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いびつなループ ~スカイクロラ~

押井 守監督作品「スカイクロラ」を観た。

http://sky.crawlers.jp/index.html

 かなり限定された映画館、時間帯だったので苦労しました(上映時間が21時~23時のレイトショー・オンリーってアリ?)。

 観終わった感想は……さて何から書こうか。(いつもどおり、盛大にネタバレしてます。注意)

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 「子連れ狼」「クライング・フリーマン」で著名な劇画原作家、小池一夫の作風を形容する言葉に「永遠の堂々巡り」というものがある。

 どの作品の主人公も、場所と敵は変わっても毎回の行動自体が、ほとんど変わらないことを揶揄して使われる言葉だ。

 それは、彼主催の劇画村塾で展開される持論「くっきりと立つキャラクターを作れば、物語は自然にできていく」という創作メソッドにも問題があるのだが、ともかく話が進んでいかない。

 かつて六田登が、レース漫画「F」で、主人公の父親に「レースは同じところをぐるぐる回っているだけじゃないか」と主人公を非難させ、後に主人公が「レースはただ同じところを回っているんじゃない、少しずつであっても螺旋状に進んでいるんだ」という答えにたどり着くシーンを描いたが、小池氏作品は螺旋ですらない。
 ただ円を描くだけだ。ぐるぐるぐるぐる、と。
 円周率同様、円には終わりがない。
 だから、小池氏の作品には終わりがない。(個人的には好きな作品が多いが)

 だから、昨日と変わらぬ今日があり、おそらく明日も同じように闘いの日々が続くだけ。
 最終回「サァ、これからもやりつづけるぞ、おわり」というように、すっきりとした収束感のないままラストを迎える作品がほとんどだ。

 そして、「スカイクロラ」は、まさしくそういったループ・タイプの作品だ。

 ただ、「スカイ~」の問題点は、作者の体質で堂々巡りしてしまっている作品ではなく、作り手が考え出した設定、世界観で内容が堂々巡りしていることだ。

 小池氏のように、作者の限界でストーリーが無限ループに陥るのは仕方がない。
 これは正しく「死に至る病」で手当の施しようがないからだ。

 だが、他方、世界観、設定で堂々巡りになっているハナシは、それを破綻なく構築し、維持することが難しく、作者が意識的に創り出したループ世界ゆえに、彼には理屈をうまく整合させる責任がある。

 よほどうまく設定を作っておかないと、イビツで穴だらけの話になって興ざめしてしまうのだ。

 ああ、設定で思い出した。
「ヒトでないものによる代理戦争」という話は、ジャンル化するほどさまざまな種類のものが発案されてきた。

 永井豪の佳作「真夜中の戦士(ミッドナイト・ソルジャー)」(さすがに続編はいただけなかったが)などもそのうちのひとつだ。

 よって、よほどうまく世界を作らないと、二番煎じ、あるいはご都合主義感臭が鼻について嫌になってしまう。

 きちんと世界構築がなされ、説明責任が果たされないと、キルドレという名の人工生命体たちは、確かにカワイソウだけど、なんか嘘くさくて泣けネェなぁ、という気持ちが勝ってしまうのだ(わたしはね)。

 気になる点はいくつかあるが、特に気になるのは、スカイクロラが「いつまでも続くエンドレス・ウオー」みたいな体裁をとっているくせに、実際のところ、小池作品のように本当の円周を堂々巡りしているのではなく、少しずつ世界が変わって行っている点にある。

 たとえば、主人公である、年を取らない永遠のピーターパンたちが乗るプロペラ戦闘機は、牛歩の歩みながら着実に改良が続けられていることが作品内で語られている。

「彼らは変わらない、だが、彼らの装備と世界は変わる」→「しばらくすれば永遠(であるべき)ループは破綻する」

 つまり、「スカイ・クロラ」の行き場のない、やりようのない閉塞感の源、「永遠に続く(無意味な)闘い」が、永遠でなく、もうすぐ終わってしまいそうに感じられるから駄目なのだ。

 それともうひとつ、クローンたちに、勝手に性交渉をおこなわせ、生殖することを黙認しているのもおかしい。

 あるいは、何かの実験なのかもしれないが、それならば、周りからそれを監察する、公安のような存在(を我々に知らしめること)が必要だ。

 社会派(思想的)リアリズム(あるいはポリティカル・アクションと言い換えてもいいが)をカラーとしてきた押井監督ならば、そういった監視人の存在をもっと明確に出すべきだった。

 個のキルドレに蓄積された戦闘ノウハウ(知識)が、次のキルドレにコピーされている事実から、明らかに今作られつつあるキルドレと現役のキルドレ間で、「知識の並列化」が行われているようだが、映画の中でそういった描写は一切無い。

 かつて、押井は弟子に、攻殻機動隊(笑い男)で、AI戦車タチコマたちに知識を並列化(共有化)させていた。

 だから、考えが及ばないはずがないのに、その説明も割愛している。
 スカイクロラは、なんだかスカスカな感じのする映画なのだ。

 物語は、ただ、命じられるまま闘い、死ぬキルドレの視点によってのみ描かれる。
 それは、ある効果を狙った表現方法なのだろうが、映画が終わるまで、ほとんど世界に対する情報が観客に与えられないというのは、制作者の怠慢にしか感じられない。

 わたしは、理屈っぽい性格のためか、説明不足の物語は、SFやファンタシーすら抵抗を感じる。

 もう少し正確にいうと、たとえ平行宇宙であっても、あるいは天国でも、地獄でも、そこでは、その世界をその世界たらしめている経緯と、そこで動くイキモノの理屈にあった思惑があるはずだと考えてしまうのだ。

 それを無視して、とにかく自分の都合のよい設定だけで世界を構築し、あとは想像してください、じゃあ感動もなにもできない。

 わたしが興奮したり興味をもったりするのは、時代が違えば、あるいは立場が違えば、この状況下では自分も同じ事をしたに違いない、という、逃げようのない圧迫感、恐怖と言い換えてもいい、それを感じられる物語だ。

 例を挙げれば、横溝正史の「悪魔の手鞠唄」(市川昆監督)。

 冗長になるが、少しあらすじを紹介しよう。

 故郷に恨みをもつ男が、名を変え、詐欺師となって村に帰り、貧しさ故にかつて自分を蔑んだ名家の娘たち三人と、復讐心から関係を結び、子供を産ませる。

 男の妻(彼はすでに結婚していたのだ)は、その事実を知り、自分と二人の子供を捨て、娘の一人と村を出て行こうとしている夫を殺してしまう。
 頭を殴られた男は、そのまま囲炉裏の火に顔を突っ込んで顔の判別がつかなくなった。
 警察は、妻の証言から夫が詐欺師に殺されたと断定、そして二十年が過ぎ去った。

 ある日、妻は息子から恐ろしい事実を告白される。
 二十年前、夫が産ませた娘の一人と結婚したいというのだ。
 妻は、懸命に息子を止めるが、若い二人はいうことを聞かない。
 事実を息子に話すわけにはいかない。そのためには、自分の殺人を話さなければならないからだ。
 ついに妻は娘を殺す。
 だが、残った娘のひとりが、やはり息子を愛しており、ライバルが居なくなったために、息子に猛アタックをかけはじめる。
 結局、妻はその娘も殺す。
 折から、十数年前に村を捨てて出て行った最後の娘が、映画スターとなって凱旋帰国(というか帰村)してくるのだった。

 もし、息子があの娘を好きになったら……妻が次に狙うのは美しく育ったその娘だった。

 ね、舌足らずでもうしわけないが、なかなか良いでしょう(ヒトリヨガリデモウシワケナイガ)。

 「未来世紀ブラジル」や、G・オーウェルの「1984」も、自分が生きる世界だとしたら苦しいだろう。そう思わせるリアル感がある。

 わたしは、なにも非現実的なものがいけないといっているのではない。

 たとえば、これは項を変えて書こうと思っているが、バロウズの「裸のランチ」(映画版のクローネンバーグのやつね)などはなかなか良いのだ。

 あれは、麻薬中毒者のタワゴトで、幻覚だらけの作品だが、それはそれで背筋が通っていて好感が持てる。

 文字と同じで、個別の字はへたくそでも、行あるいは列のセンターが出ていれば、それなりに読みやすくわかりやすいものだから。

 わたしはスカイクロラの、人に内在する闘争本能を満足させるために、ヒトでないものに代理戦争をさせているらしい「平和を成し遂げた世界」というものの存在が、どうも画的に1950年っぽいのが気に入らなかった。

 もう少し科学力が進んだ世界観でも良いはずだ。

 物語の中でも、キルドレは偶然に生まれた技術で、と言われてはいたが、クローン技術や、記憶操作だけが発達した世界で、世の中全体が、ジェット機誕生以前の世界観のままというのはご都合主義すぎていただけない。

 ほんの少しだが画面に映る世界地図も、我々の世界とはまるで違うから、おそらくは欲しい部分だけが実現した世界を創り出す、ご都合主義的パラレルワールドなのだろうが、それでもおかしな点が多すぎる。

 だいたい、年を取らないクローンが生まれたら、そいつらを使って代理戦争をさせるより、もっとさせることがあるはずでしょう。

 まっさきに考えられるのは、いわゆる臓器移植の献体にすることであろうし、次いで下級労働に使うことが考えられる。

 「できてしまった技術」は封印することが難しい。
 人類にできることは、ただ何か(神、仏、それとも?)に祈りつつ、それらをコントロールする術を身につけようと努力するしかないのだ。
 それは法的整備であったり倫理面の強化であったりする。

 数が揃えば地球を吹っ飛ばすことの出来る核爆弾が発明されてから、各国が持ち合いをし、協定を結び相互監視することで、今のところ何とかコントロールはされている。
 ま、この均衡がどれぐらい続くかは怪しいものだが。

 あるいは、ヒトゲノムの基本部分が写し取られ、人類がクローン技術の端緒についた近年、想像するだに恐ろしい悲劇が間近に迫っていることだろう。

 倫理部分をクリアするための、臓器のみをピンポイントで作る技術(いわゆる胚性幹細胞<ES細胞>)の開発)はまだ人の手に余る。

 だが、死にたくない高齢権力者は待つことができない。
 よって、生き延びんがために生み出される「部分的でない」クローン(こちらはまだ技術的に楽だ)から必要な臓器のみを取り出して利用するといった悲劇は今後次々と起こっていくだろう。

 そういった悲劇を乗り越えないと、おそらくヒトはクローン技術を制御し、あるいは封印することができない。

 そして、一般の人々が臓器移植やゲノム解析で不死になり、他の星からの資源搬入が円滑に行われナチュラル・リソースの不安が無くなって初めて、アソビのために資源を無限浪費する代理戦争を楽しめるようになるはずだ。

 そういった問題点をクリアせずに、いきなりクローンに代理戦争させる世界というのは実際考えられない。

 あるいは、「自分たちにはない永遠の青春」を手に入れてしまったピーターパンたちに対する、古き人類の嫉妬がその遠因となっているのかもしれないが。

 それにしても動機としては少し弱いようだ。

 そういった矛盾点は、アニメ世界に社会的リアリズムを求め続けてきた押井の作品としては甚だ奇妙に感じてしまう。

 「スカイクロラ」はシリーズの最後になる作品らしいから、原作では、それまでに、きっちりとした作り込みがなされているのかもしれないが、映画では、最後に出てくる、遺伝子操作で女性にされたらしい主人公のクローンの独白めいた台詞で少し語られるだけなので、何もわからないままだ。

 あと、キルドレって、たぶんチルドレンのことだろうが、なんとなく「ジル・ド・レィ」に音が似ているのが気になるな。

 もっとも、あっちはジャンヌ・ダルクの盟友、救国の英雄にして後に黒魔術に傾倒し、蒼髭のモデルになった男だからまったく無関係か。

 名前といえば、主人公の前に部隊にいた男が(つまり彼自身だが)「仁郎(ジンロウ:人狼)」と呼ばれていたのも面白いが、ヒロインの名前が草薙水素(クサナギスイト)で、顔は、まんま攻殻機動隊の草薙素子(クサナギモトコ)っていうのはどうなんだろう?

 作者の森博史嗣(モリヒロシ)の作品は、「すべてがFになる」しか読んだことがない。
 本人はどう思っているかわからないが、現役(当時)の理系大学(建築らしいが)の講師だったか助教授だった肩書きと、作品内容から理系本格推理(だったかな?)というようなことを言われていたはずだ。

 ちなみに、わたしは何の先入観もなく「すべてがF」と聞いて、まず頭に浮かんだのは、16進数のFのことだった。

 全部がFになったら、次の瞬間には、スタック・オーバーフローを起こしてしまうな、と思って読んだら、それがオチでびっくりした覚えがある。

 内容は変わった名前の主人公たち(「謎の天才女性科学者」など)が孤島の研究所で何かする話だったはずだ。

 あと、本来ならスカイ・クロウラーと発音すべきところを、クロラにしているのは、いくら理科系の論文では、JIS規格(Z 8301)にのっとって三文字以上の言葉の長音記号は省略するのが通例といっても、もと理科系のお学者さま(くどいようだが建築家らしい、今は辞めてフリーらしいが)を表に押し出した過ぎているような気がするな。
 なんとなく雰囲気で、いい加減に「コンピュータ」と「イラストレーター」を混在表記するブンカケイの作家の方が、いっそ好感が持てる。

 とまあ、欠点をあげつらったが、「スカイクロラ」原作および設定はともかく、アニメーションにおける戦闘シーンはナカナカ良い。

 乗降時の風防の手動オープンシーンに始まって、背面飛行しつつ飛んでいくところ、おそらくかつてあまり描かれたことがないであろう、着弾による操縦者の死亡シーンなども素晴らしい。

 ちょっとアンニュイな、というよりかなり病的に陰鬱な映像表現(フィルタリングによる空気感というべきか)も、一億総神経症に冒されつつある現代日本人には共感できるところもあるかもしれない。

 さらにいえば、戦闘妖精雪風のように、マッハの速度で飛ぶ怪物同士の闘いでないところがいい。
 主人公たちが、単発や双発のプロペラ機に乗ると言う設定が素晴らしい。

 空中戦が、もっとも面白いのは、飛行機の速度が人間の反射神経で制御できる程度であった内燃エンジン機までだからだ。

 ジェット系の外燃機関がメインの戦闘は、速すぎてコンピュータのアシストなしでは戦えない。

 実際に、コンバット・フライト・シミュレーターなどのソフトを、フィードバック付操縦桿で遊ぶと、最高に面白く、わたしも一時期熱中した覚えがある。

 付け加えれば、(原作は知らないが)映画の中で語られる「戦争」が空中戦のみというのも、設定としては、なかなかにウマイ。

 人類始まって以来、営々と続けられてきた戦争には、逃れようのない法則がいくつか存在する

曰く、
「戦略のミスは戦術では覆せない」
「戦争は地上部隊の投入によって初めて終結する」
等々。

 特に、二番目のものは、戦争を終わらせるためには絶対に避けられない行動パターンだ。

 さきの戦争で、アメリカ軍は、ミサイル攻撃と空爆の空中戦の後、地上部隊を投入したものの、それらはテロ攻撃を受け続けている。

 だったら空爆のみで戦争を終わらせれば良いと考えるのは素人だけで、戦争は陸軍なしには終わらない。

 清潔なコクピット環境からの攻撃だけでは、絶対に戦争は終わらないのだ。

 兵士がドロにまみれ、現地の人間と直接接触してのみ、戦争は終結する。

 逆にいえば、永遠に戦争を続けたければ、空中戦のみをしていれば良いのだ。
 相手の土地を占領、制圧せずに、ゲームのようにただ戦闘戦術を競うだけの闘いを。

 つまり、これがキルドレが演じる戦闘ゲームだ。

 戦争を終結させないためには、戦闘によって流す血を世間に見せず、その量を限定することが肝要なのだ。

 それにぴったりなのが、飛行機によるコンバットだ。

 だが、血を流さないが故に終わりを迎えられない戦争という設定なら、かつてスタートレックオリジナルシリーズTOS(カーク船長のやつ)で描かれた、国同士のコンピュータによって戦況が決められ、確率で死亡決定されただけの人民が、黙々と自発的に処理マシーンに入って死んでいく戦争が二百年以上続いているという世界の方が私にははるかに恐ろしい。

 あと、ティーチャーと呼ばれる、ただひとり大人のスーパー戦闘機乗り(大人げねぇ奴だよ、まったく)が出てくるんだが、説明不足だし、よくわからないし、そんな奴どうでもいいや。

 「スカイクロラ」
 雰囲気だけで映画を楽しめる人は、観てもいいんじゃないかな。

 実際、かなりの人が、この作品の雰囲気を愛し、静かでストイック(というか、わたしはそれを操作された無感情というべきだと思うが)なキルドレの言動を好ましく思っているようだ。

 これを、ほぼ書き終えてから他の人の感想を読んでみると、皆、すばらしく深読みをしていて感動させられるばかりだった。キルドレを現実のピーターパン・シンドローム(死語?)の若者と重ね合わせ、場合によっては、押井監督の言動、コメントを含めて解釈を試みる人すらいるようだ。

 でも、それって本当に作品自身を評価しているのかなぁ。

 そして作り手の態度はそれで正しいのだろうか?
 わたしが、何か作品を書くときに気をつけているのは、自分(作者だけ)が分かっていることを、皆が知っていると思って書かないようにする、ということだから。

 あ、そうだ。今、思いついた。
 たった、ひとつ、この作品を理解するのに最適な方法があった。
 「スカイクロラ」を寓話、つまりオトギバナシと考えることだ。そうすれば整合性など必要なくなる。雰囲気だけで、ほんのりメランコリックで女性的なストーリーも納得できる。
 女性あるいは、女性コミックに親しんだ男性にはウケるだろうな。

 最後に、この映画のキャッチ・コピーは

「もう一度、生まれてきたいと思う?」

という、ちょっとフェミニンなものだが(そうか、脚本は女性?)、多少の悪意と揶揄(やゆ)をこめて、わたしがコピーをつくるなら、

「また、あのひとは新しくなって還ってくる」

にするだろうな。

迷いのない目 ~スピードレーサー~

ファイル 94-1.jpg かなり多くの人が、CGを全面に押し出した映像に拒絶反応を示した結果、同時期に始まったインディ4がロングランを続ける中、早々に打ち切られてしまった。

 この作品については、観る前に一度書いていたと思うけど、実際に観た感想を以下に書いておきます。
 

 物語終盤、グランプリ・レースで出遅れたスピード・レーサー(三船剛)が先行車をゴボウ抜きしていく場面で、アナウンサーが叫ぶ。

「素晴らしく速い。迷いの無い走りです」

 そう、世間の評価はともかく、主人公同様、映画の制作者マトリックスのウォシャウスキー兄弟、そして監督のジョエル・シルバーの瞳にも全く迷いはなかったはずだ。

 いかにもアニメ的な原色使用のド派手な背景処理も、顔の向きが変わるにつれて背景が変化するといった、アニメ的なショットの切り替え方、そして三船オヤジが頭の上で悪漢どもをクルクル回すと、ポケットに隠し持ったシュリケンが、次々と壁に刺さる演出まで、原作通りの世界観で統一している。

 いくらオマージュったって、もうタツノコ作品をリスペクトしすぎ。

 結論からいうと大好きな作品で、何度か観てしまいました。

 ただ、惜しむらくは、レースの最高峰グランプリ、つまり最終レースを、いかにも未来的な立体鋼鉄コースにしてしまったことだ。

 60年代、レースのことをよく知らなかった吉田竜夫たちが、憧れと勢いで作ってしまったアニメ作品「マッハGOGOGO」は、どう見たってオンロード使用のレースカーが、だだっ広いラリーコース(しかも、砂漠や洞窟などの極限コースばかり。不思議と雪コースはない)を、バリバリ違法なギミックを使用(ご存じのように、それらはステアリングポストにあるA-Gのボタンで起動する)しつつ駆け抜けるストーリーだった。

「スピード・レーサー」でも、物語の途中で「悪事を暴くため」ということで、ラリーに参加し、いかにもCGっぽい軽いジャンプを繰り返して優勝するシチュエーションはある。

 だが、それで我らが2シーター仕様のマッハ5(日本じゃマッハ号だったのに向こうじゃマッハ・ファイブと呼んでいた)の出番はおわり。

 最終グランプリには、スピード一家総出で、スーザン・サランドンママのアメリカではよくある、ママの愛情とコレステロール満載のジャムたっぷりパンケーキを食べながら、三十二時間で作り上げたシングルシート・タイプのマッハ6が出場する。

 しかし、シングル・シートじゃミッチ(じゃない、ドングリ眼のクリスティーナ・リッチ演じるキュートなトリクシー:好きです)とのデートもできゃあしないし、クリ坊&サンペイ(なんか英語名忘れたな)が、トランクに隠れることもできないじゃないの。

 やぱり現実的には、レースと言えばF1がメジャーであるから、未来においてもサーキット・コースが、最終グランプリコースになってしまうのだろうねぇ。

 そこんとこ、ちょっと頭が堅かったかな。

 本当に原作を敬愛するなら、最後もラリーでいってほしかった。

 どうせ未来の話じゃないの。

 積んでいるエンジンも、ベルヌーイ製のコンバーティネーターと称する、なにやら超伝導エンジン、つまり無煙電気エコエンジンみたいなんだから、レースのほうも、自然を駆け抜けるラリーが「キング オブ レース」になっていても不思議じゃないと思うんだがね。

 ホント、なんかあのグランプリが気にいらんのよね。

 ちゃちい鉄骨組み合わせたみたいなスケスケ・コース。

 そりゃ最大斜度45度以上の下り坂とか、ぶつかったら一発オシャカのトゲトゲコースとか、魅力的な仕掛けはいろいろとはあるけれど、なんかねぇ。

 今なお、おもちゃ屋で販売され続けている、数種類あるレース・トイ(ホイールではじき出されたレースカーがレール上を走り回り、最後は空中に飛び出して、再びコースに戻っていく:商品名:ホットウィール・スピードレーサー・マッハグランプリ・スカイジャンプ)を売らんがための、設定のような気さえしてくる。
ファイル 94-2.jpg
 まあ、その辺の事情は、日本の特撮モノとは違うと思うが……。
 (恥ずかしいから、ちっちゃい声でいうが、なんかこのコース欲しくなったな。イイトシして情けないが。しかし買っちまうと邪魔になるだろうな)

 前に書いたけど、ジョン・グッドマンって凄いねえ。

 何をやってもアニメ顔そっくりになってしまう。

 ベーブ・ルースも似ていたが、ヤバダバドゥーのフリントストーンもそっくりだった。
 そして、今度はあろうことか、日本人の三船オヤジにそっくりになってしまったのだ。

 たしかにタツノコの登場人物は、意味もなく純粋日本人の目が青かったりするが、あれはちょと異常なぐらい似ている(アゴの肉とかさ)。

 ともかく、スピード・レーサー。

 絵柄で毛嫌いせず、ぜひ一度観て欲しいものだ。




やった!もうすぐ、スピードレーサーを家庭で観ることができる!

すべてのダイオンとともに ~ライラの冒険~

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 公開直後に観てから、もうずいぶんと時間が経ってしまったが、「ライラの冒険」について、感じたことを書いておこう。

 わたしは、もともと、こういったファンタシーに関して特に興味は無い。

 実際に、連綿と歴史で形作られてきた魔術や導術に関して造詣が深くない者が書いた魔法世界モノ(多くの和製ジュブナイルやライトノベル、著名な外国作品でさえ)は、浅薄すぎて読むに堪えないし、そういった知識を持ちすぎた作者が書いたハナシは、知識の呪縛から逃れられずに、思い切ったプロットを作り得ず、全般に類型的なものになってしまいがちで、どちらにせよ、おもしろいものは少ないからだ。

 原作は知らず、映画を観る限りでは、本作もその傾向から免れていない。

 主人公ライラは、決して一般的な美形ではないから、美しい生き物が伸びやかに動く様を鑑賞する、といった映画の見方はできない。

 だが、映画が始まると、そんな不満はどこかに吹っ飛んで、すぐに胸中に鮮やかな感動が広がっていった。

 その理由は三つある。

 ひとつはダイモンだ。

 オープニングのモノローグで説明されるように、我々の住む世界では、魂は肉体の内にあり、外から見ることはできないし、切り離すこともできない。

 だが、ライラの世界では、魂はダイモンと呼ばれ、動物の形をとって常に人間の脇を歩いているのだ。

 つまり、否応なくあらゆる人が、ひとりに一匹の動物を従えて、町を野を部屋を歩いている。

 その魂の性格に見合った動物を。

 小柄な人物が巨大な虎を連れていることもあるし、大男が小さな猿を従えていることもある。

 問題は体格ではなく魂の性質なのだ。

 これが良い。

 全ての人間が、様々な種類の動物をひきつれ、道を歩いている。壮観だ。

 この景色を見るためだけでも本作を観るべきだ、といいたいくらいだ。

 少し気になったのは、悪の側の目的、動機がよくわからない点だ。ダイモンを人から切り離そうとしているのは分かるが、その理由がわからないことだ。

 いまのところ目的が不明。

 だが、「目的がよくわからない」ということは、この映画の疵にはなっていない。

 以前に、どこかで書いたかもしれないが、ゲド戦記でゲンナリしてしまったのは、悪役の魔女?が、彼女の最高の望みは不死の命だと叫んだことだった。

 あれには驚いた。

「そんなものが、その程度のモノが望みなのか」と。

 ヒトゲノムに知識のメスが入り、科学的な不老不死化が現実味を帯びてきた現代において、不老不死はそれほど高望みではない。

 それよりも、ひも理論によるミクロとマクロの融合、言い換えれば巨大なブラックホール内の極小な事象の解析、大きくて小さい出来事の解明の方がはるかにエキサイティングだし、ミステリアスだ。

 原作が書かれた年代を鑑みても、やはり、ゲドの作者のセンスの悪さは否めない。

 「この世の全ての事象を知り尽くしたい」という希有壮大な野心や、いっそもっと下世話に「世界を征服して人々を意のままに支配する」といったコテコテの野心の方が好感が持てる。

 不老不死などと、カビの生えたような目的を声高に叫ぶより、不明にして引っ張った方がおもしろい。

 この映画に関してもうひとつ感じたのは、絶滅を危惧されるホッキョクグマをライラのボディーガードに設定したのは正解だ、ということだ。

 後に、クマ王の座を賭けて行われる決闘は大迫力。

 敵の王(ホッキョクグマ)が、人間同様のダイモンを欲しているという設定も良い

 ライラの世界では、人だけが、動物の形をしたダイモンを傍らにはべらすことができるのだ。

 ライラはそれを利用して、ダイモンに化け、クマ王を陥れようとする。

 さらに、ライラを助ける老ハンター(クリストファー・リー)の恋人である若い魔女が、「昔の彼は本当に若くて力強くて美しかった」とライラに告げるところも良い。

 年を取らない魔女が、年老いてなお勇猛なかつての恋人を助けて闘うのだ。

 ストーリー自体は、ややもすれば陳腐になりがちなものではあるが、このように、設定がタッテいるために、観ていて飽きるということがない。

 我々の世界を舞台とすると言われている第二作が楽しみだ。

 ところで、黄金の羅針盤って何の意味があった?

 なんだか予知アイテムみたいな使われ方だったが……




上記DVDは、スペシャル・エディションです。

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