけて故郷に帰るベルボーイ香取慎吾が最後の業務を行う中、副支配人の役所広司のもとに、垂れ幕の文字間違いや、灰皿で料理を取り分けている客の問題など、さまざまな難題が押し寄せてくる。

 それらすべてを手際よく片付けているように見える役所ではあるが、彼は所々抜けている男でもあった。

 そこへ、汚職疑惑でホテルにこもっている佐藤浩市や、元愛人?である従業員松たかこ、明日が新春公演のこけら落としで劇場から近いという理由で宿泊に来た芸人西田敏行などが絡んで話は進んでいく。

 大まかな流れとしては、役所広司の先妻が、とある賞の受賞パーティに出る夫に従ってホテルにくることで始まる役所のドタバタがひとつ、あとは香取が長らくラッキーアイテムとして使っていたマスコット人形を小道具として、それが人から人へと渡っていくうちに、人々にさまざまな幸運(ともいえないが)をもたらしていくという展開がある。

 ●結論からいうと、結構楽しめました。笑える箇所もたくさんあったし。

 だが、各エピソードの作りは緻密とは言い難く、かなり杜撰(ずさん)でいきあたりばったり、おまけに最後まで話の手当をしていないから、それぞれが破綻してしまっている。

 まるで安っぽいテレビのドラマみたいだ。

 なにより、観終わって、

「ああ良かった、現実にはこんなことあり得ないけど、すっきり終わって、気持ちよく家に帰れるからいいよな」

という気分になれないのがいけない。

 あまり問題点をあげつらうのはやめるが、どうしても気になった点を二つ三つ。

 まず、佐藤浩市演じる政治家、武藤田(って、こんな名前使って大丈夫なのか)は設定からしていけない。
 汚職政治家として登場させてしまったら、大晦日を境に奇跡が起こっても救われることなどあり得ないのだ。

 ここは、彼の問題を「ムシの居所が悪かった時に道行く老人を突き飛ばし、それがたまたま全国中継されてしまった」程度のイメージダウンにとどめておくべきだった。

 これなら、人命救助などの(それが偶然でも)行為を再びテレビ中継されたら、一度にイメージは元に戻るだろう。まあ、このあたりの平仄(ひょうそく)のあわせ方が、脚本の腕の見せ所なのだ。

 それをこの映画のように、「汚職政治家がホテルにこもり、いろいろあって、すべてを暴露すると記者会見を用意させたあげくに土壇場で逃げ出した」としてしまえば、もう小汚い、しかも今後の問題山積の政治家にすぎなくなってしまう。

 まったくもってハッピーではない。観ている我々もハッピーにはならない。

 確かに政治家は汚い。しくじっても責任をとらず、物事をうやむやにして、次の選挙による禊ぎ(ミソギ)を待って、政界に返り咲くことなど日常茶飯事だ。

 でもそれを視聴者、ああこの場合は映画の観客だな、のコンセンサスとして、かつての愛人、松たかこの口から「みっともなくてもいいから、なんとか政治家として生き延びて、世の中をよくするぐらいになってみて」といった台詞を言わせるのはいかがなものか。

 それだけで決意が変わってしまうのは佐藤浩市のキャラクターらしいが。

 だが、彼の口からは「政治家としてやりたいこと」など一言も語られていないのだ。それどころか「オレの一番の犯罪は政治家になったこと」などといっている。

 松の言葉は完全に上滑りしてしまっている。

 あまっちょろい男を、さらに甘やかせるだけの女。これは男に甘えるだけの女より遙かに悪女だ。

 それほどまでに別れた男を憎んでいるのか、と背筋が寒くなる。

 ここは、佐藤が本当に汚職に関係していたとしても「あの人は、女に弱いしエエカッコしいだけど、そんな悪いことをする度胸なんてないから、汚職なんかやってない」
と、別れて今は好きでも何でもないけど、かつて愛した男についての知識に対する自信を示し、「堂々と正しいことを証明しなさい」といったたぐいの言葉を言わせるべきだった。

 もうひとつ、松の言動には問題がある。

 それは、話の流れである社長の愛人になりすました彼女が、会ったことのない、しかしながらベッドメイクの際に、部屋の散らかりようにいつも激怒していた女の擁護を突然始めることだ。

 親子ほども年の離れた津川雅彦演じる社長との関係を。

 これはなんだかクサい、というか脈絡がなってない。

 それまでは「客室係に軽蔑されるような女になってはいけない」と正論を吐いていたのに。

 こういった点は、この映画にいくつか見られる。

 おそらく、ホテルに泊まることも多く、ホテルについての取材もし、知識も豊富であろう三谷が、現場の言葉を吸い上げて使っている部分は生き生きと魅力的なのだろう。

 松の先の発言などが典型的な例だ。

 そして、三谷が自分のセンスで書いた台詞はステレオタイプでダメなのだ。

 あと、西田敏行がいけないなぁ。

 「三男三女婿一匹」などのオバカTVドラマ、あるいは「サンキュー先生」に出ているころは、濃いけれど許せるところのある役者だった。

 しかし、大河ドラマの主格を張り、ツリバカという定番映画を持つようになるころから、多くの人気役者が辿る道を歩まされているように見えて仕方がない。

 つまり、オエラくなってしまったのですな。

 泉ピン子や大竹しのぶ、桃井かおりと同様の変遷だ。

 本人もエラクなっているつもりなのかもしれないが、それよりいけないのは、周りがそう扱うことだ。

 本作でも、いかにもあるような、精神不安でかつチャレンジする若者を馬鹿にするような言動を発する大物演歌歌手を、まったくもって不愉快かつハマッタ芸で演じている。

 私が嫌いなのは、おエラクなった者が、幸運八割という事実を忘れ(たとえ本人がどれほど苦労努力をしたとしてもだ)カサにかかった物言いをすること、あるいは、早めに引導を渡してやった方が本人のため、ビッグネームから「才能ねぇよ」って言われたら諦めもつくだろう、それが売れっ子芸人の優しさなのだ、などと、わかったようなことをいってオトナぶる負け犬たちだ。

 おそらく、三谷のまわりにはこういった事例がたくさんあるのだろう。

 また、わたしの経験からいっても実際そうだ。

 芸能界を生き延びるのは並大抵ではない。

 だが、だったら、どうして西田は、香取の要請で舞台衣装にまで着替えて記者会見の場に現れたのだろう。

 40年も芸能生活をやっていれば、ガクは無くとも、芸人としてメリットのある舞台かそうでないかをかぎ分ける能力は身に付いているはずだ。また、そうでなければ一流の芸人ではない。

 少なくとも、政治部の記者が集まる記者会見の場所へ、会見をキャンセルした政治家を逃がすためだけに、知り合ったばかりの素人の頼みで現れるはずがない、

 しかも、あげくに政治部の記者に完全に無視されるとは。

 それが三谷が大物演歌歌手の傲慢さに与えた鉄槌なのだろうが……ちょっと違うなぁ。

 まったく……

 三谷が作った西田演じる演歌歌手のキャラクタは、芸人を小馬鹿にしているとしか思えない。

 ここは、香取と即席のユニットを組んで、部屋で共に歌った曲を披露し、政治部記者に混じっていたワイドショー記者から、やんやの喝采を浴びる、ぐらいでいいのではないかぁ。

 それこそが「ミラクル」ではないか。

 実のところ、この物語で、奇跡なんてどもこにも起こっていないのだ。

 「有頂天ホテル」
 各論では、いろいろ笑っておもしろい映画なのに、総論としては、あまり良い映画とは思えないできだった。

 それでもご覧になりたい方はこちらで
  http://www.ongakukoubou.com/k_blog/k_fvrt.html

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