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書くこと・読むこと・観ること

 しばらく前に「勝間氏-ひろゆき氏対談」に絡めて堀江貴文氏のブログの話を書きました(「パイドパイパーに気をつけろ」)。

 その中で、その時のテーマとは関係なく堀江氏が、

「youtubeで対談を観てもいいけれど、誰かが文字に起こしてくれていたものがあるので、それを読んでみた。動画と違って文字は、順番に観る必要がないし、ざっと目を通せるので便利だ。これからが文字の時代だろう」

と、書いていました。

 まあ、100%正確ではありませんが、そのようなことを書いたのですね。

 すると、(これもテーマとは関係ないのに)それに対してかなり感情的になったコメントがいくつか書き込まれたのです。

 曰(いわ)く、

「文字はいちいち読まなければダメだが、映像なら誰でも観ることができて分かることができるから、文字の時代になどなりはしない」

「動画の方が情報量が多くて、得るところが多いので、これからは動画の時代になるはず」

なんてね。

 これについては、色々な解釈があると思います。

 活字偏重(へんちょう)・マンガ嫌いで、世の活字離れを歎く人々にとって(以前はともかく最近では少ないでしょうが)は、堀江氏の意見は「我が意を得たり、その通りだ。やっぱりヒトは活字を使わないと頭が悪くなってしまう」と快哉(かいさい)を叫ぶでしょうし、反対に、「文字を読むのは苦手だから、やっぱり動画がいい。Youtubeでも、飛ばし観は可能だから問題ないし」と考える方もいるでしょうから。

 前後の文脈から、堀江氏は、単に「自分のように忙しく、活字も使える人間にとっては、文字ベースの情報の方が短時間で的確に利用できる」といいたかっただけのように思えますが、わたしが驚いたのは、それを目にした人の過剰なほどの反応ぶりでした。

 個人的には、文字ベースで読んだ方が速く理解できると思いますが、その時の問題は、映像を文字にする時に、筆者による「意味の追加とそぎ落とし」が行われている可能性があることです。

 ちょっとした視線の動きや、口調、相手の言葉に合わせるタイミングなどで、同じ単語を使っていても、まったく逆の意味になってしまう。

 もっとも、最近の、偏向報道著しいマスコミでもよく使われているように、わざと人を悪く見せるアングルの動画や映りの悪い写真を使った人物紹介もあるので、映像だから安心というわけにはいきませんがね。

 このブログでも、何度か書いていますが、文字ベースの情報の良い点は、ウマイ表現や使いやすい単語などを覚えて、自分の言葉や文章に、簡単に再利用できるということです。

 色々な言い回しと単語を増やせば、自分の表現力も増していく。

 イラストや漫画、動画を通じて何かを得ても、絵の上手い人でないと、それを使って、他人へ情報を伝えることは難しいでしょう。

 まあ、これから「光の道」が整備され、ネット環境がさらに整い、動画であろうと画像であろうと、簡単に切り貼りしてマルチメディア・コンテンツが容易に制作できるようになるか……あるいは、言葉で指示するだけでCGアニメを簡単に作ることができるようになれば、情報のやりとりを動画メインで行うこともあるでしょう。

 もしかしたら、実際に会って、面と向かって話をする時も、お互いにディスプレイを見せながら、CGアニメーションで意思の疎通をはかるようになるかもしれないですね。

 今も、目の前にいる相手と直接話すより、背中を向けて携帯電話メールで意思伝達した方がラク、という子供たちは存在するわけですから。

 その意味で、先日発売されたipadなどは、今後の進化次第では、危ないといえば危ないツールになり得ます。

 そう遠くない未来、ipadなどの「動画カンタン作成・表示可能」なコミュニケーション・ボードが、突然、会社で故障してしまい、意思疎通できなくなった人が「一時的失語症」と診断されて、家に帰される、なんてこともあるかもしれませんから。

人の美しさ、哀しさ、醜さ

人の美しさとは、変節しないこと

 人の哀しさとは、変節した自分を許せないこと

  人の醜さとは、変節したことを無視し、
         過去をなかったものとして平然としていること

 個人的に、いつも自戒している言葉です。

 自分の全作品を貫くテーマでもあります。

 あらためて、こんなことを思い、書かずもがなのことを書いてしまったのは、久しぶりに米テレビ映画「HEROES」を観てしまったからです。

 この作品が行っている、「視聴者を驚かすためだけ」に「聖域をもうけず誰彼なく変節させる手法」は個人的には最低だと思っています。

 まあ、つらつらと世間を見渡せば、変節するヤカラばかりが目につきますが。

p.s.
 上の言葉には、実は4つめがあります。

 誤解を招きそうなので書かなかったのですが……

 最初の3つが「完全に腹に入った状態」で、以下の文に続きます。

 最後に、

 人の愚かさとは、変節できないこと

女脳と男脳

ファイル 552-1.jpg
 SF作家の故星新一氏の作品に「進化した猿たち」というものがあります。

 進化した猿、つまりは人類=われわれということですが、その内容は、氏が興味を持って蒐集(しゅうしゅう)したアメリカひとコマ漫画の紹介と、それについての氏のコメントです。
 日本史の教科書などでも、風刺漫画家ビゴーの絵などがよく載っていますが、あれよりはトホホ感のある内容ですね。

 その中で、氏は以下のように述べています。

「アメリカ漫画において、一、二を争う大きな分野は、病院や医者を扱ったものであろう。アンロソジーが何冊もでている。それをさらに細かく分類すると、眼科、歯科、手術、入院、出産などにわかれ、いずれもかなりの量である。(中略)私は以前からこの漫画に興味を持ち、収集した量は孤島ものについでいる。(中略)それと、わが国にはほとんど存在しないことへの興味である。わが国では、人は無形のものに金を払いたがらず、そのために分析医が商売として成り立たない……」

 もとは1965年の「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」に連載されたものなので、半世紀前の日米事情です。

 それから50年を経て、鬱などもふえ、日本人も、徐々に精神科医とのつきあいが活発になって来ました。

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  • 個人的には、もともと日本には相当数の精神疾患患者がいて、それが放置され隠蔽された結果、表にでてこなかっただけだと考えています。
     江戸、明治大正期においては、知恵遅れの子供が風邪にかかって若くして亡くなったり、自殺したり、金持ちなら座敷牢に入れられたりしてね。だから、最近になって、精神疾患が、極端に増えたのではないと思うのです

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     これも個人的感想なのですが、どうも精神分析医、あるいは精神科の医者のリクツは、マユツバに感じてしまうことが多いですね。

     以前、岸田秀氏も、その著作の中で「どうして精神分析医の話はウサンクサ気で、一般人と同じような話ばかりなのか」と書いていましたが、どうにもそのカンジがぬけないのは、今の日本が、星氏が漫画を収集した5~60年代アメリカに追いついたということなのでしょうか。

     岸田氏のいうとおり、異常犯罪における、精神医の分析は、そこらへんにいる一般人の意見とほとんど変わらない気がするのです。

     なるほど、と思えない。

     その意味では、養老孟司氏の意見も、よく売れてはいますが平凡な気がしますね。
     まあ、彼は解剖が専門ですが。
     科学者が説く人生論より、人の生き様に対して長く洞察し、言葉のうまいお坊さんの説教の方に得るところがあると思ってしまうのですよ。

     精神科医の分析もしかり。

     「論理的」に犯罪者の思考をトレースし、分析しても、近所のおじさんと同じ程度のことしか発言していない。

     みなさんは、犯罪のたびに出てきて知識を開陳する専門家の意見に、目からウロコが落ちたことがありますか?

     要するに洞察力と思考によって他人の心理を分析したり、治療することには限界がきているというこなのでしょうか?

     一時期、心理学は、そのベースとなる、生理器官としての脳機能を抜きにして考えられなくなり、解剖学や大脳生理学とともに歩むようになりました。

     神経治療も、かつての「森田療法」のように、対話で治療を行うよりも、脳内に分泌される化学物質を応用した薬物を利用することが多くなりました。

     今もその風潮は変わりませんが、近年では、再び対話療法の効能も見直されてきてはいますね。

     いや、また長い前フリになりました。ここからが本論です。

     先日、ネットで、精神科医、斎藤 環氏のエッセイを読みました。

     斎藤氏については、たまに新聞に寄稿される文章を読む程度なので、よくは知らなかったのですが、その中で、氏が、きっぱりと「男性脳、女性脳はない、それはジェンダーによって後天的に作られたものだ」と断言しているのを読んで、ちょっと考えさせられたのです。

     わたし自身は、男と女の脳構造に「生物学的な差がある」かどうか、わかりません。

     しかし、動物の雄と雌、世界中の男と女の考え方と、同じ出来事に対する反応に違いがあるのは事実です。

     氏の文章を少し引用します。
     
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    「女は地図を読めないが、男は話を聞かない。これは脳の構造の違いによるものだ」という話をよく聞きますが、空間把握能力について男女差はあまりないという実験結果が出ています。「女性は男性よりも感情表現に長けている」とも言われますが、これもまた、単に「そのほうが女性らしい」という文化的な価値観によってしつけられた結果でしょう

    「女性は右脳型が多く、男性は左脳型が多い」という話も、先頃、日本神経科学学会が否定的な声明を出したとおり、実際には脳はそのようなかたちでは機能分化していない。これまた、血液型性格判断やアルカリ性食品などと同じような俗説に過ぎません。 

     確かに、一般的な会話量は女性のほうが多いと言えますが、それは会話自体を楽しむ傾向、ひいては「エモーショナルなほうが女性らしい」という文化傾向の表れでしょう。男性のコミュニケーションは主に情報伝達を目的とし、女性は情緒の伝達を目的にするというジェンダー間のギャップは、こうして生じていると考えられます。その結果、女性は情緒を伝えることで欲求を充足しようとし、それが男性にとっては「いったい何を言いたいんだ!?」と感じられ、女性にとっては「なぜ男は結論ばかり求めるの!?」という印象になるわけです。

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     以上の文と経歴(筑波大で稲村博の指導を受け、ラカン、ベイトソン、中井久夫を研究)をみる限り、斎藤氏は典型的な文化系精神科医ですね。

     思考については哲学的アプローチをし、臨床を重用視する。

     つまり、思考を手のひらで転がせて考え、「他人の科学的研究成果」を「自己検証せずに利用」して断言する実務家、というところですか。

     いや、確かに医師、特に神経科の医師にとって「断言」は有効な手段だと思います。
     患者に対して、ああでもない、こうでもないとフラフラした意見をいうのは不安を与えることになる。

     しかし、自分で(科学的)研究をしていない分野で、断言するのはどうでしょうか。

     上の氏の話にからめて、わたしの知るところでは、空間認知能力の大小が、歌のウマイ・ヘタに関係しているという研究結果があります

     ある物体をナナメからみた画を見せて、それを横から見た画を、いくつかの候補から選ばせる、という実験に好成績を収めた人は、「例外なく」歌がうまかったというのです。
     これは、サンプルの数にもよりますが、単純に信じられる。

     なぜならば、「誰のイデオロギーにも関係しない」からです。

     しかし、男女の脳に違いがあるかどうかを、軽々に論じるのは難しいことです。

     好むと好まざるとに関わらず、研究者とその結果を見る人々の頭の中にさえも、先入観があるからです。

     フェミニストかそうでないか、とはいわないまでも。

     氏の著作の感想を少し読んでみましたが、女性による「男と女の脳に違いがないと聞いてすっきりしました」というものが結構ありますね。

     そりゃそうでしょう。

     地図が読めない云々という決めつけは、どうも女性を低くみているカンジがしますからね。

     わたしが、気になるのは、男性と女性の平等さを強調するあまり、二つの性をまったく同じだと決めつける危険性です。

     実際に、女性と男性の思考と反応には違いがあります。

     しかし、それは当たり前でしょう。

     脳に、かなり重大な影響を与えると考えられる生殖器が、離れたところから脳を刺激し続けているのですから。

     おそらく、性別に特有の「もとからある筋肉量の差」なども、脳に何らかのフィードバックを与えるでしょう。

     そういった「体の全器官との関連」を考えずに、独立した器官としての男と女の脳の違いを論じること自体、ナンセンスな気がします。

     もちろん、斎藤氏のいうように、ジェンダー・社会的性差によって、男的な反応・女的な反応が作られる部分もあると思います。

     世界のいくつかの場所で、アマゾネスのように、女性が狩人であった種族は知られているからです。
     活動的で荒々しい女性の狩人も、社会によって育てられれば存在するでしょう。

     しかし、わたしには、どうしても、男女間の思考の違いがジェンダーによってのみ発生するとは思えないのです。

     上で書いた、生殖器および筋肉量などの外部器官の影響だけでなくね。

     以上をふまえて、個人的な結論を書かせていただくと、おそらく男女間の脳には違いがあります。

     でも、それは絶対的なものではない。

     それぞれの個体でもかなり大きく差がある。

     正確ではないことを承知で、わかりやすくするために、男性的思考・女性的思考と書かせてもらいますが、男性的思考を受け入れやすい脳と、女性的思考に親和性がある脳といった、タイプの違いがあるのではないかと思うのです(もちろん、2タイプしかない、といった単純なものではないとは思いますが)。

     それらは、通常、決定的な違いではないので、生まれてからの教育(ジェンダー)などで、それまでの社会に合うように型にはめることができます。

     その型を受け入れることができない場合、性同性一障害(障害なのか?)と呼ぶこともある。

     要は、それらに優劣などなく、ただの個性であると認知し、そう教育することが大切なのです。

     理想論ですがね。

     ただ……

     ここからが、この項で本当に書きたかった結論です。

     これを書きたかったから、長々と書き連ねてきました。

     男女は平等だと思います。

     しかし、残念ながら、まだ生物学的には違いがある。

     男性と女性の協力でしか子孫を残せないのです。

     もし、女性の平等化を、女性の男性化だと短絡思考した一部の人々の指導によって、女性の極端な男性化が、今後おこなわれるなら……

     男性が、女性に対して「子供を作る行為のための感情を持てなくなってしまう」(あーまどろっこしい、ひと言で書きたい!)可能性があるのではないか、そうわたしは心配するのです。

     女性が、男性のように話し、振る舞うのは比較的簡単でしょう。

     しかし、男性の意識変化はそれについていかない。

     結果、EDめいた症状が広がる、あるいは、それ以前に、実物の女性ではなく二次元のアニメ女性にのみ興味を示す男性が増えれば深刻な人口減少問題となります(というか、もう問題になり始めています)。

     そういった理由から、わたしには、まず脳には違いがあること(男女間ではなく)を認め、ジェンダー・ギャップの是正、「男女の同一視ではなく平等化」は、大脳生理学と心理学との研究成果をふまえて、おだやかに進めていく必要があるような気がしてならないのです。

     星氏の集めたひとコママンガの精神科医よろしく、目先の患者さんや読者に迎合するために、安易に「イキモノとして違いはない、育てられかたによるだけだ」などといわずにね。

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