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すべてのダイオンとともに ~ライラの冒険~

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 公開直後に観てから、もうずいぶんと時間が経ってしまったが、「ライラの冒険」について、感じたことを書いておこう。

 わたしは、もともと、こういったファンタシーに関して特に興味は無い。

 実際に、連綿と歴史で形作られてきた魔術や導術に関して造詣が深くない者が書いた魔法世界モノ(多くの和製ジュブナイルやライトノベル、著名な外国作品でさえ)は、浅薄すぎて読むに堪えないし、そういった知識を持ちすぎた作者が書いたハナシは、知識の呪縛から逃れられずに、思い切ったプロットを作り得ず、全般に類型的なものになってしまいがちで、どちらにせよ、おもしろいものは少ないからだ。

 原作は知らず、映画を観る限りでは、本作もその傾向から免れていない。

 主人公ライラは、決して一般的な美形ではないから、美しい生き物が伸びやかに動く様を鑑賞する、といった映画の見方はできない。

 だが、映画が始まると、そんな不満はどこかに吹っ飛んで、すぐに胸中に鮮やかな感動が広がっていった。

 その理由は三つある。

 ひとつはダイモンだ。

 オープニングのモノローグで説明されるように、我々の住む世界では、魂は肉体の内にあり、外から見ることはできないし、切り離すこともできない。

 だが、ライラの世界では、魂はダイモンと呼ばれ、動物の形をとって常に人間の脇を歩いているのだ。

 つまり、否応なくあらゆる人が、ひとりに一匹の動物を従えて、町を野を部屋を歩いている。

 その魂の性格に見合った動物を。

 小柄な人物が巨大な虎を連れていることもあるし、大男が小さな猿を従えていることもある。

 問題は体格ではなく魂の性質なのだ。

 これが良い。

 全ての人間が、様々な種類の動物をひきつれ、道を歩いている。壮観だ。

 この景色を見るためだけでも本作を観るべきだ、といいたいくらいだ。

 少し気になったのは、悪の側の目的、動機がよくわからない点だ。ダイモンを人から切り離そうとしているのは分かるが、その理由がわからないことだ。

 いまのところ目的が不明。

 だが、「目的がよくわからない」ということは、この映画の疵にはなっていない。

 以前に、どこかで書いたかもしれないが、ゲド戦記でゲンナリしてしまったのは、悪役の魔女?が、彼女の最高の望みは不死の命だと叫んだことだった。

 あれには驚いた。

「そんなものが、その程度のモノが望みなのか」と。

 ヒトゲノムに知識のメスが入り、科学的な不老不死化が現実味を帯びてきた現代において、不老不死はそれほど高望みではない。

 それよりも、ひも理論によるミクロとマクロの融合、言い換えれば巨大なブラックホール内の極小な事象の解析、大きくて小さい出来事の解明の方がはるかにエキサイティングだし、ミステリアスだ。

 原作が書かれた年代を鑑みても、やはり、ゲドの作者のセンスの悪さは否めない。

 「この世の全ての事象を知り尽くしたい」という希有壮大な野心や、いっそもっと下世話に「世界を征服して人々を意のままに支配する」といったコテコテの野心の方が好感が持てる。

 不老不死などと、カビの生えたような目的を声高に叫ぶより、不明にして引っ張った方がおもしろい。

 この映画に関してもうひとつ感じたのは、絶滅を危惧されるホッキョクグマをライラのボディーガードに設定したのは正解だ、ということだ。

 後に、クマ王の座を賭けて行われる決闘は大迫力。

 敵の王(ホッキョクグマ)が、人間同様のダイモンを欲しているという設定も良い

 ライラの世界では、人だけが、動物の形をしたダイモンを傍らにはべらすことができるのだ。

 ライラはそれを利用して、ダイモンに化け、クマ王を陥れようとする。

 さらに、ライラを助ける老ハンター(クリストファー・リー)の恋人である若い魔女が、「昔の彼は本当に若くて力強くて美しかった」とライラに告げるところも良い。

 年を取らない魔女が、年老いてなお勇猛なかつての恋人を助けて闘うのだ。

 ストーリー自体は、ややもすれば陳腐になりがちなものではあるが、このように、設定がタッテいるために、観ていて飽きるということがない。

 我々の世界を舞台とすると言われている第二作が楽しみだ。

 ところで、黄金の羅針盤って何の意味があった?

 なんだか予知アイテムみたいな使われ方だったが……




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