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東のエデン 〜高貴なる身分にともなう義務〜

 ターミネーター4やスタートレック、あと魔球についても書きたかったのだが、週末にやってきた友人が持ってきたアニメについて書きたくなってしまった。

 そのタイトルは「東のエデン」。シリーズ構成は「攻殻機動隊シリーズ(テレビ版)」の神山健治。

 一見してわかるように、タイトルのモトネタは「エデンの東」で、いわゆる「ノーブレス・オブリージュ(高貴な身分にともなう義務)」を果たすべく選ばれた人々の奮闘話だ。

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 キャッチフレーズは、

「この国の"空気"に戦いを挑んだひとりの男の子と、彼を見守った女の子の、たった11日間の物語」

 公式サイト

 この放送途中の番組について、総括めいたハナシをするのはよしておこう。というより、そんなことはしない方がよいだろうな。無駄だから。

 だから、この作品のシリーズ構成者、神山健治の思考の流れ、というか源流というか、「如何にしてこのモノガタリができつつあるのか」を、わたしなりに考えてみようと思う。

 まあ、思考のソース自体が、ざっと通し見しただけの本編だけなので、ヌケ、勘違い、浅慮などあろうかと思うが、番組放映後に制作予定されているらしい完結編映画用の、自分なりの備忘録として記録しておくものなのでお許し願いたい。

 さて、何から書こうか?

 まず、このハナシを知らない人のために、モノガタリのアウトラインを。

 持って回った劇的手法はうっちゃって、とりあえず内容のみを書くと、時は現在(厳密には2010年)トコロは日本。

 ある日本のカネモチが、特殊な携帯電話を作って、それなりに日本の現状に不満を抱く老若男女12人にそれを渡したことでハナシは始まる。

 その電話には特殊ボタンがあって、それを押すと、コンセルジュ(コンシェルジュっていい方は気取り過ぎててイヤだ)のジュイスという女性(実は人工知能らしい)につながり、自分の望みを口頭で伝えると、一度に実現可能なものは即受理して実現、複雑なものは細分化してシーケンスにしたがって実行、結果的に同等の効果を実現してくれる。

 いわゆる「魔法の杖」たる携帯電話を渡された人々のドタバタを描くハナシだ。

 魔法の杖がユニコーンの角ではなく、フェニックスの羽でもないのが現代的だ。

 ただし、この魔法の携帯電話には、ふたつの大きな矛盾がくっついている。

 ひとつは、選ばれた12人(セレソンと呼ばれる)は、「日本を正しき方向へ導く」ことが義務づけられていることと、その予算がたかだか100億円ということだ。

 およそ、ひとりの人間が、金の力だけで一国を変えることはできない(ただし外国による圧力を利用し、マスメディアを使った広域アジテーションを併用すれば、ある程度は可能か?)し、さらにその予算が「たった」100億では、何もできない。

 多少でも政治に興味があるなら、日本という(経済的、人口的に)巨大な国家が、その身を少し震わすだけで、1000億や1兆は吹っ飛んでしまうことは周知の事実だろう。

 100億は個人にとっては大金だろうが、国が相手だとハナクソにもならない。

 しかし、このことを逆に考えると、「たった」100億をいかに効果的に使って、巨大な龍を踊らせることができるか、という面白い思考実験にはなる。

 セレソンたちは、以下のルールに縛られている。

 1.任務を途中放棄し逃亡した場合
 2.長期にわたりノブレス携帯を使用せず何の成果も挙げられなかった場合
 3.100億円を個人の欲望に使用し続けた場合
 4.国(日本)を救う目的が果たせぬまま残金が0円になった場合
 5.最初に義務を果たしたセレソンが現れた後、その一人以外セレソンは全て自動的に殺される。

 物語冒頭、主人公の青年は、ワシントンD.C.で記憶喪失状態で登場する。

 物語のナゾを簡単に案出するために記憶喪失を用いるのは少しイージーな気がするし、その上、後に判明する、ある装置を使ってわざと記憶を失ったその理由が、脆弱すぎてどうにも感情移入ができにくい。

 日本に帰る途中、彼は、去年から、日本に十発を越えるミサイルが打ち込まれていることを知り、自分の持ち物、写真などから、自分がその事件とニート2万人失踪事件(殺害されたという説あり)の犯人ではないかとおそれるが、実際は、彼こそが、それら大災害の被害を最小限に食い止めるために孤軍奮闘していたことが後にわかる。

 やがて、記憶を失う前の彼を知る他のセレソンが、次々と彼の前に姿を現すようになる……

 というのが、だいたいの梗概(こうがい)だ。

 で、上で述べたように、どうしてこんなハナシになったかを考えてみる。

 まず、タイトルたるシステム「東のエデン」

 作中では、大学生たちが作り出した「画像認識応用型自動検索エンジン」を表している。

 ヒトコトでいえば、携帯電話で写真を撮って、それを検索文字列代わりに、検索にかけると自動的にネット上の画像データと比較して、その説明を表示するプログラムだ。

 これこそは、かつて神山健治が、攻殻機動隊で描いた、すべての人々がネットにつながり、知りたい情報を瞬時に自動検索する、自分用に特化され検索エンジンのプロトタイプとなるべきものだろう。

 これなどは、米SF作家J.P.ホーガンが「未来の二つの顔」で、「星を継ぐもの三部作」で活躍する人工知能ゾラックの雛形の成立過程を描いてみせたことに、どことなく似ている。

 さらに、このアニメは国家の安泰?を揺るがしかねない「多数の人々」についての問題提起も行っている。

 攻殻機動隊では、外国の治安悪化と政府の「エエかっこしい」から受け入れた「難民」たちが、東京湾上に作り出した海上都市を国家的問題として取り上げていたが、2010年程度の日本では、問題となるほどの難民は存在しないため、神山はニートを同様の集団として扱おうとしている。

 そして、セレソンたちの何人かは、案の定、「日本を正しい方向へ導く」ために安直なフェニックス作戦(かぶらや命名)を行おうと画策している。

 これは、神山の師匠筋である押井が映画「パトレイバー2」で竹中直人演じる自衛隊関係者に語らせている「日本を一度、焦土と化して火の鳥のように再生させる」計画と同じだ。

 人工的な災害で人減らしをし、ダウンサイジングした小さな国家としてのやり直しを謀る……実行可能であるだけに、その安直な発想は鼻につくが、反面効果的ではあるだろう。

 一方、オトナの視点でこの作品を見て、興行的にウマイと思うのは、鋼の錬金術師の「等価交換」同様、(あまり意味は無いものの)ワンフレーズで物語を代表させる言葉を定着させたことだ。

「ノ(ウ)ブレス オブリージュ」あるいはAIのジュイスが最後に付加する「ノウブレス オビリージュ 今後も世界の救世主たらんことを」などは、DVDのCMなどでも使いやすく、そして、おそらくは、若者たちが、これまであまり知らなかったフレーズとして、以後、ジョーク的に使われることになるのだろうな。

 願わくば、彼らがその本来の意味に気づいて、その意義に目覚めんことを……

 なんせハガレンの「等価交換」の時はひどかったモンな。
 「等価交換」を、あたかも熱力学第一法則(エネルギー保存の法則)のように考えて、同じ「マス」でないとイレカエが効かないといった誤った使い方をして得々としている子供たちのなんと多かったことか。まあ、そう思わせた制作者側も悪いのだが。

 それはともかく、

 この物語で面白いのは、セレソンたちが、何に金を使っているかが、他のセレソンたちに筒抜けであるということだ。

 だからこそ、主人公の青年は、他のセレソンによるミサイル攻撃による被害を、先回りして最小限にできたのだ。
(しかし、現状の日本のシステムでは仕方がないとはいえ、防衛システムコンピュータのハッキングを利用してミサイルを誤射させる、レイバー2の頃から進歩していない方法を使ったことは少し悲しい)

 その意味でも、主催者は、このゲーム(と主人公は思っている)を、お遊びとしてとらえている可能性が高いともいえる。

 それにしても、いくら考えても、たかが100億を渡して「日本を導け」とは常軌を逸している。

 複数のセレソンが協力して資金をあわせてるならまだしも(それでも1000億程度だ)、成功した一人以外すべて死、というシバリがそれを不可能にしている。

 今後、この物語がどこに進むかはわからないが、おそらくは、ダウンサイジングを目指すグループたちと、それを防ごうとする主人公の青年との戦いが主になっていくのだろう。

 そして、最後には、全てを束ねるフィクサー、亜東才蔵あるいは彼の残した精神的亡霊との闘い、ということになるのだろうな。

 なぜなら、主人公の滝沢 朗は、若き日の後藤隊長(パトレイバー)いや、より正確には、公安9課の荒巻大輔課長(攻殻機動隊)に他ならないのだから……

大人になったら……

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「子供は小さい大人ではなく、子供という異人種なのだ」という認識は、近代になってからの共通認識に近いものだと思いますが、身近な子供について、現在の彼らが異人種で、突然「オトナ」に変身するとなどとは、到底、わたしには思えません。

 やはり、彼らは、今の面影、考え方を保ちながら、大きくなっていくと思うのです。

 もちろん、人生を変えるような衝撃的経験をすれば、オトナになって、「昔の面影がないなぁ」ということになるでしょうが、そうでなければ、オトナはあくまでコドモの延長線上の生き物です。

 だからこそ、しばらくあっていない子供と、何年か経って会うのは楽しみでもあり不安でもあるのですね。

 そこいらに居る子供(失礼!)ですらそうなのです。

 まして、その子供が「独特の人物」であれば、期待と不安はいや増してしまうに違いありません。

 昨日、2007年制作のOVA「鬼公子閻魔」を借りてきました。

 「ドロロンえん魔くん」のアダルトバージョンです。

 確か、初版コミックの最終話にも、大人になった閻魔がでてきていたと思いますが、設定はそれとだいたい同じです。

 ドロロンにあった「コミカルさ」を廃して、妙にワルっぽいえん魔と意地の悪そうな雪子姫、悪党面のカパエルが登場します。画像↑参照

 出てくる事件も陰惨なものばかり。

 なんというか、リメイクされた「妖怪人間ベム」っぽい作りなのですね。

 全四巻、観てみましたが、あまり面白くはありませんでした。

 わたしが個人的に期待しているのは、荒木飛呂彦氏の「魔少年BT(ビーティー)」です。

 ご存じの方も多いでしょうが、荒木氏は、コミックに、大人BTのラフ・スケッチを書いているのです。

 それが、どことなく、あのディオ・ブランドーに似ていて、ひどく魅力的に見えるのですね。

 荒木氏はもう、過去の「波紋」や「手品トリック」(これは今も作中に使っていますが)とは決別して、あらゆることをネタにできる「スタンド」能力に夢中のようですから、バオー来訪者(スミレ大人版)もBT(大人版)も、書かれることはないでしょう。

 ただ……多くのキョショーたちが陥った、自分が生み出した全てのキャラを「連環」させたくなる衝動に荒木氏がとりつかれてしまえば、ひょっとしたら、そういったキャラクタを見ることができるかもしれません。

 そういった、オールスター作品が、本当の意味で面白いかどうかはわかりません。

 その昔、友人がいった「至言」をわたしははっきり覚えています。

「バイオレンス・ジャック、終わって見ればデビルマン~終わって見ればデビルマン~」

ふたりの男とひとりの女  ~エクスマキナ~

 今日は、WBC対韓国戦を観た後で、近くのGEOにDVDをレンタルに行ってきました。

 気になっていた映画(旧作ばかりですが)をいくつか借りてきて、一息に観てしまったところ、いつの間にか日付が変わっていて、ついに「一日一項目書く」というオキテを破ってしまいました。

 まあ、まだ寝ていないし、「0時を回っても今日のウチだろう」と気を取り直して、映画感想を書きます。

 今回のタイトルは、かつて書いた「ベクシル」と対になっています。

 タイトルは「エクス・マキナ」
 名作「アップルシード」の続編です。
 「ベクシル」同様、CGアニメーションです。

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 ジョン・ウーが制作総指揮をつとめました。

 おそらく、彼は、前作の「アップル・シード」に深く感銘を受けたのでしょう。

 

 しかし……口にするのは辛いことですが、格言「続編に佳編なし」は、この映画でも有効でした。

 続編で面白い映画を作れるのは、ジェームズ・キャメロンだけなのでしょうか?

 実のトコロ、あまり良い評判を聞かなかったために、今まで観るのを控えていたのです。

 実際に観てみると、評判通りでした。

 言葉にするのは、本当に辛いのですが、これはもう、続編の設定、脚本、演出の甘さという他はありません。

 「アップルシード」における、設定の雄大さ、ツブの細かさ、伏線の鮮やかさ、そして愛情のこまやかさ、どれをとっても、続編には受け継がれていないのです。

 あー辛い、こんなことを書くのは。

 わたしは、よっぽどの事がない限り、否定的なことはこのブログでは書きたくないのです。

 でも、仕方がない。

 映画を観ながら、「今回の脚本家は、アップルシード原作を読んでいるのだろうか?」と、なんども自問しました。

 映画が公開された時、公式サイトで、原作者の士郎正宗が、ヒロインの恋人であるサイボーグ、ブリアレオスのクローンが登場するという話に触れて、「僕の中では、彼は、大男の黒人というイメージなんですが……」と言っているというのを聞いて、我が意を得たり、と膝をたたいてしまいました。

 そのとおり、天才戦闘マシンのヒロインデュナン・ナッツが恋する男が、「エクスマキナ」に出てくる彼のクローンのように、すらりとした二枚目の東洋系なんてあり得ないでしょう。

 いろいろな意味で、前作の設定はすばらしかった。

 戦いで生き別れになった恋人と再会したら、彼はサイボーグになっていた。

 上半身は、まるでロボットだけれど、下半身には男性機能が残っていて、子供を作ることもできる。

 ヒロインは、彼のサイボーグ化をなんとも思っていないけれど、彼の方が妙に屈折していまっていて、なんかギクシャクする……という美女と野獣タイプのストーリーなんですね。

 二人の関係を縦軸に、新しい世界を作る、人間からデザインされたバイオロイドと、彼らを拒絶する人間たちとの闘いを横軸に、アップルシードと呼ばれるふたつの種族の行く末を決める鍵となるデータを探す、というのが前作の大筋でした。

 ざっと書いただけでも、内容が入れ子になっていて単純でなく、人間関係が魅力的であることは一目瞭然です。

 サイボーグ化した恋人が「まだ男である」というのも鮮やかな驚きですし、また、だからこそ、この映画のコピー「戦いが終われば、母になろうと思う」は秀抜なのです。

 そりゃ、サイボーグ009と003も、未来で子供を作ってますがね。

 もちろん、「エクス・マキナ」にも観るべきところはあります。

 それが、この項のタイトル「ふたりの男とひとりの女」です。

 サイボーグ化して顔がロボットのようになった恋人と、彼の遺伝子から作られた、人間である時の彼の顔と体を持つクローンの二人から、ヒロイン、デュナンは愛されるのです。

 もともとは、同じ人間だから、結局、同じ女を好きになる。

 おまけに、咄嗟にでるふたりの男の行動、しぐさは、まったく同じ……

 初めは、とまどうデュナンですが、彼女の愛はブレません。

 このあたり、もう少し突っ込めば良い話にできたのに残念です。

 物語の骨子となる、敵役ハルコンなるものも、まるでダメです。

 たしいた謎でもないし、そいつを生み出した武器製造都市「ポセイドン」が、あっさりとその破壊に協力するのもなんだかなぁ。

 そして、細かい内容たるや、中学二年生が「これがカッコいいんダゼ」とばかりに、手垢のつきまくった設定をつなぎ合わせて、あげく、アメリカ式O型性格まるだしの、「細かいことは気にすんなよ」式のハッピーエンド!とは酷すぎる。

 劇中で交わされる、彼らの言葉を書いてみますので、脚本が、どのくらい酷いかを分かってください。

「彼女にも、まだ人間の心が残っているはずだ。彼女に話しかけろ」
「私を壊してください。私に人間の心が残っているうちに……」

 あーやだ。もうカンベンしてよ。想像力ってもんがないのかなぁ。

 絵柄が第一作とは変わってしまっているのも、なんだかな、でした。

 いや、画風が少し変わるのは良いんです。

 でもねぇ……

 前作で、未来都市の執政官であるアテナは、もともとは美しい女性でありながら、結構年をとった感じで書かれていて好感が持てました。

 それが、今回の彼女は、顔に張りはもどるわ、髪型は若くなるわ、服の趣味は変わるわで、最初、違う役の人が出てきたのかと思ったほどでした。

 前作のサブ・キャラ、ヒトミも、印象からして全然違うから、誰か分かりませんでした。

 もちろん、前の方が、技術が未熟なため、人形みたいで違和感はあったのですが、それがバイオロイドという「ヒトでないもの」みたいな雰囲気をよく表していたような気がするんですね。

 今回のヒトミは、まるで人間だからなぁ。

 と、がっかりしているうちに、0時を回ってしまったのですよ(まだ言い訳を……)。

 しかし、収穫もありました。

 同時に借りてきた、これもずっと気になっていた、1993年にタツノコプロ創立30周年記念作品として制作されたOVA版キャシャーン(全4話)が、なかなか良かったのです。

 これは、今の「キャシャーンSins」ではなく、オリジナルのキャシャーンの世界観をそのままリメイクした作品です。

 上月ルナは、オリジナルもびっくりの「セクシースタイル」ですし、キャシャーンはなんだかデカい!

 それに、ちょっとロボットっぽい。

 愛犬ロボット、フレンダーは、まるでロボット犬みたいだし(当たり前だけど)……

 そして、わずかに世界観がシビアになっているんですね。

 これはなかなかいいですよ。

 DVD一枚に全四話が入っているのもお借り徳ですし。

 キャシャーンのパラレルワールドとして、一度ご覧になっても良いかと思います。

 本当のことをいうと、キャシャーンを夢中で観ている間に0時を回って……(もう良いって!)

 あと、怪作「カイバ」(あのマインド・ゲームの湯浅政明監督作品)の最終話と、なんか気になっていた、『ドロロンえん魔くん』のコミック色を廃した大人版「鬼公子炎魔」も借りて来ました。

 これも、観てみて書くに値するものであれば感想を書くつもりです。

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