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愚直な美しさ 〜劔岳 点の記〜

 劔岳 点の記を観て来ました。

 出かけてみると、平日の昼過ぎだというのに劇場が老人たちであふれかえっていて驚きました。

 その老人たちの、あたかも自宅にいるかのように、楽しげに会話しながらのカウチポテト的観劇には怒りを通り越して感激してしまいましたが……

 山を、つまり登山をテーマにした映画に失敗作はほとんどないので(「バーチカル・リミット」のような例外はのぞいて)ほとんど心配せずに観に行ったのですが、「劔岳」は、奇をてらわず、真っ正面から(現在からすると)おそろしく貧弱な登山装備でルートのない山に登る冒険映画でした。

 残念ながら原作を知らなかったため、出かける前は、聞きかじった知識で、スコットとアムンゼンのような、日本山岳会と陸軍との登頂争いを描いたものだろうと考えていたのですが(なんといっても、新田次郎はあの「八甲田山」の原作者ですから)、実際は、競い合うグループが、お互いにエールを送りつつ初登頂を競う、さわやかな岳人讃歌の作品に仕上がっていました。

 ラスト近くで、手旗信号を通じて交わされる(恥ずかしながら、わたしは手旗信号が読めるのです)、共に苦労を分かち合った者のみが知る、敬意のこもったメッセージは観る者の胸を熱くします。

 茜(あかね)色に染まる雲海、巨大な山肌をゆく豆粒のような人間、滑落、雪崩……

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 私事(ワタクシゴト)ながら、わたしも数年前までは毎年のように北アルプスに登っていました。

 人の多い山小屋は好きでないので、毎回テント一式を担いでの山行きでしたが、一度、槍の肩で強風に見舞われたことがあります。

 夜半から明け方にテントを撤収するまで、吹き付ける風で、愛用のライペン(アライテント)が異様に変形して、中にいると四方八方からこづかれるように押されまくったのですが、同様の描写が「劔岳」でもあったので、それを懐かしく思い出しました。

 世界のクロサワのもとで腕を磨いた木村監督が、二年という時間をかけて実直に作った初めての映画は、山の風景映画としても一級品です。

 最期のどんでん返しも、物語の骨子を揺らさない、すっきりとしたものでした。

 ああ、どんでん返し(って知ってますよね?)で思いだしましたが、最近は、映画といわず、テレビドラマといわず、小説といわず、マンガといわず「いかに読者に衝撃を与えるか」ばかりを考えている作品が多すぎるような気がします。

 もちろん、読者あるいは観客は、一時的ながらも主人公と同一化し、凡庸な毎日から抜け出し「刺激的」な経験をしたいと考えてはいるでしょう。

 だからといって、「大脳生理学」などの「流行(はや)りのキーワード」をもとに、ただ奇想天外などんでん返しばかりを羅列されても、だんだん感覚が麻痺して退屈になるだけです。

 こういった傾向は(一概にはいえないものの)劇作家の書く小説に多いような気がします。

 もともと戯曲はあまり一般的ではない上に、下手な役者しか扱えない戯作者は賞をとれないために、何年か前から、それを小説に焼き直してブンガクショウをとるのが流行っています。

 舞台を頻繁に変えられない小劇場向けの戯曲は、いきおい少人数の登場人物の心理劇になってしまうことが多いし、映画やテレビドラマと違って、観客に微妙な表情を見せることができない演劇は、大仰な身振りと目をむいて叫ぶセリフによって、観客に心理を伝えようとします。

 まあ、そういった手法をテレビドラマ用にアレンジして使っているのが、宮藤官九郎あたりなのでしょうが、いずれにせよ、お笑い芸人のコント(しゃべくり漫才でなく、コントは、コミック漫画からインスパイアあるいは切り取ったシチュエイションを見せるだけなので好きになれません)をドラマの中で繰り返し使うような演出は苦手です。

 まあ、これはわたしが、もともと(残念ながら)、大げさな身振りで思い入れたっぷりに独白を繰り返す戯曲というものをあまり好まないせいなのでしょう。

 いずれにせよ、心理状態をあらわすため、アップで細かい表情を見せることのできる映画やテレビドラマで、大げさな身振りと無意味な独白を使うような演出はいかがかと思います。

 劔岳では、そういった無意味な独白はほとんどありません。(ラスト近くに宮崎あおいがヤッてしまいますが)

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 主人公である登山者とガイドが、筆舌に尽くしがたい広大で美しい光景の前に黙って座っているだけで(エベレストに登頂したヒラリー卿とテムジンもおそらくそうであったような)彼らの信頼感が伝わってくる、劔岳は、そんな愚直で優しい映画なのです。

 時間の余裕があれば、ぜひ、大画面で観ることとお勧めします。

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