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生き残った男の子、残された男のはなし ハリー・ポッターシリーズ読了

いろいろと書きたいことは山積しているのに、すぐに寄り道をしたくなるのがいけない。

 先日も、行きつけの大学図書館で、これを見つけて借りてきた。

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 いわずと知れたハリー・ポッター第7巻「HARRY POTTER AND THE DEATHLY HALLOWS」~ハリーポッターと死の秘宝~上下だ。

 当初、ハリー・ポッター・シリーズについては、あまり興味がなかったので、いろいろと有名になってからも接触せずに来たのだが、何年か前に第2巻を公立図書館で見かけ、立ち読み!したところ、意外におもしろかったので、1、2巻を古本で買ってきちんと読んでみたのだった。

 「恐怖の伝説をまとう、名前をいってはいけないあの人」を物語の陰影にして、生き残った男の子:ハリー・ポッターを主役に魔法学校で暴れるズッコケ三人組といった内容は痛快で、特に二巻の「秘密の部屋」は面白かった。

 だが、読み進めるうち、誰が何を言い、どう行動しているがよくわからなくなってアタマがこんがらかってきた。

 わたしも偉そうに言えた義理ではないが、どうも、訳文の「てにをは」と、文章の組み立てがおかしいような気がするのだ。

 言葉の使い方もちょっと気になる。

 たとえば、「脱兎のように」は、比較的小さなイキモノが、すごいスピードで走っている様子をあらわしている。

 だから訳者は、少女がスゴイ勢いで走り寄ってくる様子を、「脱兎のように近づいてくる」と表記している。

 その気持ちはわかる。

 しかし、わたしにとって、脱兎、つまり逃げ出したウサギは、観察者(自分)から離れていくイメージがどうしてもうかんでしまうから、個人的に、「脱兎のように」は、走り寄る際には使わない。

 どうも訳者は英語が主で日本語が堪能ではない人なのではないか?

 そう思って、あとがきを読むと、下訳を日本人に校正してもらっているとのことだった。

 ならば、もともとの英語がおかしいのかもしれない。

 それを確かめるために、アマゾンUKから英国大人版4巻入りボックスというやつを買った。

 読んでみると、原文は、P.K.ディックのような純文学かぶれの読みにくいモノではなく、英国人の文章でもあるためか、端正でわかりやすい文章だった。
 同じディックでも、読みやすいディック・フランシス(競馬シリーズ)の文章のようだ。

 以降、ポッター・シリーズは英文で読んできたが(その方が早く読める。日本語版は遅いからね)、徐々に、あまり意味を感じない大作化をして読むのが苦痛になってきたため、6巻で読むのをやめた。

 安易に登場人物を増やしすぎ、世界観を広げ過ぎているような機がする。

 ラヴクラフト、じゃなくてアーシュラ・K・ル=グウィン(ゲド戦記)やトールキン(指輪物語)を意識しすぎているのだろうか?

 確かに、世界を救う男の子の話を書くなら、それは必要かもしれないが、別な、もっと良いアプローチもあったのではないだろうか?

 要は、あの人を倒せば良いのだから、舞台を魔法学校限定にしても良かったのではないか?

 ズッコケ3人組、魔王を倒す、の方が、わかりやすくアウトラインとして美しいような気がする。

 もっとすっきりした話のほうが、イイタイコトがきちんと読者に伝わるのではないかなぁ。

 そうすれば、大人を意識しすぎたあまり、コドモたちが離れていったシリーズ後半の愚を避けることができたのはずだ。

 ガンバの冒険(冒険者たち)をみよ。

 ジュブナイルでありながら、大人が読んでも遜色ない内容を持っているではないか!

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 などと文句をいいつつも、7月末に出た最終巻(日本語版)が二冊揃って棚にあるのを見て反射的に借りてしまった。

 大きい声では言えないが、あまり勉強に熱心でない大学の図書館は、いつもひと気がなく、一般の図書館よりもはるかに最新刊が豊富にある。

 まあ、ポッターシリーズ自体、旬を過ぎているからかもしれないが借りるのは、わたしが最初だった。

 で、以下は感想です。

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 相変わらず、読むうちにアタマが痛くなってきたが、なんとか最後まで読み終えた。

 まず感じたのが、最初に第7巻を書き上げてから、過去を書き始めたというのが定説らしいが、それならば、もう少し過去6巻を使ってバラまいた伏線を、一息に引き絞る力わざをみせて欲しかった、ということだ。

 ハリー・ポッターという長編小説のアウトラインの話だ。

 正直にいうと、わたしは長編マンガ、小説が好きではない。
 なぜなら、ほとんどの作品がいろいろなエピソードの寄せ集めに過ぎず、全体を通したまとまりが感じられないからだ。

 書く側にすれば、これほど書きやすいものはない。
 ただ、小さい話を思いついてエピソードを並べ、本来なら、連作として発表するべきものを、一冊の長編として売り出せば良いだけなのだから。
 (作家は、長編でないと一冊の本の形として売り出ないから、是が非でも長編を書かなければならないのだ)

 しかし、わたし個人としては、長編はそんな安っぽくあって欲しくない。
 短編の連作が、結果として長編めいて見えるのは良いが、一本の長編ですよ、といった体裁で、その実、中身がいくつもの脈絡がないミニ・エピソードだらけという作品がよくある。

 ただ、枚数をかせぐためだけに、無意味なエピソードを書いているだけなのだ。
 そういったスカスカ、ペラッペラな小説ではなく、長い話は長いなりに、美しくまとまって、良いプロポーションであって欲しいのだ。

 長編が似たような話の並んだズン銅なのはいけません。

 次に、ストーリーに関しては……

 これが、なかなか良かった。

 全面戦争の中、重要な人々が傷つき、あるいは死んでいき、最後に彼の心の中の真実が語られ、やはり彼は勇気の人であったのだ、とわかる。

 これまでのシリーズを読んでいれば、薄々、そうじゃないかな、という伏線が、彼に関しては、何本もひかれていた。

 このあたりの話が、本当に、すごく良い。

 こうあって欲しい、というヒロイズムが期待したとおりの形で語られる。

 読まれた人はわかるでしょうが、わたしがいっているのは、主人公のヒロイズムじゃないよ。主人公は、泣き言ばかりの(一見いじめ抜かれているように見えるが)甘やかされたガキンチョに過ぎない。

 本当のヒーローは、ずっと前の巻から、いや、物語が始まる前から彼だった。

 彼女が持つ魔女の資質に最初に気づいたのも彼、彼女に魔法学校の存在を教えたのも彼、
 最初に彼女とホグワーツ行きの列車に乗っていたのも彼だった。
 そして、自分を馬鹿にし、、目の敵にした、もっとも憎むべき軽薄な男と彼女が結婚するのを、ただ見ていたのも彼だった。
 彼女の身が危うい事を知り、なんとか助けようと奔走したのも彼だった。
 後に、憎い男と愛した女性との間に生まれた子供、目がその女性に似ている子供を、愛憎半(なか)ばする気持ちに揺れながら守り続けたのも彼だった。
 そして、彼は、誰にも顧みられず犬死にする。

 本当に、このあたり、すごくイイんだけどなぁ。

 残念なのは、ストーリーを作る上で、やってはならないことのひとつを、作者がやってしまっていることだ。

 以前にもどこかで書いたが、小説技法の金科玉条といってもよいことがある。
 よほど奇抜な話でないかぎり、最大のライバルには決してヘマをさせてはならない、ということだ。
 敵にヘマをさせて主人公が勝つ。そんなストーリーなら簡単だ。
 2分で10本ぐらいできる。
 敵が決して安易なヘマをせずスゴイヤツで、そいつをなんとか主人公が打ち負かすから、物語が生きるのだ。

 敵のすごさは、それに打ち勝つ主人公のすごさだ。

 敵の愚かさは、主人公の、物語を考える作者の愚かさだ。

 その意味で、ハリー・ポッターの誰もが恐れる「あのお方」はヘマ過ぎた。

 愚か過ぎた。

 まるで恐ろしくない。

 大変な失敗をしてしまったものだ。

 ラスト近く、黙って死んでいった彼の人生を鮮やかに甦らせ、19年後のラスト・シーンが切なく美しいから、なおさら最大の敵が無知とヘマで自滅するような展開が残念でならなかった。
 
 もし、うわさどおり、最初に書いたのが7巻であるなら、およそ10年かけて1~6まで書くうちに、作家として成長した自分の筆で、もっと7巻に手をいれるべきだった。

滅美(ほろび)  〜SF的人類終末考〜

 離婚遺伝子の項で人類滅亡に触れたので、それについて少し書いておこう。

「地球幼年期の終わり(Childhood's End)」や「太陽系最後の日(Rescue Party.)」(ともにA.C.クラーク)のように、人類のさらなる発達のための、新たな方向にシフトするために起こる人類滅亡ではなく、天変地異や兵器のために、ただなす術(すべ)もなく死んでいく滅亡話がSFには多く、秀作もまた多い。

 なかでも、わたしが好きなのは、

「大当たりの年(The year of Jacpot.)」(ハインライン)
「終わりの日(The Last Day)」(マティスン)
「睡魔のいる夏(筒井康隆)」

だろうか。

 あと、「波が砕ける夜の浜辺で(Night Surf)」(S.キング)も捨てがたい。
 これは、鳥インフルエンザに似た流感によって人類が滅亡する終末の姿を、いかにもキングらしい筆致で描く秀作だ。

 もうすぐ映画になるらしい「感染列島(スペリオール連載中)」末期ってカンジだな。

「睡魔がいる夏」は、人類滅亡ではなく、一都市の壊滅といった感じではあるが、人々が抵抗できない死に直面するという点では似ている。
 あの筒井康隆とは思えない、静かで穏やかで……優しい筆致が、ラスト・シーンを美しく彩る名作だ。

 上記作品のどの主人公も、迫り来る死を前に、狂気に走る人々をしりめに、諦観(ていかん)をもって、愛するものとふたり、手に手をとって終末を迎えるところで物語は終わっている。

 それは、まるで、鮮やかで澄んだ水彩絵の具で描かれた一枚の絵のように、穏やかで美しい印象を読後に残す。

 デビルマンの最終シーンにも似た、荘厳さが感じられる作品群だ。

 すっかり変わってしまった地球で、変わってしまった姿で、ゆらゆらと地上に立っているコドモたち、「地球幼年期の終わり(Childhood's End)」も、ある意味、絵画的であるが……

 余談ながら、主人公に諦観はないものの、内容のスリリングさ、タイトルとのシンクロ性の妙で「影が重なる時」(小松左京)も、破滅モノとしては捨てがたい。

 映画でも「渚にて(On the Beach)」という秀作がある。

 SF作家が、いやわれわれが、終末モノに興味をもって、そういったタイプの作品が数多く書かれるのは、潜在的に『なす術のない死』『避け得ない突然の死』に対して恐怖を持っているからであろうが、それだけではない。

 野生動物で、死を意識するほど知能があって、近づく死を感じたならば、生きるために死にものぐるいになるだろう。決して落ち着いた行動はとるまい。

 あるいは、人類のように、もう少し知能があれば、クスリや快楽で死を忘れ、あるいは暴力にはしり、異変で死ぬ前に他人を殺し、自分も死のうとするかもしれない。

 しかし、死を目前に、ケダモノ化する人間たちにあって、『そうでない人々』が存在する、ということを、作家たちは、小説の中で、多くのシミュレーションを繰り返して示そうとしているように、わたしには思える。

 それこそが、原初、太古の生命の海に生まれ、陸に上がり、ここまで知性を発達させた人間が獲得した何かの証明であろうから。

 人類が生み出した自然の低いレベルでの模倣=科学が、ヒトと動物とを区別するものであるとするなら、それでは止められ得ない強大な破滅に対して、人類が他の動物を違うことを示す、唯一の証が、愛するものの手をとって終末を迎える「諦観」なのかもしれない。

 が、個人的には、「影が重なる時」の主人公のように、最後まで走って、あがくというのも嫌いじゃないな。

 最近の風潮なら、最後まであがけってのが主流じゃないかな。

 ここ数百年の日本の文化では、諦観が主流だったから、その反動かも知れない。

 最後に、ざっと、思いつくままに海外SFの破滅ものを並べると、
「太陽自殺」「さなぎ」「トリフィドの日」「大破壊」「最終戦争の目撃者」「悪魔のベクトル」「魚が出てきた日(映画もあったね)」「1986年ゼロ時」「大地は永遠に」「長く大いなる沈黙」「フェイル・セーフ」「沈んだ世界」「狂風世界」「燃える世界」「結晶世界」「荒廃」「破滅への二時間」「長い明日」「暗黒星雲」「生き残る」「地球最後の男」「海が消えた日」「300対1」「レベル7」「世界の小さな終末」
といったところだろうか。

 古いものに秀作が多いのは、この頃ので、プロットが出尽くしたからかな。

 あと、完全な終末ものではないが、A.ベスター(虎よ、虎よ!、分解された男)の「昔を今になすよしもがな(They Don't Make Life Like They Used To)」は、十代の頃読んだ時には、まったく良いと思わなかったが、最近読み返してひどく感銘を受けた名作だ。

アーサー.C.クラーク死す

 死因は(おそらくは加齢性の)心不全だった。

 もっとも、彼の名前も死因も、さきの広川太一郎の訃報同様、興味の無い人には、どうでもよいことだろう。

 しかし、

『宇宙への序曲』 Prelude to Space (1951年)
『火星の砂』 Sands of Mars
『幼年期の終り』 Childhood's End (1953年)
『銀河帝国の崩壊』 Against the Fall of Night (1953年)
『海底牧場』 The Deep Range
『渇きの海』 A Fall of Moondust (1961年)
『イルカの島』 Dolphin Island
『地球帝国』 Imperial Earth (1975年)
『楽園の泉』 The Fountains of Paradise
『遥かなる地球の歌』 The Songs of Distant Earth
『神の鉄槌』 The Hammer of God
『『2001年宇宙の旅』 2001: A Space Odyssey (1968年)
『2010年宇宙の旅』 2010: Odyssey Two
『2061年宇宙の旅』 2061: Odyssey Three
『3001年終局への旅』 3001: The Final Odyssey
『宇宙のランデヴー』 Rendezvous with Rama (1973年)
『宇宙のランデヴー 2』 Rama II
『宇宙のランデヴー 3』 The Garden of Rama
『宇宙のランデヴー 4』 Rama Revealed
といった長編や(本当はもっとたくさんあるが、自分が読んで気に入ったものを記載)、

『前哨』 Expedition to Earth
『明日にとどく』 Reach for Tomorrow
『白鹿亭綺譚』 Tales from the White Hart
『天の向こう側』 The Other Side of the Sky
『10の世界の物語』 Tales of Ten Worlds
『太陽からの風』 The Wind from the Sun
『太陽系オデッセイ』 (自選短篇集) The Sentinel
といった短編で、SFの薫陶を受けた者には、特別な出来事なのだ。

「幼年期の終わり」では長いスパンでみた人類という種の進化を、「神の鉄槌」では、大量の化石資源を消費しつつ信じられない量の二酸化炭素を発生させながら、後部から汚い炎を吹き出して飛んでいく、現在の下品なロケットなるものに終止符を打ち、優雅に地上からエレベーターで大気圏を越え、宇宙で船に乗り換える、いわゆる『軌道エレベーター』(もちろんこれは、現実のシステムとして、将来実現可能なものだ)を描いて見せた。

 短編でも、特に初期の「時間がいっぱい」は、個人的に大好きな「大当たりの年」同様、人類終末ものの佳作だ。

 福島正美が絶賛した「太陽系最後の日」も、一見、人類終末もの、と思わせておいて、人類という種の持つエネルギー、ポテンシャルの高さを高らかに詠いあげた、読後感さわやかな作品だ。

 また、彼を語る時にかならず引き合いに出される、若き軍人時代に作成した「地球の周りに静止衛星を3つ浮かべたら、地上のあらゆる場所に電波を送ることができる」レポートや、晩年移り住んだスリランカで、世界の情報をいち早く手に入れるために、山の上に巨大な衛星アンテナを設置した話は有名だった。

 残念ではあるが、90才の寿命といえばヒトとしては長い部類に入るだろう。

 晩年、というか、死の直前まで「生きている間に宇宙人のいるという確かな痕跡を見たかった」と語っていたというのも彼らしい。

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