DVDで「サマーウォーズ」を観ました。
感想は……できれば書きたくありません。
なるべく、このブログでは悪口を書きたくないからです。
しかしながら、レンタルし、観て、予想通り後悔したのは事実です。
多くの方が鑑賞に行かれて、アニメとしては異例のロングランを記録した作品です。
おそらく、きっと魅力的ですばらしい点があるのでしょう。
ただ、残念なことに、わたしには、それを受け取る受容器が欠損しているようです……
以下は、ごく個人的な「サマーウォーズ」に関する感想覚え書きです。
この映画を、ネット世界を知る者のシビアな目線から、
「いくらパラレルワールドの世界とはいえ、ネットの描き方がむちゃくちゃすぎる」
「笑止である」
「どうして携帯電話であんなリアルバトルができるのよ」
「アバターを乗っ取られたぐらいで、どうして国家レベルのマシン(信号制御含む)を操作できるのよ」
「あの、アメリカですら緊急呼び出しがかかる医師は、携帯電話ではなく、いまだにポケベルで呼び出しを受けている(別回線のため緊急時につながりやすいから)のに、作中のように、心臓のモニターなどの生命直結データを、汎用回線でやりとりするわけないだろうが!まったく荒唐無稽、子供だまし」
というのは、たやすいでしょう。
しかし、この作品は、ある意味ファンタシーであるわけですから、ネットを分かりやすい形で描くことは理解できます。
アバターのバトルを、別付けのアナログ・スティック付きコントローラーで行わず、キーコマンドの入力で行うのは、さすがに納得できませんが、それもまあ良いでしょう。
最後の勝負をきめるのが花札だというのも仕方ない。
ただ……わたしにとって、この映画の致命的な欠陥は、なにか、どことなく気持ちわるい映画だということです。
たとえていえば……「テレビ版ドクター コトー診療所」(これについては、以前「じめついた南洋」というタイトルでこのブログで書きました)みたいな気持ち悪さ。
登場人物すべてに、女性的なニオイがする。
あの、バンカラを気取る漁船の次男(声は永井一郎氏)からして、なんとなく女性っぽいのだから始末に負えない(そういやコトーでも女々しい船乗りが出てたな)。
脚本は女性だったと思うのですが、そのせいかなぁ。
安易にそうだとは思いたくありませんが、ひどく「コトー」の感触に似ているのが気になる(コトーは女性脚本でした)。
もしそうだとしたら、最近の女性クリエーターは、どうしてしまったんだろう。
木原としえさん(「摩利と新吾」) や萩尾望都さんや竹宮惠子さん、大和和紀さん等、わたしが子供の頃にリアルタイムで読んで、大きな影響を受けた女性漫画家たちの作品は、すべてかっこよかった。
彼女たちの作品の中では、ダンディでハンサムな人々が生き生きと活動していた。
しかし「サマーウォーズ」では……
ヒロインに魅力がないのが致命的。
滑舌は悪いし声も悪い。
何いってんだか分からない……
ヒロインの声やってる子は、わたしはまったく知らないけど、スポンサーの思惑で押しつけられたどこかのアイドル崩れなんですか?
いったい、ヒロインのドコが「学年の一番人気な女の子」なんでしょう?
「一番バカな女」の間違いじゃないかなぁ。
まず、どうみても子供顔の主人公を大学生として紹介するっていうのがバカっぽい。
前にこのブログでも書きましたが、顔も隠さず幼児泣きするのも幼稚バカみたい。
わたしは「醜い泣き顔」を観るのが辛くて、アノ部分は早送りしてしまいました。
何か困難があった時に、わあわあ泣いて逃げようとする態度・生き方が、マコトにハンサムでない。
本当かどうかは知りませんが、最近のゆとり世代たちは辛いことは避けて自分に負担をかけないような生き方を推奨されている、というムキもありますが、何がどうあれ歴史は「今、頑張らんでどうする!」という行為の積み重ねでできているのは事実だからです。
ダカラ、この映画のヒロインのように、人からの慰めの言葉に、安易に「あ、わたし、いま一杯イッパイだから……」と拒絶するのは個人的にはキライです。
吐き気がする。
だいたい、そんな女子に、いくらモノを知らない高校生たちとはいえ憧れたりするものでしょうか?
なんか無理があるんだよなぁ。
世間は、愚かでバカっぽく見えるかもしれないけど、モード的な思考である「世知」と呼ばれる智恵は、確かに存在するからです。
何らかの理由で(それがどんな理由なのかゼヒ知りたいところですが)、一時的に校内でアイドル的に持ち上げられいたしても、あれだけ自分勝手でバカだったら、皆に見抜かれて、すぐにカラ人気もしぼんでしまうと思うんだけどなぁ……
とくに美形でもないし……エヴァンゲリヲンのファンが、絵柄に惹かれて観に行ったのかな。
この作品は、内容、感じからいって、もともとは細田氏が2000年に作った、デジモンアドベンチャー劇場版「ぼくらのウォーゲーム」に、自己インスパイアされて出来上がった作品でしょう。
いやいや、わたしも、デジモン自体、友人から「観てみろ」といわれて観た、細田氏の作品しかしらないのですが、あれは確か、コンピュータ世界の中で、デジタルモンスターを操って闘うポケモンの二番煎じでしたよね(間違ってるかもしれません)。
あれも、ネットの中での出来事が現実世界に影響を及ぼして、最終的に、ネットでの遊びに過ぎなかったデジモンとデジモン使いたちの活躍で世界は救われた、というハナシだったと記憶しています。
同じ友人からの情報により、公開直前のインタビューで細田氏が、エバンゲリヲンの庵野氏を指して、
「過去の作品の焼き直しで勝負してはいけない。わたしはオリジナルでやる」
といっているのを知りました。
おそらく、氏の前作「時をかける少女」とは違うものを自分は作ったのだ、と言いたかったのでしょうが、それが結局はデジモンの焼き直し、自己模倣だったというわけです。
「メクソなんとかを笑う」というか「五十歩百」歩というか、似たり寄ったりですね。
それに、本来ならフトい悪であるはずの侘助(ワビスケ:漢字はコレだよね)が、なよなよと女々しい男で嫌になる。
いや、本当の悪は、ネットのハッキング・プログラムといわれるかもしれませんが、あれにしても、不気味で無敵な恐ろしさ、というのがまったく感じられない。
にもかかわらず、この映画に人気が出た理由を個人的に考えてみました。
1.ゲームをしているのを親に見つかり「何の役にも立たないゲームより勉強しろ」といわれて反論できなかった、多くの子供たちの「夢の具現者」としてのカズマの存在。
ネット内格闘ゲームが強いだけで世界を救えることもあるんだ!
だったら、ボクだって世界を救えるカモ……という感情で、ゲーム好きな普通の子供のハートをがっちりつかんだのが人気のモトかな。
前にこのブログでも書いた、ゲーセンのシューティング・ゲームが得意なだけの高校生が、突然宇宙人に連れて行かれて、銀河戦争で英雄になる映画「スターファイター」と似たところがある。
「こんなに頑張って、やっているゲームだけど現実には何の役にも立たないんだよナ」という、ゲーム少年の心のどこかにある感情を、うまく利用した。
ああ、このカズマの声優って女性ですよね。
最初、絵を見て、てっきり女の子だと思っていました。
名前を知って、男の子だと気づいてからは、男の子がしゃべってるんだと納得しようとしましたが、ラスト近くで勝負に負けた彼が泣き叫ぶところでは、女性が泣いているようにしか思えなくて、またまた気持ちが悪くなってしまいました。耳元でわぁわぁ泣くなって!
声優の質が悪いなぁ。
あ、それでまたひとつ思い出しました。
この映画の登場人物は、ホントよく泣きますねぇ。
先日、外国人による日本再発見番組「クール・ジャパン」で指摘されていましたが、いつのまにか、日本人は人前で泣くことが平気な国民になったようです。
2.最初は泣いてるだけだったヒロインが、最後に、ホント唐突に立ち上がって花札勝負で世界を救う(しかも、どういうわけか、ネット・ホストが彼女のアバターの服を、お姫様の服にしてる!)トコが、若い女性のココロをつかんだ。
だって、それまでは、まったくの昼行灯(ひるあんどん)、いてるんだかなんだか分からない存在感のなさだったのが、まったく突然、主人公気取りのイイトコドリですよ!
観ているこちらとしては「オマエ誰や?何者やねん!」とツッコミをいれたくなってしまう。
ドラマツルギーとしては最低のご都合主義。
だいたい、この映画の主人公って誰?
「みーんなが主人公」の、いまハヤリの群像劇?
わからないなぁ。
あ、再び上記で思い出したことがあります。
この映画を観ていて「センター オブ ジ アース」との共通点に気づきました。
二つの映画には似たところがある。
どれほど危険なことが起こっても、決して登場人物たちは傷つかないから、いい加減な行動が許される。
なんというか「アトラクション的予定調和冒険譚」なんですね。
さらに、子供は愚かだけど、まわりの大人(ブレンダン・フレーザー憐れ)が、もっとバカだから、結果的に子供が大きな発言権を持って大人として扱われる。
これなんかは、子供の夢なんだろうな。
3.「自己犠牲の精神」をあっさりと捨て、「まず自分を守る」という登場人物たちの行動方針が現代の人々のセンスに合致した。
だいたいね、上空から自分の広大な屋敷に向かって人工衛星?が落ちてくるなら、そのままにしておけば良いのですよ。
「ウチの屋敷は吹っ飛ぶだろうけど、他の家と命は守れるのだからそれで良いのです。ねえ、みんな」
ここは、そういう自己犠牲精神で良かったんじゃないかなぁ。
「自己犠牲」というコトバは太平洋戦争を思い出させるため悪とするのが最近の風潮のようですが、果たして、自分を守るために何も知らない他人を危険にさらして良いのでしょうか?
ラスト近く、数学少年のガンバリに呼応して「まだ負けてないー」とヒロインが叫ぶから、いったいどんな起死回生のワザを使うのかと思ったら、
「GPSにデタラメな数値を送り込んで、屋敷への衛星直撃を回避させる」って……
そんなことしたら「屋敷に向かって衛星が落ちてきている」ということすら知らずに生活している、ご近所様の家を直撃するかもしれないじゃないの。
自分の屋敷を守るためにドコに落ちるか分からないデタラメGPSデータを送信する?
ヒトゴロシだな。犯罪者に近い。
いい換えれば、それは「よその家は直撃するかもしれないが、自分の屋敷だけには当たらない操作」ということでしょう?
ことほど左様に、ハナシに一貫性がなく、ネット描写はむちゃくちゃで、ヒロインに魅力がなく、悪が恐ろしくなく、「自分さえよければ他人がどうなってもイイヤ」という自己中心主義を全面に押し出した、子供も観るアニメとしては最低のデキ、というのが、映画「サマー・ウオーズ」の、現段階での個人的感想です。
でも、商業的には成功だったんだなぁ……
あ、そうだ。
アメリカ人が決まって使う「フェア」というコトバは、わたしの嫌いな単語のひとつですが、最後に、これを書いておかないと、「フェア」な評価にならないので、追記しておきます。
追記:
文句ばっかり書きましたが、夏休み、田舎、おばあちゃん、間口の広い玄関、井戸端、縁側のスイカのタネ飛ばし、そして大家族制へのノスタルジーさを僅かながらテーマに取り入れているのは評価できます。
その意味で、デジモンアドベンチャー劇場版「ぼくらのウォーゲーム」の自己模倣とゲーム「ぼくの夏休みシリーズ」を足したような作品なわけです。
そういった「血縁によるプリミティブな関係」と「ネットのアバターによるアドバンスで緩やかなつながり」の両方で世界を脅かす驚異と闘う、という新旧の対比は面白い。
ただ、もう少し工夫して、深く掘り下げれば面白かったのにと残念です。