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僕と彼女のメランコリィ 〜海の向こう約束の場所〜

海の向こう約束の場所を観た。

 この項は作品を観てないとわからないでしょう。
 以下ネタバレです。

 作業の多くを一人でこなすという、この映画の作者、新海 誠は、メジャー・デビュー「ほしのこえ」以来、遠く引き裂かれる若い恋人たちの憂鬱を、手を変え品を変え描き続けている。

 この映画も、正に、若さに特有のメランコリー、否、孤独感を、まるでラスヴェガス近くの廃ガスタンド跡といった風情の、妙に乾燥した廃駅を背景に展開している。

 ひと気のない朽ち果てた建物、それはいかにもノスタルジィを感じる風景ではあるのだが、はたしてそういったチューボー時代の思い出に、高校に毛が生えたくらいの歳の若者が、チョイフケオヤジが学生時代に感じるような郷愁を抱くものだろうか、という疑問は残る。

 むろん、意識の深層部が眠り続ける恋人とつながっているための孤独、それゆえの郷愁という説明はできるだろうが、ちょっと独りよがりの感じが強い。

 次元転移実験の副作用で眠り続け、その夢の中で「世界の中心でたったひとりで体育座りする」女の子という設定もストレート過ぎてツライものがある。

 平行宇宙を「現宇宙の見る夢」と位置づけるのは、ママある手法ではあるが、それならもう一歩踏み込んで、自分たちの宇宙こそが平行宇宙の見ている夢なのだ、という「胡蝶の夢」的不安感を作品に持ち込んでも良かったのではないだろうか。

 誰もいない世界にひとりいる少女の見る夢こそが、我々の世界なのだと。

 彼女が夢見ることをやめたら世界は消えるのではないか、と。

 主人公の少年が、いみじくも「僕には、佐由理が輝く世界の中心にいるように見えた」と言っているではないか。

 この言葉にもっとウエイトを置いて、少女を軸に、我らの島宇宙を裏返すような力業も見てみたかったというのが、わたしの正直な感想だ。

 この話は、もともと我々の世界ではない、平行宇宙を描いた、別のタイムラインの世界の話なのだから。

 北海道がロシアによって占領されている世界。

 主人公にとって「約束の場所」とは、ユニオンと称する露助連合によって四十数度線を境に外国になってしまった北海道、蝦夷に立つ巨大アンテナ(なのか、よくわからん)で、それはただのランドマークに過ぎない。

 そこにいけば、何かがあるというわけではない。ただ行ってみたい。

 単純に、星にあこがれる星ネズミのようなものだ。

 だが、それは「スター・レッド」で、少女レッド・星が火星にあこがれるのとは一線を画している。

 セイにとって火星は故郷だ。だから郷愁を感じる。
 それこそ、深層心理に植え込まれた見知らぬ記憶、本来あり得ぬ郷愁によって、どうしようもなく惹かれてしまうのだ。

 だが、「海の〜」の主人公にとって、塔はそれほどのあこがれの場所ではない。

 少年らしい、巨大で未知なるものへのあこがれにすぎないのだ。だけどいつも気にはかかっている。

 だから、少女が唐突に姿を消した後、東北から東京の学校に移ると、エヴァンゲリオン体質の陰気で無気力な生活に埋没してしまうのだ。ここらへんの平仄はあっているのだが……

 「スター・レッド」の話をしていて気がついたのだが、彼のメランコリックな表現文法(妙な言い方だが)は、少女漫画のそれに近いのではないだろうか。

 改めて考えると思考方法、感性もそれに近いように思える。
 おそらく、作者、新海誠は少女漫画野郎だったに違いない。
 しかも昭和四十年代〜五十年代の萩尾望都、竹宮恵子あたりのファンだ。

 ブラッドベリやヴォグト、ニーヴン、カート・ヴォネガット・ジュニアなどの、活字によるSFファンではなく、女流漫画作家によるSFコミックによってできあがったSFファン、という評価が妥当なところかもしれない。

 しかし、それでいいのか?

 かつて漫画をかくために漫画だけを読むな、とはよく言われたものだが、アニメの場合はどうなのだろう。

 それはさておき、本作は、キーワードである「約束の地(プロミストランド)」を、望んで得られぬ理想の地だと考えるのは少年期を過ぎた我々の考えであって、(愛する少女と)正にその約束の地に居ながらそれとは気づかず、いずれは出て行かねばならぬその場所で、あるはずのない場所を必死に探すことこそ若者の特権なのだという真実を、はっきりと示し得た作品ではあった。

 といった、ちょいカンネン的な話はこっちにおいて、もう少しざっくばらんな感想を付け加えよう。

 全体に、この作品の値打ちを下げているのは、少年たちに対する大人のキャラクタとして登場する鉄工所のオヤジの存在だと思う。

 なにやら裏の組織とツルんでロシアに仇為そうとしているのは分かるのだが、何せオヤジの線が細い。

 新海は、おそらく押井の作品に影響されて、そういった大人キャラを作ったのだろうが、ガワだけ作って魂が入っていないというか、なんだかスカスカな感じがして仕方がないのだ。

 (このあたりからも彼がコミックやアニメによって作られた作家であることも見て取れる) 

 精神的なゴクブト(極太)感がないというか……

 そういったところに、作者のガキっぽさが出てしまったのだな。

 考えてみればわかるでしょう。地下で暗躍するレジスタンスの闘士が、子供を使った作戦など実行するはずが無いことは。

 それが、たとえ間違っていようとも、子供には任せず、自分たちの力で異次元転移塔を倒そうとするはずだ。

 子供に頼るような軟弱な心持ちで地下を生き延び、巨大な国家に仇為すことなどできるはずがない、と思っていなければレジスタンスなど三日ももたない。

 もし子供を使うなら、捨て駒として使うべきなのだ。

 個人的に、好きではないが、そのあたり押井やその弟子たちはよく分かっている。

 さすが遅れてきた全学連闘士。

 新海誠は、こういったオヤジを出す前に、せめて「テロリストのパラソル」を何度か読み返すべきだった。

 それはさておき、この作者に対して、SF要素を排した作品を作った方が良い、とする意見があると聞いたが、それは間違いだではないかと思う。

 理由は先に述べたが、新海誠は「ほしのこえ」の頃、いやそれ以前からの、生粋のSF野郎なのだ。

 まずマンガ好きでアニメ好きなSF野郎で、加えてメランコリックでセンチメンタルなノスタルジィが好きなだけだ。

 その順番は、決して逆ではない。

 まずSFありき。それが彼のストーリィメイキングの基礎となり、発想の原動力になっている。

 ゆえに、SFを抜きにしてメランコリックかつセンチメンタルなハナシのみを描こうとしたら、バラスト抜きのヨットを海に浮かべるのと同様、直ちに転覆して二度と浮かぶことは無いだろう。

 近々、そういった作品に本格的にチャレンジするとのことなので、どうなるのか楽しみに待つことにしよう。

死ぬより、恐ろしいこと 〜X-Men Final Desicion〜

 X−MEN FINAL Decisionを見た。(注意:以下、ネタバレ含)

 今回の第三作は、なんというか……駄作です。二作目もダメだったけど。 

 X−MENとは、本来、スタートレックのピカード艦長演じる車椅子の「エグゼビア教授」のもとに集った正義の超能力者たちが、エグゼビアのかつての盟友マグニート率いる悪の超人たちと闘うストーリー、だったはず。

 エグゼビアズメンという意味でX−MENと呼ばれていたはずだ。(ミュータントは、X遺伝子をもつとかいうハナシもあったが)

 えてして軽くなりがちな、こうしたB級半映画のオモシとしても、彼の硬柔併せ持つ演技は必要だったはずだし、前二作では確かにそれが機能していた。

 なのに、ああそれなのに、映画開始早々エグゼビア教授は、第二作で仲間を護るために捨て身の防御をして死んだ(と思われていたが、今回、悪の二重人格を発動させて蘇ったという訳のわからん設定の)赤毛のジーンによって、あっさりと殺されてしまうのだ。

 おまけに、時折カートゥーン・ネットワークで観たことのあるアニメ版X−MENでは明らかに主役を張っている、ということは、おそらくコミック版でもそうであるはずの、レーザー・アイを持つサイクロップス(名前もふるってるし)も、開始十分ほどで何の活躍もなく犬死にするのだ。

 恋人ジーンに殺されて。

 映画が始まってから死ぬまでに、サイクロップスがした行為はジーンを思って泣くことだけだったというのも情けない。

 これだけ殺せば、あとはアニメでは脇役の、体が丈夫というのだけが取り柄という地味な能力で粗野な「ウルヴァリン」と、第一作出演後にアカデミー女優となったおかげで、二作以降では、原作以上に活躍をしはじめた、ハル・ベリー演じる「スト−ム」とアイスマン、物質通過能力をもつキティなど、小物の登場人物が残るだけだ。

 これで魅力のある映画が出来るわけがない。

 まあ、それでも、ただひとつだけ見るべき点がこの映画にはある。

 以前、わたしは「変容は恐ろしい」と題して、普通の人間がヴァンパイアになることの恐怖について書いたことがある。

 だが、その反対の恐怖もありえるのだということを、この映画は教えてくれた。

 今回、映画で重要な役目を果たす小道具は、超能力を(おそらくは永遠に)奪い去る薬(キュアと称する)の発明だ。

 この薬液を打ち込まれると、一瞬で超能力を失い普通の人になってしまう。

 猿は樹から落ちても猿だが、政治家は選挙から落ちたらヒト以下だ、などと言われることもあるが、超能力者から能力をとってしまえば、彼のすべてが否定されたに等しいことになってしまうだろう。

 その自信その世界観からその不安にいたるまで、すべてが変わってしまう。

 かつてクロサワが「静かなる決闘」で描いた、世界のミフネ演じる軍医が負傷兵の手術をしている時に誤って指を傷つけ、その結果梅毒に感染した、その瞬間のような恐怖がそこにはあるのだ。

 キュアは超能力者を選びはしない。

 もし、X−MENたちが、彼らが護ろうとするヒトの軍隊からフレンドリィ・ファイヤー(誤射)を受けたら、一瞬で能力を失い、人類のために闘うこともできなくなるのだ。
 これは、激しく弾の飛び交う戦場で、突然、ノーヘル、ノー防弾チョッキの丸腰になってしまうようなものだ。

 なにより、キュアは、超能力者として自立するために闘っていたマグニートの部下たちには最悪の薬だ。

 一瞬でその戦闘能力と共に戦闘意義すら失ってしまうのだから。

 かつてこれほど恐ろしい薬はあっただろうか。

 小室孝太郎の描いた「ワースト」、あるいは最近リメイクされた「Dawn of the Dead」(ゾンビモノ)ですら、ゾンビィに咬まれたら手榴弾を抱いて敵の群れに突入し、華々しくヒトのまま死ねたのだ。

 だが、この薬をうたれた悪の超能力者は、普通の人になるだけだ。
 化け物になるわけではない。
 だから、爆弾を抱いて敵に突っ込むことすらできないのだ。

 かつて、マグニートのため、命をかけて献身的に尽くしていた変幻自在の変身美女ミスティークすら、超能力を失った途端、ヒトに寝返ってべらべらと情報を話始める。

 金門橋を持ち上げる、ド派手な(とも思えなかったが)戦闘シーンより、こういった、ちょっとでもかすったら死ぬより怖い事態が起こるという緊迫感の方が、よっぽど映画を盛り上げたはずなのに、それがあまり効果的には使われていなかったのが残念だ。

 突如、超能力がなくなったX−MENなんて、パンツを脱いだサル以下の情けなさなのだから、そうなるかもしれない戦闘シーンというのは何とも不安で魅力的だったのだが……

 監督が替わったのが原因とも思えない。二作目もツマラナかったから。

 まあ、出演俳優も段々有名かつ偉くなってきたし出演料もかさむ、それやこれやで、今回でシリーズは絶対打ち止め、と宣言するために、エグゼビアを殺しサイクロップスを殺しジーンを殺し、ミスティークと最後にはマグニートも、ただのヒトにしてしまったのだろう。

 その結果、良いところはあるが傑作とはとてもいえない作品になってしまった。

 よくもまあ、原作者が許したものだ。

 余談ながら、闘いには一切参加せず、すべてが終わってからノコノコと薬によって「フツーの女の子」になって帰ってきた、かつての名子役アンナ・パキン演じるローグ(第一作はまさしく彼女を中心にストーリーが進んでいた)にもガマンがならない。

オチでしくじった恐怖 〜感染〜

 先日、遅ればせながら「感染」を観た。

 和製ホラーはあまり観ないのだが、これは何かで予告を観て気になっていたのだった。
 もともと「感染」は、Jホラーシアターの一環として「輪廻」「予言」とともに作られたものだ(他の二作は未見)。

 で、その内容はというと……

 経営危機の病院に運び込まれた謎の感染症患者。
 恐ろしいほどの高熱を発し、体全体が緑色に溶けていくその感染症は、やがて病院に蔓延し始める。

 それだけならただの、いわゆる洋画「アンドロメダ病原体」と同じ「病原菌もの」なのだが、筋肉が溶けきった死体の核(塊?)が通風口に逃げ込み、医師たちがそれを捜索し始めてから、映画は「エイリアン」的な様相を呈し始める。

主要キャスト
 設備も人も底をついた零落病院では重病人をとても扱えないと、救急隊員に引き取り拒否する善意の主人公、佐藤浩市。

 こっそりとその患者を受け取り、「医学界に衝撃を与える奇病の観察と実験を行えば、病院がつぶれても、よその病院に転職が可能になる」と嘯(うそぶ)く佐野史郎。

 妻に送金するために是が非でも金が必要なのに、給料の支払いが滞り窮地に陥っている医師に高嶋政伸。コイツが「良い人」でないのが良い。

 上記キャストは、三者三様なかなかのホラー顔(ヅラ)をしていて好感がもてる。

 そこに、気丈な看護婦(士?)長、南果歩と、シャルウイダンスで洒落た初老のダンス教師を演じた草村礼子の認知症老女が脇を固め……。

 経営危機の老朽化した病院、未知の病原体、そこに医療過誤の隠蔽などもからんで、おもしろくなりそう……という予想が後半になって尻つぼみになってしまったのが残念だった。

 とくに、体中の穴から緑色の粘液を吹き出して、感染者が次々と狂い死にしていく奇病を、ラスト近くで「サイコモノ」として合理的に説明しようとするのがいけない。

 ミステリー、特にSFに関する才能は凡庸でも、ことホラーに関しては非凡なセンスを持っている直木賞作家の高橋克彦が、かつて自作の中で「恐怖は理不尽なものほど恐ろしい、説明できない怪異ほど恐ろしいものはない」と語り、その例として『胸騒ぎを覚えて箪笥の引き出しを開けたら、二十センチほどに縮んだ、亡くなったおばあちゃんが張り付くように横になって笑っていた』という話を出しているが、これは確かに怖い。
 意味不明だが、それゆえに怖い。

 監督の落合正行は、映画「パラサイト・イブ」の監督であるから、結果的に恐怖に理屈を求めてしまったのだろうか。

 「リング」「らせん」と快調にホラーを書き連ね、やがて決して映画化できない「ループ」に到着してしまった「SF作家」鈴木 光司と同様に。

 一応、公式サイトはこちら(http://www.j-horror.com/

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