毎朝、「BSおはよう世界」を見ています。
数時間前の世界各国のメインニュースを同時通訳して放送する番組です。
それぞれの国が抱える大きな事件が何なのかを知ることができるため、日本放送協会の報道姿勢はともかく、わたしのお気に入りとなっています。
(国固有の)地域限定の事件なら、その国だけの話題となりますが、影響のある大きな事件だと、それぞれの国のそれぞれのニュース番組が一斉にその話題をとりあげます。
それによって、そのニュースの重要度を知ることができるのですが……
当然のことながら、同じニュースについても国の違いで視点が違い、報道が真実かどうかはともかく、ひとつの事件を様々な角度から見ることができ、自分の視野を広げる役にたちます。
興味深いのは、そこで報道される生のあるいは生に近い各国のニュースと、日本国内でなされるニュースに乖離(かいり)があることです。
世界のニュースで、おそらく世界情勢に大きな影響を与える事件が複数の国のメインニュースで報道されても、日本ではただのトピックス扱い。
もちろん、どの国でも国内問題を先に報道するのは当然ですが、日本の場合、特に海外問題を軽視しているような気がします。
というより、あえて海外の(生の)動勢を知らせず、人々をミスリードしようとしているように感じます。
このブログを読まれるような、ネットに精通した方なら、様々なソースから海外の知識を得られるでしょうが、まだ多くの(主に)老人たちはテレビ、ラジオ新聞のみから情報を得ていると思われます。
そういった人々は、概してマスコミや評論家のいう「海外ではこうだ」という言葉に弱いような(偏見かもしれませんが)気がするため、あえてリアルな情報を知らせずにいるような感じがするのです。
後に、効果的なタイミングを狙って、世界はこうなんだよ、だから日本はこうしなくちゃ、と、自らの意見強化に役立たせるために。
こんなことは、いち評論家やいち政治家のできることではないので、誰かの陰謀である、とは思いませんし、あくまでそういった「感じ」がするだけなのですが、どうにも気持ちが悪いのですね。
まあ、有り様は、そういったテレビをよく視る人々は、自分に直截関係のある国内のニュースや芸能情報に興味があるため、視聴率を稼ぐために海外より国内情報に時間を割かざるを得ない、という事情なのでしょうが……
さて、ここからが本題です。
本日の各国のニュースで取り上げられていたのは、アメリカのドローンが撃墜され(イラン側の発表によると、ハッキングによる撃墜)、イランの手に落ちたという事件でした。
どことなく、ナウシカのメーヴェに似ていますね。
ドローン(drone)というのは英語のオス蜂、あるいは叙事詩「イーリアス」(ギリシア)で偵察を行う登場人物ドローンから転じて、偵察者の意味から、海外のメディアでは、よく無人航空機の名称として使われれます。
この、ドローンについては本ブログで以前に書いたことがあります。
それはともかく、アメリカのステルス・遠隔操作および無音偵察のための滑空技術の粋を凝らした機体をイランが手に入れたのです。
ABCニュースで、ある識者は「わたしはアメリカ国民なので大きな声では言えませんが、これで、アメリカの最高機密がロシアや中国に流れることになるかもしれません」と言っていました。
最新鋭のステルス・ドローンは、それ自体が科学技術の宝庫だから、あながち大げさな表現とはいえません。
ペンタゴンによる公式発表はなく、一部議員からは、撃墜ではなく故障で捕獲された可能性があり、機体は複数行方不明になっているドローンの寄せ集めだ、といっていますが、この「負けたのではなく、こちらの失策」的な発言には笑ってしまいますね。
今後、この技術が拡散され、世界中を無人機が飛ぶことになるかもしれません。
しかし、この「無人」機というコトバに、わたしはどうも気持ち悪さを感じます。
確かに機上に人は乗っていませんが、ドローンは、コンピュータが操縦しているのではなく、数百キロ離れた場所にいる生身の人間が操縦しているからです。
兵士が危険に直面することなく、キカイを飛ばし敵を視察・抹殺する。
一見、理想的なマシン・システムに思えますが、実はそうではなさそうです。
古来より、人は闘いで人を殺します。
故国のため、自分が死なないために。
それはそれで、気にいりませんが、理解はできます。
戦場は、我々の暮らすフツウの平和な空間ではなく、集団狂気の場です。
そういった場所に放り出され、戦闘状態に入った気の良い農夫、漁師たちが、鬼神の働きで敵兵を殺す……こともあるでしょう。
いや、実際、これまでの戦争ではそういったことも多かったと聞きます。
勢い余って、集団狂気のまま民間人を殺すことも。
しかし、それはあくまでも、戦時という特殊空間の中でのこと。
敵が死に、仲間が死ぬ激しい状況。
その衝撃と記憶があまりに激しいと、戦後にPTSDを患ったりもする環境。
しかし、戦争が終わると、多くの軍人は戦後の平和な故郷での生活に過去の記憶を埋没させ、打ち消し、日常性生活に戻っていきます。
あれは過去の記憶で幻にひとしい時間であったのだと、自分に言い聞かせて。
では、ドローンの操縦者はどうでしょう。
たとえば、カリフォルニアの基地にあるとされる遠隔コックピットでドローンを操り、敵兵を殺した士官の気持ちは?
性能の良すぎるカメラは、死の直前まで敵兵の表情を克明に捉え続けるそうです。
絶対安全な場所で、攻撃を行いつつ、その目は、敵の死を目撃する。
さきに、自分が死にたくないから狂気にかられて人を殺すこともある、と書きました。
しかし、彼はそうではない。
自分は安全で、敵のみを殺し、その後で息子のサッカーの試合を応援に行くこともできる。
そのギャップが彼の精神を蝕むこともある。
ゲームだと思えばいい?
そう考えられる人もいるでしょう。
しかし、人間はそう単純に割り切れるものではありません。
集団の狂気に呑まれて戦った人々でさえ、帰国後にはPTSDを患うのです。
狂気なく、恐怖なく、冷静に平和な世界の下で人を殺すという行為。
殺人者と、穏やかな父親、夫、恋人という役割を日々行き来する。
よく「戦争で人を殺せば英雄、通常社会で殺せば殺人」などといいますが、わたしは、その違いは、法的根拠よりその時の心理状態にあると考えています。
その時代、その場所、その環境にあって、集団狂気のまま戦争で戦うことはあるでしょう。
その場合は少なくとも自分を納得させやすい。
相手を倒さないと、自分が、仲間が危ないから。
母国が襲われるから。
しかし、狂気と恐怖のないまま遠隔操作で人を殺すと、自分がただの殺人者に見えてくる。
ある学者の調査によると、ドローンのパイロットは、実際にイラクで兵役に従事する兵士よりPTSDになる割合が多いそうです。
かつて、SFでコンピュータ同士の戦争が描かれたことがあります。
コンピュータ同士の戦略で、負けた方が、示された数だけ自国の国民を「血の流れぬ衛生的な」処刑マシーンで処刑する。
そのために、戦争の痛みが分からず、数百年も戦争が続いている世界。
戦争の抑止力が何か、の議論は他の人々に譲りますが、少なくとも始まってしまった戦争の「休止力」は流された血の量に比例するように思います。
好むと好まざるとに関わらず。
だからこそ、自らは危険にさらされることなく精神を削り、相手のみを殺すことのできるマシン、システムの拡散には、不気味なものを感じずにはおれません。