記事一覧

独占する歓びが人気の秘密 ~ゾンビランド~

 世の中には、一定数の「ゾンビに支配された世界が好き」な、人が存在するようだ。

 もちろん、その中には、ゾンビ自体が好き、という人もいるのだろうが、大部分はゾンビに支配された世界であるがゆえに、人間であり続ける自分がやりたい放題できることが好きなのではないだろうか。

 平常な世界では、誰かに腹が立ったとことで、彼を殺すわけにはいかない。だが、ゾンビ世界ではでは、危険と裏腹に、敵対する「人外のモノ」を、どんどん殺戮、排除していけるのだ。

 この点において、ゾンビ蔓延世界の好きな人は、世紀末(死語だね)崩壊世界が好きな人と一致するのかもしれない。

 さらに、物欲がゾンビ世界への憧れを加速する。

 ゾンビに支配された世界では、世の中にあるモノは奪い放題なのだ。ショーウインドウに飾られた高価な品物を奪ったところで、ゾンビたちは文句を言わない。

 その証拠に、ゾンビ映画で人気の高いものは(そうでないものも含めて、か?)、彼らから逃れる人々が、郊外の巨大なショッピング・モールに逃げ込む話が多い。

 そこでは、ガラス越しにノロノロと徘徊するゾンビを尻目に、人間たちは、溢れかえる物質(服、宝石、食べ物を含む)に囲まれ、ある意味、至福の時を過ごすのだ。

 A・ロメロ監督の金字塔的名作ゾンビを、「あの」ザック・スナイダー(エンジェルウォーズの)監督がリメイクした「ドーン オブ ザデッド(2004年)」も、メインとなる舞台は郊外の巨大ショッピング・モールであった。

ファイル 630-1.jpg

 余談だが、この冬に行ったワシントンDCの安ホテルで、唯一映るケーブルテレビの番組がサイファイチャンネルだった。

 そこでは、毎晩のように「ドーン オブ ザデッド」が再放送されていたため、じっくりと、この名作を観なおすことができて幸運だった。

 なぜ、冬にゾンビ映画特集をやっていたのかは疑問だったが……

 さて、今回、お話する「ゾンビランド」も、上の例にもれず、現実にはできない「憧れの場所での好き放題」シーンが用意されている。

ファイル 630-2.jpg

 主人公は、引きこもりがちの青年コロンバス。

 彼がゾンビランド(合衆国のことらしい)で、中年マッチョの男タラハシー(ウディ・ハレルソンが好演)と出会うところから話は始まる。

 サイト http://www.zombieland.jp/

 全く正反対の性格に見えるふたりの共通項は、共に人嫌いだということだった。

 わずかな人類の生き残りに、人間嫌嫌い、あるいは人間づきあい苦手なものが多いのは「容易に人を信じない」そのことこそが、ゾンビ蔓延社会で生きて行く、一番の方法である事を示唆しているのだ。

 青年は、故郷コロンバスに向かおうとし、タラハシーは、「自分はタラハシー(メキシコ)に行くつもりだから、途中までなら同行しよう」という。

 お気づきのように彼らの名前は本名ではない。本名を知ると情が湧いて、ゾンビ化した時に殺せなくなるから、お互いの目的地を渾名(あだな)にして呼び合っているのだ。

 そういえば、「ドーン オブ ザ デッド」のセカンド・コピーは「汝の愛するものを恐れよ」だった。(メイン・コピーは「感染するまで、終わらない」だ)

 これもまた変則ゾンビモノであった、ウイル・スミス主演の「アイ・アム・レジェンド」(かつて「地球最後の男」というタイトルで映画化されたSF作品のリメイク)では、愛犬サムがゾンビ化した際に撃ち殺すシーンに一番胸が痛んだ。

 つまり、愛する者を容易に失う環境で、人や動物を愛してはいけない、ということだ。
 もちろん、それは、ただの逃避に過ぎない。

 失うことを恐れて愛することを避けるのは、愚者の行いだ。

 愛してそれを失うのはその次に良い、のだから。

 やがて二人は、可愛い詐欺師姉妹と出会い、彼女たちに騙されつつも、珍道中を続け、彼女たちの目的地たる遊園地にたどり着く。

 その前に、あの名作ゴースト映画の主役が本名で登場するお遊びシーンなどもあって、まったく飽きさせることがない。

 さすがに、バイオハザード・シリーズを含む、すべてのゾンビ映画史上、最大の売り上げを記録しただけの事はある。

 そして、「自分たちのためだけに開いている遊園地」で、姉妹はアトラクションに乗り……ゾンビに囲まれる。

 ゾンビランドの白眉は、通常では貸し切りなどできない遊園地の独占にあるのだ。

 とにかく面白い。時間があれば、ご覧になることをオススメする。

 人が死に、ゾンビの頭がふっとび、血は流れ……しかし、なんだか楽しく、見終わって爽やかな気分になれる不思議な映画、それがゾンビランドなのだ。