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 あー書いちゃった。恥ずかしい~ -メイちゃんの執事-

うーん、うーん、う~~~ん……

 うなされているんじゃありませんよ。

 このことについて書くかどうか、迷っているんです。

 でも、書き始めたからには、もう書いてしまいます。

 そのまえに、準備運動を。

 この間まで(ってちょっと古いけど)、「夜王」に代表される、ホストが主人公のコミックって流行ってましたよね。

 この際、テレビドラマは考慮にいれないことにします。(わたしの知るかぎり駄作が多いようだったので)

 あれをコミック喫茶で一気読みした時には、ちょっとしたショックを受けましたね。

 ああ、このやり方があったんだ、と。

 たとえば、戦国もので、あるいは極道の覇権(はけん)争いモノで、あるいはスポーツもの、政治モノ、会社出世モノ、麻雀ギャンブルモノといったジャンルで、階級動物の権化である「男」は頂点を目指します。

 彼らの行動に際して、たいていの場合、話の核になるのは、彼らの能力の競い合いです。

 戦国ものなら勇気と知略、極道モノなら胆力と運、スポーツものなら親の遺伝、政治モノなら策略と謀略といった具合に、主人公たちは、それぞれのフィールドで、彼らの力を競い、その分野で勝ち上って行く。

 しかし、しょせん闘いは闘い、そこには、どうしても血なまぐささがついてまわります。

 だから、そういった作品は、もともと潜在的に「あからさまな闘い」の苦手な女性たち(例外はあります。もちろん)からは決して支持されません。

 とくに、謀略策略の世界についてはダメでしょう。

 つまり、それら戦闘系の作品は、性の半分、「世の中の半分の支持」を最初から放棄しているわけですね。

 しかし、ちょっと目線を変えて闘いを「ホストの成り上がり物語」にすれば、話は変わってきます。

 彼らは、女性に尽くす(見せかけでも)度合いと成功率で、その世界で成り上がっていくわけですから。

 おまけに、作品の立ち位置としても悪くない。
 男目線で見れば、モテ男のバイブルとなりますし(個人的には疑問視してますが)、女目線で見れば、「あれもイイカナ」なんて憧れの対象になりますからね。

 ドラマの制作者サイドから見ても、いわゆるイケメンを大量投入して、華やかな映像で夜のドラマのメイン視聴者である女性を引きつけ、視聴率を確保することができる。

 うーん、三方一両損ならぬ、三方みなメデタシじゃないの。

 んが……やはり、ちょっと気に入らないんですね。いや、わたしはね。

 そう思っている人って結構いたんじゃないかな。

「いくらキレイ事いっても、ホストってやっぱり心は相手の女性に捧げていないジャン」みたいな感じがするんですね。

 男の側から見ても、なんか女性を使って成り上がるって、ちょっと方向性が違うなぁ、と思ってしまう。

 そりゃあ、男だったら女性にモテるストーリーはうれしいでしょう。

 わたしが敬愛するショージ君(東海林さだお氏)も、若い頃からそういっておられる。

 もてないと「グヤジィ~」ってね。

 しかし、同時に、そこには「この女を守ってやりたい」という燃えるような高揚感がない。

 女性には分からないかもしれませんが、男には、「支配したい」という欲求と、仕えるに値する対象に「無私に仕えたい」という相反する欲望があるんですね。

 なんせ「階級型生物」ですから。

 ストーリーを作る側も、そういったことは機敏に感じ取っている。

 だから、「愛妻家のホスト」(ギラギラ:しかも土田世紀「俺節」カヨ)なんてピンボケ(失敬!)な発想をしてしまうんですね。

 それだったら、オーソドックスに「悲劇の女王に仕える誇り高き騎士」を描いた方がいい。
 メアリ・スチュアートと黒騎士ブラッドフォードみたいにね。

 しかし、それは、ちょっと殺伐としすぎる。

 ならば執事ですよ!

 日本人でありながら、まったく日本語を話せない英国在住カズオ・イシグロ原作の名作「日の名残り」(アンソニー・ホプキンスとエマ・トンプソンの映画も良かった!)で示される誇り高き執事の生き方。

 女主人に仕える美男執事、これでキマリ!

 というわけで、現在放送中の「メイちゃんの執事」です。(公式サイトのFLASHのハデになり過ぎない美しさは特筆モノですね)

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 タイトルは「メリーさんの羊」からきたんでしょう。(ドラマでも羊のアニメキャラクタが走り回っています)

 これもドラマが始まる前に二巻ほど、コミック喫茶で呼んだのですが(すべて、友人のために何を録画するべきか判断するためにしているんですよ!)、絵柄も好みではなかったし、あまり感銘を受けないまま、とりあえず録画はしておいたのです。

 例によって、きちんと録画されているか調べるために、飛ばし観したのですが、まず最初の「聖ルチア学園なんたら~」でもうダメだった。

 月謝が1億円とか、東京都の何分の一の敷地面積だとか、移動はヘリコプターだとか、ちゃちなCGくさい建物もXだったし……

 しかぁし!違うんですよ。

 はっきり断言しましょう。「メイちゃんの執事」は面白い。すばらしい。

 第4回だったかなぁ。これも録画チェックのために、流しておいて、他の作業をしていたら、なんかコツコツとひっかかるんですね。

 登場人物の台詞に。

 それがつまり、先ほどからクドいほど書いてきた「真に仕えるもののために仕える男の喜び」に関係するハナシだったからです。

 わたしの小説を読まれた方なら、わたしの嗜好がそういったものであるということはお分かりでしょう。とくに「ルナティック・ドール」あたりなんかはね。

 「メイちゃん~」では、「瞳」のおかげですっかり女を落としてしまった榮倉奈々(わたしはほとんど観てなかったのですがね)が、ナカナカ頑張っています。

 昨今のはやりは、カラダの大きな(つまりスタイルがよく背が高く男に見下ろされない)女の子に主役をさせることですが、「瞳」では見事にそれが的外れになっていました。

 だいたい、ひとりだけ火の見櫓(ヒノミヤグラ=むやみに背が高い)の女の子が、シンクロが必須のダンス・ユニットに入って踊るのって絶対おかしいっしょ!

 大きな女の子は、それに向いた使い方をしなければダメです。

 モデルとか、女優とか、スタイル抜群のお金持ちのオジョーサマとかね……

 と、思っていました。今までは。

 しかし、それは間違いでした。わたしが間違っていました。

 だって、原作のメイチャンは本当に小さい女の子なのに、ドラマで榮倉奈々がやっていても(さすがに最初は違和感がありましたが)だんだん気にならなくなって来るんですから。

 やっぱ、「瞳」で、ひとりデカい榮倉奈々に、ずっと違和感が続いていた(たまに観るたびにそう感じていました)のは演出と脚本のせいだったんだなぁ。

 その意味で、「メイちゃんの執事」は、原作にある、いかにも女性のセンスで書かれた(それも悪くはないのですが、万人向けとはいえない)ストーリーと演出が、男性の脚本家と演出家によって、すばらしい作品に仕上がっているのです

(あー、書いてしまった。恥ずかしい。穴があったら入りたい。でも本当です)。

 甘やかされて育ってきた、デキの悪いお嬢様たちが、学園内で必ず一人はつけられる執事の存在によって「主(あるじ)として誰に恥じることのない毅然たる態度、尊厳」の大切さに気づいていくストーリーは、観ていて本当に気持ちがいい。

 これは、ドラマのテーマ、つまり原作と当たるため、無理な願いであるとはわかっているのですが、できれば男女の愛でない、主人と執事の信頼をメインに描いて欲しいものですねぇ。

 今日の毎日新聞の夕刊でしたか、脚本家(ご存じ「ハケンの品格」「OLにっぽん」)の中園ミホ氏がコラムを書いていました。

 彼女は、だいたい毎週「売れっ子脚本家として、今どんなドラマが気になるか」を書いているのですが、先週は山田太一氏の「ありふれた奇跡」を持ち上げ、今週は「銭ゲバ」の岡田恵和氏をベタ褒めしていました。

 いーよなぁ。

 わたしも、そういった、ほとんどの人が頷く作品を持ち上げて褒めたいよ。

 でも、自分の心に嘘はつけない。「ありふれた奇跡」や「銭ゲバ」では、わたしのハートには届かないのです。

 中園氏は「銭ゲバ」は、音楽も演出もすばらしいと書いています。

 確かに、哀愁を帯びた音楽はなかなか良いですし演出も悪くはない。

 しかし、音楽とCGを交えた演出のすばらしさでは、どう考えても「メイちゃん」の方が上です。

 会話と行動のテンポ、カメラアングル、音楽の入り方、すべて一級品です。
 あ、付け足しみたいですが、役者もがんばっています。

 タイトルとオープニングで拒絶反応を示した方も、ぜひ一度ごらんになってください。

 もちろん、「銭ゲバ」の松山ケンイチは個人的に好きですし、椎名桔平が本当に気持ちよさそうにワルモノを演じている姿はすばらしい。
 彼のワルモノ演技は「嗤う伊右衛門」でも際だっていました。

 しかし、今になって、「銭ゲバ」はないでしょう。

 いくら格差社会っていったって、イマドキ生活保護も受けずに病死するというのは感覚的にちょっと合わない気がする。その感覚はやはり昭和40年頃のセンスだなぁ。

 岡田氏にとって「銭ゲバ」は、絶対脚色したいふたつの原作のうちのひとつ、ということらしいが、まさか残りのひとつは、あの連載中止になった「アシュラ」じゃないだろうね。
 人肉(死肉)喰らい(カニバリズム)をテーマにしたあの作品はドラマじゃ無理だ。

 映画「20世紀少年」で、ハリボテ・ロボットの映画をつくるくらいなら、わたしは、いっそジョージ秋山の「ザ・ムーン」を作りたい。

 孤児の子供たちに渡された、善悪の区別なく思い通りに動く巨大ロボット「ザ・ムーン」!

「善を為すも悪を為すも、君たちの好きにすれば良いのだよ」

 やっぱり、若い頃のジョージ秋山は天才だなぁ。

 特撮でなければ、わたしは個人的にジョージ秋山の最高傑作だと思っている「ラブリン・モンロー」をホン(脚本)にしますね。

 まあ、500パーセント映像化は不可能でしょうが(内容をご存じの方ならおわかりでしょう。あれはテレビ化出来ない)。

 再販はされず、今や、オークションでも手に入りにくくなった幻の名作ですが、機会があれば、ぜひお読みください。

 閑話休題

 何について書いていたかも忘れるほど、長くなってしまいましたが、とにかく「メイちゃんの執事」ぜひ一度ご覧になってください。

 面白いですよ。

 動画配信で最初から観ることも出来ます。

奇異なキイナ ~おんな一休さん~

今日の休みを利用して、また録画ビデオをチェックしました。

 前から気にはなっていましたが、なぜか観る気になれなかった「キイナ 不可能犯罪捜査官」を(第一回だけですが)観ることができました。

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 観始めて数秒で、なぜ観る気になれなかったかが分かりました。

 オープニングはじめ、内容も含めて、これはイカニモ「トリック」の延長線上のストーリーっぽいからです。

 「この男は実在する」は空手バカ一代オープニングにおける梶原一騎の名セリフですが、「トリック」同様「キイナ」でも「この話は実話である」といった体でストーリーは始まります。

 また、これもトリックや爆学のように、セリフの合いの手に、人を小馬鹿にしたような「カーン」といった鳴り物が入るのかと、ヒヤヒヤしながら観ていましたが、「キイナ」ではそのような奇をてらった演出はなく、ストーリー展開、そしてトリックまでもがオーソドックスなミステリとなっていました。

 その点、わたしには好感が持てました。

 ただ、キーワードとなる「記憶する心臓」だけが、奇異な出来事だったのです。

 作中で気になったのは、「モンスターペアレント」同様、例によって何をいっているか何を考えているかよくわからない草刈正雄の演技……ではなくて、ヒロイン、キイナが、瞬間記憶能力と称する能力を備えていて、本をぱらぱらとめくって記憶するところでした。

 眼球を素早く動かさないという点で、いわゆる「速読術」ではなく、最近はやりの勝間氏ご推薦の「フォトリーディング」に近いものといった印象をうけました。

 右脳読みってヤツですね。

 これについては、わたしも以前から使っていて結構有用だと感じていますが、それは置いておくとして、速読したあとのキイナは、その書物の知識すべてを記憶し有効活用できるようになる。

 うーん、これはどこかで観たことがあるぞ……そうだ「ジョー90」だ。

 サンダーバードのG・アンダーソン制作のSFスーパーマリオネーション。

 主役のジョー90を太田淑子さんが吹き替えていた。

 凡庸な少年ジョーは、天才科学者である父親の発明のビッグラット(BIGRAT:Brain Impulse Galvanoscope Record And Transfer)を使って、専門家の知識を吸収し、電子メガネで活性化してスーパー・エスピオナージュに変身する。いわゆる少年スパイですな。

 つまり、キイナはフォトリーディングを使用して、その方面の専門家になる、現代のジョー90というわけです。

 能力を吸収するという点で、HEROESのピーター・ペトレリにも似ていますね。

 HEROESについては、この書庫の別項で書くつもりです。

 あと、こめかみを指で押さえてクルクル回す、あからさまな一休さんの模倣はご愛敬ですね。

「カツラギのオカーサン」誰あんた? ~トライアングル~

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 しばらく前に、TVドラマ「トライアングル」の江口洋介の怪演について書きましたが、また気になることが出てきたので、備忘録としてここに書いておきます。

 ドラマをごらんになっている方はご存知でしょう。

 江口洋介演じる郷田亮二は、かつて自分の初恋の人であり、25年前に殺害された葛城佐智絵の母、風吹ジュン演じる葛城清子のことを「葛城のお母さん」と呼び、父均を演じる大杉蓮を「葛城のお父さん」と呼んでいます。

 まあ、これはいい。

 だって初恋の女の子の両親だし、おそらく家庭参観などで二人の姿を見たこともあるだろうから。

 郷田が彼らのことを、もしかしたらボクの義理のお父さん、お母さんだっカモしれなかった人たち、という意味で「葛城のお父さん」と呼ぶのは、ありえるでしょう。

 同様に、佐智絵のことを好きだった同級生たち、笠原章介演じる富岡康志などがそう呼ぶのも理解はできる。

 だが、佐智絵に会ったこともない、稲垣吾郎演じる黒木舜や小日向文世演じる丸山慶太までもが、「カツラギのオカーサン」「カツラギのオトーサン」と呼ぶのが合点がいかない。

 「知り合いカヨ」って、そりゃあ知ってはいるでしょうが、そんなに親近感ある呼び方をするのはおかしいでしょう。

 考えてもみてください。皆さんが、「友人の」知り合いの女性、たとえば親友の知り合いである山田さんという60年配の女性を呼ぶ時に「山田のお母さん」って呼びますか?

 そりゃ、その山田君だか山田さんという子供を、じかに知っていたら呼びますよ。

 でも、山田君に会ったこともないゴローちゃんや小日向氏が「山田君のお母さん」はないでしょう。

 気の強い女性だったら、「アンタだれ?慣れなれしいんだよっ」って真っ二つにされてしまいますよね。
 

 演出が、言葉遣いに注意せず、役者に言わせているとしたら、とんでもない間違いです。

 しかし、もし……もしわざとそう呼ばせているなら、とんでもないドンデン返しがその言葉の裏に潜んでいるのではないかとワクワクしてきますね。

 って、そんなことはないだろうなぁ。いくら関西テレビ放送開局50周年記だからってね。

 個人的に宅麻伸のファンだった(NHKの「悪意」でエエ味出してましたから)ので、彼があっさり殺されたのは残念だったのですが、ドラマ「トライアングル」まだまだキテレツな演出で楽しませてくれるにちがいありません。

 何をもってのタイトル「トライアングル」かも、まだ明かされていませんしね。

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